(次は、こっちを)
所狭しと機材が押し込まれた部屋の一角。幅広い横長のデスク前に鎮座するケイは、軽く頬杖をついて、右手に握られたマウスを漫然と滑らせる。画面に映った大量のウィンドウは、いくら手を動かしても数を減らす様子を見せていない。まるで、どれだけ枝をかき分けても、深く茂った樹海から抜け出せないように。
(あと少しで、何かが見つかってもおかしくないのに)
何かを見つけなければ。ケイの抱くシンプルな願望は、根拠のない薄っぺらな予感でコーティングされている。そんな見せかけの塗装でも、立ち止まり場を俯瞰しようとする彼女の正気をひた隠しにするには十分のようだった。この調査で進展がなかった場合、次に取らなければならない行動。二人の肉体、精神の状態。残されている時間……。懸念されて然るべき問題は覆い隠され、彼女の思考は、居所不明の手掛かりを追うことだけに専念する姿へと捻じ曲げられていた。
一体どれほどの時間、モニターを見つめているのだろうか。
これまでに分かった事実といえば、どれだけ細かくログを漁っても事件の起きる兆候が全く見当たらないこと、例の時刻以降、人為的な通信の一切が(ケイたちが試したものを除いて)パタリと止んでいること。そして、人の管理下から離れたシステムが警告を発し始めていることくらいか。どれも、ここに来るまでに想定できた事柄ばかり。
破壊を免れ、電力に余裕がある一部のドローンが、光の消えた野外の風景を送ってきている。あの声も言っていた、発電所が停止した影響なのだろう。
人力によるモニタリングが放棄された発電施設は、無秩序状態で引き起こされうる最悪の事態を回避するために、基本数時間で自ずと活動を停止する。オートメーション化が進み、キヴォトスで一、二を争うほど重大事故のリスクが低いミレニアムの発電所も同様に、最低限の機能を残して沈黙しているようだ。今や文明の光が残っているのは、ミレニアムタワーを始めとした学園の要所や、独立した発電設備を備えているこの部屋のような場所だけだった。
(……ここにいたのがリオやヒマリだったのなら、もっと上手くやれていたのでしょうね)
小さな拳に支えられた、斜めに傾いた顔を微動だにさせることなく、もう何度目か分からないボヤキを言葉に出さず反芻する。
部室に身を置きながら外部の情報を得ようとする試みも並行して行われていたが、そう簡単にいくものではなかった。即興で通信の中継システムを復旧、構築することは困難で、偵察へ出たドローンの活動範囲はミレニアム内の狭い地域に限定されている。
また、停電時間が長くなればなるほど、非常電源や無停電電源装置の補助を受けて稼働できる監視カメラの数は減っていく。だからこそ、今のうちに街々の様子を覗き見ようともしていたが、予め用意されていたプログラムを応用する程度では、システムの九割以上がダウンした発電所の暗がりや、人っ子一人歩いていない春葉原の歩行者天国を確認することはできても、他の自治区の内情を伺うことまでは叶わなかった。
ケイがこの謎解きにおいて最も貢献できる作業、それは地道にデータのログを漁ること。きっとあの天才達の手腕であれば、より有力な対応をもって、この現象に立ち向かえたに違いない。強烈な無力感が、何かに躓く度に襲いかかる。
(でも、そんなのは構いません。私にできることは、何も変わりないのですから)
しかし、その無力感すらも、今の彼女にとっては原動力の一部として消費される情動でしかなかった。如何に試せることが少なくとも、この先待っているものに皆目見当がつかなくとも。結局のところケイに残されている道は、たった一つしか存在していないのだ。
──前に進み続けること。そう、きっとそれだけ。その場に立ち止まり、後ろを振り返ったところで、神様が救ってくれる奇跡なんて起きやしない。抗うことを止めてしまったらどうなるか……いや、そんなことを考えたって意味がない。世界そのもので作られた密室を抜け出すために、拳の骨が砕け、指の爪が剝がれてでも、闘い続けることだけが求められているに違いない。自身が、再び未来を取り戻すために。そして、何よりも──
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ふと、マウスを握る手がピタリと動きを止めた。
何本ものクレヨンで大きな画用紙を無秩序に塗りたくったかのような、数多に重ね合わせられたデータの混線。一ピクセルの色も見逃さないよう辛抱強く続けていた確認作業が、初めての違和感に行き当たる。
僅かな隙間に穿たれた、矮小な信号の一点。普段であれば見逃がしてしまうであろう深層にひっそりと落とされていたそれは、しかし確かに「特異」と呼ぶべき在り方であった。その姿形はありふれたノイズの様相で。その中身は一目見ただけでは把握できない。それでも、唯一
「──ィ」
(これ、は)
前へと、進み続けなければならない。
「……?」
(あの時刻より前、そして後、意図的な……超常的な干渉が行われた痕跡は皆無だった)
この道を、見失わないために。星を、決して墜とさないために。
(ならば、全ての発端となった原因は、この)
前へ、前へ、前へ────
「ケイ!!」
「……うわっ!」
目の前の情報が現実の全てだったケイの意識が、久方ぶりに現実へ引き戻される。改めて目に入る部室は、よくある教室と比較するなら、どちらかというと狭めの部屋であったが、何故かとってつけたような広々さが伝わってくる。いつも何食わぬ顔でスペースをとっているあの車椅子が、今日は何処にも見当たらないからだろうか。
「……っと、すみません。少し集中していたので。どうかしましたか?」
「ええっと、その。そろそろ休憩しませんか? ここに入った後すぐにパソコンを触り始めて、それからずっと、もう三時間近く座りっぱなしですよ……?」
もう、そんなに時間が経っていたのか。よく分からない表情をしている彼女の顔から目線を外し、デスクの端に置かれたデジタルクロックに目をやると、左方の桁が一つ欠けているように見える。時計の前面には、既に冷め切っているカップラーメンの容器と、小さい飲み跡がつけられたコップが寄せられていた。そういえば、何回かアリスと会話する機会があって、そのどこかの折に持ってきてもらっていたような。
「……いえ、大丈夫です。もう少ししたら、作業も一段落するところまで行きますし。アリスこそ、もう寝る時間じゃないですか? 先に休んでいてもいいですよ」
「で、でもさっきも」
固まった筋肉をほぐすついでに、彼女が就寝する前の雑事を済ませておこう。そう思いながら、いつものように椅子から腰を浮かせた。
──床を踏みしめる感覚が、伝わってこない……? 想定外に大きく横に逸れた身体は、重力に引かれるままに落下していく。重い眩暈で転倒しかけてしまったのか。そう思い当たった時には、今まで感じたこともないほど重たい気怠さを纏った身体がアリスに抱きとめられていた。
「ぁ……アリ、ス。申し訳、ありません……」
「……やっぱりケイも寝ないとダメです! ゲーム開発のお手伝いで昨日の夜から起きっぱなしだったんですから、スタミナがもう限界なんです!」
「少し休んだら、すぐに良くなりますよ」
「その場しのぎの回復ではきっと、いや絶対に足りません! それに、アリスと合流してからのケイはどこか焦っていて、少し無理をしているように見えて……アリスは心配なんです」
たった一日しか経過していないはずなのに、部室で仲間たちと過ごしていた記憶は、埃をかぶった写真のように風化してしまっていた。驚きと寂しさが、同時に、静かに胸を締め付ける。
その頬がケイの肩に触れそうなほど、すぐ傍で見守っているアリスの顔は、滅多に見せない物憂げな面持ちをしている。この距離まで近づいてようやく、まともに彼女の表情も読み取りきれないほど、自分の視界が霞んでいたことに気が付いた。
「ぅ……しかし……」
「なら、ケイが寝るまでアリスもずっと起きています! アリスを休ませたいなら、ケイも一緒に来ないとダメです!」
「……困らせるようなことを言わないでください、アリス。分かりましたから……」
口では渋々といったように了承するが、身体の方はアリスの力にされるがままに抱きかかえられ、仮眠用として使われていた簡易ベッドの置かれた場所まで引っ張られていく。
ゆっくりと。モニターから遠ざかる方向に。穏やかな足取りと共に。
前へ、前へ。
──ひょっとしたら。自分の望んでいた無我夢中な前進、未来を掴み取るためだと言い聞かせてきた歩み。その裏側には、異なる意味が刻まれていたのではないだろうか。
過集中から解放された反動で、思うように回らないケイの頭。感じ取るのを先送りにしていた疲労を一気に受け止め、指を動かすことすら億劫になっているケイの肉体。この異界に迷い込んで以来、初めて無防備となった彼女の周りに、今まで目を逸らしていた
軽々と抱えられたケイの身体は、すでに整えられていたクッションの上へ、そっと静かに寝かせられる。背中に伝わる柔らかな弾力と、触り心地の良いブランケットが、潜んでいた眠気を激しく刺激する。
私たちの未来は、この先何処へ向かっていくのだろう。
もし、このまま眠りに落ちてしまったら。意識を失っている間に、そのままであってほしいと願う
そんなのは、嫌だ。目を塞ごうともどこからともなくその光景が沸き上がり、底の見えない大穴に果てしなく落下していくかのような恐ろしい嫌悪感が全身を震わせる。抗うのを止めた先に広がるのはきっと、コンティニューの選べない、ゲームオーバーの文字が映された真っ暗な画面。そのまま静かに電源は落ち、孤独すらも感じない虚空の内に消えていくエンディングが、瞼の裏にありありと浮かぶ。そんな光景は、断じて認められるものではない。彼女の芯に宿る正義が、受け入れられるはずがない。そんな結末は
正面だけを向き続けたケイの歩み。その行為は、直視するのが耐えられない可能性から顔を背け、必死に逃げ続けるための言い訳でもあったのだろう。いつ、不可逆的な絶望に見舞われるか分からない、未知の深淵。背後に迫るその闇に呑み込まれてしまうことを最も恐れていたからこそ、千切れそうになる両足を引きづってても、前だけを目指すことに執着していたのだ。
抗い難い睡魔の誘惑が、なおもケイの全身を包み込む。常人であれば、一分も経たずに夢の世界へと引きずり込んでしまえるほどのものであったが、内で蠢く恐怖は休息を許そうとしなかった。際限のない怯えは休まろうとする筋肉をこわばらせ、僅かな身じろぎで掻き消えてしまうほどの小さな呻きが、心中の苦悶を知らせるように滲み出た。
不意に、汗ばんだ額の上に新たな熱が重ねられる。
雑然とした意図はなく、ただ他者に寄り添おうとする意志のみに溢れたぬくもり。彼女が何に苦しめられているのか、全てを拾い切れていなくとも。それでも今だけは、何物にも妨げられない安らぎを願った手のひらが、優しく肌を撫でていた。
「アリスは、ここにいますから。──おやすみなさい、ケイ」
その柔らかい声は、恐怖と疲労で吊りあっている天秤から、そっと恐れの一欠けらを取り除く。
あれほど緊張していた肉体が、ほんの少しだけ緩みを見せる。何かを考える間も、声に出して伝える間もなく、気づけばケイは、自然に意識を手放していた。