それじゃあ、いつからだったのかな。
軽い気持ちで部室の扉を開き、異世界へと足を踏み入れてしまった時? 廊下の先にいた彼女が、今にも消えそうな雰囲気を纏っているように見えた時? それとも、この世界の異常が次々舞い込んできて、頭の中を埋めつくしてしまった時?
……いいや、それらがあなたの焦りに餌を与えていたのは事実なんだろうけどさ。垂れ続ける水滴を受け止めていたコップから、ついには水が溢れてしまう瞬間に似たタイムリミット。それが訪れたのは、あの時だったんじゃないかな、と思うよ。
今、直面している現状に身を沈め。
過去、歩んだ道が星の光で照らされて。
そして、目を向けられるものが「未来」だけになってしまった、あの瞬間から──
◆◆◆◆◆◆◆◆
プシュー……ッ、と排気熱が放出される音を最後に、あれほど騒がしかった廊下は一旦の静寂を取り戻していた。
「ふぅ……。やりました! 作戦成功です! ケイ、大丈夫でしたか?」
「──アリスのおかげで、何ともありませんよ。よく頑張りましたね」
えへへ……と、誇らしさや照れくささで色づく笑顔が、チカチカと点滅する蛍光灯の下に咲いていた。その親愛に精一杯報いろうと、胸の内にある感情をさらけ出し、この上なく大切なものを見つめる眼差しを向ける。少しでも長く、彼女の顔を見ていたい。自分でも計りきれない名残惜しさが、光の余韻としてケイの胸中に残されている。その感覚を大事に握りしめながら、おぼつかない後ろ手でモニターの決定ボタンに指をかけた。
『──「天童ケイ」、正解です。あの問いを受けてこの名前を打ち込めた、ということは。私たちの仲間の誰かか、世界の真理に通じる賢者か……もしかしたら、本人が画面の前にいるのかもしれませんね?』
「……まったくもう。知ったような口を聞くんですから」
『さて。次がいよいよ、最後の質問ですね』
憂いを背負う必要のない談笑がようやく叶うと思っていたが、どうやらそれは、もうしばらくお預けのようだ。
残響がまだ、耳にこびりついている。そう錯覚してしまうほどに、この短時間で馴染みにさせられていた、ガチャガチャと騒がしい駆動音。聞こえてくるのは頭蓋の内か、廊下の先か。
脳が正常な判断を下すまでに数秒。これは、幻聴じゃない。そう確信した時には、何事もなかったかのように、ドローンの集団が奥の角から再び姿を見せていた。
「わ、わぁ……! 次のウェーブの敵がもう来ています!」
「アリス、あと少しだけ時間を稼いでくれませんか? 扉が開いたら大声で呼びますので、そのタイミングで走り込んでください!」
頷きバタバタと敵の妨害に向かうアリスを見送り、ケイは問答の終着点へと、慎重に足をかける。
『それでは……「もう一人の帰還者。
「……ええ、もちろんですよ。前問の答えが私だったんですから、最後も関係のあるものが聞かれるだろうと予想は立てていました」
かの大陸からキヴォトスへと迎え入れられた、もう一人の仲間の姿が、脳裏にハッキリと浮かび上がる。決して手放すことのできないものを体に縫い付けて、あの夕暮れ、黄金色の空へと生まれ落ちた娘の姿が。
──ともすれば、この場で見逃されている二人の意識すらも。永遠に続く、代償の求められないモラトリアム……そうである保証は、どこにあるのだろう?
「……『マルクト』、あなたは」
「おみごと、全問正解です。最大の賛辞をお送りしたい気持ちはありますが、もはやあなたに言葉は不要でしょう。……ようこそ、
「──アリス! こっちです!!」
音声の停止から一拍おいて。ウィーン……と場違いに静粛な動作で、ようやくその門戸が開かれる。
至近距離にいた二、三機の敵を薙ぎ払う音を合図に、急反転したアリスが絶好のスタートダッシュを決めた。少し遅れて残りのドローンが、先頭の背中を追いかけ始める。あと十メートル、五メートル……ゴールラインを割ったその瞬間。部屋の内側で構えていたケイが、今だ、と間髪容れずにボタンを押し込んだ。
二番手以下の走者は、勢いを殺せず直前で閉まった扉に叩きつけられる。銃撃や体当たりを繰り返している音が、数十秒ほど、分厚い金属壁越しに聞こえてくる。固唾を飲んで扉を見守っていると、いつしか目標を見失ったことに気づいたのか。少し遅れて、そこにあるべき閑静とした雰囲気が帰ってきた。
「はぁ~~……。まったく、随分と賑やかな歓迎でしたね……」
「アリス、とってもひやひやしました……。戦闘前から光の剣を装備していなかったら、ピンチだったかもしれません……」
荒く繰り返される二人の呼吸が、次第にペースを緩めていく。
心の拍動が鳴りを潜めることで、鼓膜を震わす息遣いが霧散することで、空いた隙間に快い安堵が満ちていく。──本来なら、それだけを心待ちにできていたはずなのに。四方を壁に囲まれた人気のない密室が、微かに聞こえる換気扇の音だけが全ての静寂が、どうしようもなく心を揺さぶってくるのを、ケイは止めることができなかった。
この部屋に到達すること自体は、決してゴールなどではなく。彼女たちはようやくスタート地点へ立ったに過ぎなかった。ここから見つけなくてはならないのだ。存在しているかも分からない、現状を打破する方法を。
自身の周囲の空間、三百六十度が、果てしない虚無に取り囲まれている光景を幻視する。どこに進んでも何が起きるか不明瞭で、そもそも先へ踏み出すことすらも正解か分からない、暗雲に隠された未来。二人が決して逃れることのできないその運命を、身をよじって逃れようとする間もなく見せつけられる。いつ消えてもおかしくない足元の地面。そこに映るのは、行先不明の獣道、その始まりの端切れ。