Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
刹那が進める資格取得による武装を、誠は否定しない。
むしろ、この生存競争において一理あると受け止めている。
だが、手放しでの肯定もしない。
誠の視点は、より深層にある『構造の罠』を射抜いていた。
資格とは往々にして、「お前はこれができるのだから、やる義務がある」と付け入られるための隙となる。
それは能力による拘束を公的に認める、一種の『徴用令状』に他ならない。
「できる」と証明した瞬間、それは他者が自分を掴むための『取っ手』に変わる。
一度その取っ手を握らせれば、あとは組織の都合という濁流に引きずり回されるだけだ。
だから、誠が狙うのは刹那とは逆のベクトル。
責任を損切りし、自分を守るための『盾』としてのライセンス。
「私はここまでしかできません」と、能力の限界を公的に宣言するための境界線。
誠は図書館での思索を通じ、独自の亡命戦略を導き出していた。
(やっぱ、これだよな)
誠の指が止まったのは、『食品衛生責任者』の項目だ。
数年の実務経験と試験を要する調理師免許ではない。
一日の講習で取得可能な、知識の証明。
調理師は腕を保証し、「より美味く、より速く」という無限の搾取を招く。
対して、衛生責任者は『知識』を証明するだけだ。
現場で高度な技術を強要されそうになっても、「私は調理師ではありません。衛生知識で補助をしているだけです」と、論理的な逃げ道を確保できる。
(できるじゃなくて、『知っている』でいい)
『運転できる』と言えば運転手にされ、『英語ができる』と言えば翻訳を押し付けられる。
ならば誠の回答は、丁重に拒絶するためのライセンスを保持することだ。
仕組みは理解しているが、実務そのものは専門外。
その絶妙なグレーゾーンこそが、自分を守る防壁となる。
刹那が情報処理や簿記という、社会の深部へ切り込むための『矛』を研ぐなら、
誠は徹底して平凡と流動に特化した『迷彩服』を纏う。
(漢字検定3級……日本語が通じる証明には十分だろ。あとはMOSの基礎レベル。これ以上取れば、期待という重力に捕まる。「教わらないとできません」と胸を張るための限界点だ)
履歴書という存在を、誠は底知れず忌み嫌っている。
しかし、この戦場を渡り歩くためには必要なこと。
安くも高くもない。
平凡な歯車を演じるための偽造パスポートは必要だ。
(あとは資格じゃないけど、図書館の検索術……情報の引き出し方か。これは騙されないための知恵として、一生使い倒せる)
資格を取るのは、命令に従うためではない。
その命令が、本来の職務範囲を逸脱していることを証明し、拒絶するためだ。
無関心で、平凡で、どこにでもいる個体でいられること。
誠は、搾取の手が届かない自由へと、風のように舵を切る。
しかし――。
(学校の成績が邪魔だな)
避けて通れない課題、授業態度、そして定期試験。
誠はテストの正解というものを生理的に嫌っている。
現実はテストのように都合よくできていない。
それなのに、模範解答という「おりこうさんの演技」を強制される。
そのことに、虫唾が走るほどの嫌悪があった。
「なあ清浦。赤点のボーダーラインって、何点だ?」
放課後の教室。
窓から差し込む斜光が、埃のダンスを照らしている。
刹那は愛読していた実務書のページをめくる手を止め、一度だけ瞬きをして答えた。
「……平均点の半分。もしくは30点以下。それが榊野の規定」
「そうか、30点か……」
誠が天井を見上げ、独り言のように漏らす。
刹那がわずかに首を傾げた。
「伊藤。赤点を取るつもり?」
「まさか。赤点は補習という『居残り地獄』だ。一方的に時間を削られるのは、一番の損失だろ」
「日頃から学べば、赤点にはならない」
「清浦にできることが全員にできるとは限らない。少なくとも俺はそうだ。清浦ほどの高性能スペックはない」
テスト対策の勉強は、コストが高すぎる。
そのための時間搾取を回避するため、
誠は最低限の支払いで済ませる線引きを模索していた。
「……」
刹那は沈黙の中で、誠の意図を即座に読み解く。
高得点は期待という檻に捕まり、赤点は指導という介入を招く。
そのどちらの網にもかからない死角を、彼は狙っている。
「伊藤。正解を知っているなら、調整は簡単」
「清浦は俺を買い被りすぎだ。そもそも、正解を覚えているとは限らない。その前提が抜けている」
誠は淡々と語る。
計算式が本当に合っているか、英語の翻訳が正しいか。
そんな正解の思い込みという罠を彼は信じていない。
暗記という暴力に脳を晒す。
それは、泥の混じった生野菜を無理やり食わされるような不快感があった。
「なるほど」
知識を積み上げる刹那に対し、誠にとって知識とは忘れ去るものだ。
その上でなお残る、呼吸や歩行と同じ生存レベルの知恵だけを彼は信じている。
「伊藤はどうしたいの?」
「40点でいい。選択肢なら何とかなる。……記述は、正直しんどい。特に長文」
「……そう」
刹那の中で、誠の知性の輪郭が浮き彫りになる。
実用書から知恵を盗む能力は、誰よりも高い。
二重盲検くじ引きを発案した男が、知能で劣るはずがない。
ただ、学校の用意した答えさせる仕組みとの相性が、絶望的に悪いのだ。
「伊藤。これが解けたら40点が取れる、という指標があれば?」
「試してもいいけど、本当にできるのかって疑うぞ」
「疑えばいい。それが伊藤の持ち味。……私は、否定しない」
刹那は無言で、自身のシステム手帳からルーズリーフを一枚抜き取った。
そこには過去三回分の試験傾向。
そして担当教師の癖が、数式のごとき簡潔さでリスト化されていた。
「出題範囲を全て網羅する必要はない。教師も、採点のコストを嫌う」
「ほう……」
「過去に出した問題の使い回し、授業中に三回以上繰り返した語句。これは教育じゃない。ただの『パターン認識』の問題」
彼女は淡々と、誠のデスクにその紙を滑らせた。
「このキーワードだけ、脳の隅に置いて。それ以外にリソースを割く必要はない。そうすれば、40点は保証される」
誠はその紙を手に取り、まじまじと眺めた。
そこには「ここだけを仕留めろ」と言わんばかりの、急所を突いた戦略図があった。
誠の口角が、わずかに上がる。
社会から降りるために、学校という巨大な監視システムを出し抜く。
二人の知性が、一つの『ハック』へと結実した。
「清浦。ひとつ問題を出すよ。清浦、一週間前の晩御飯のメニューを覚えているか?」
「……伊藤にとって、テストも晩御飯と同じ。忘れていいもの、なんだね」
誠の問いは、確認だった。
「お前も、本当はわかってるんだろ?」という共犯の合図。
テストの正解など、消化され消えていく残飯ほどの価値もない。
刹那の答えは、冷徹な現実主義だった。
「補習を受けたいなら、捨ててもいい。テストを忘れたら、罰というコストが待っているだけ」
「へいへい。やればいいんでしょ、やれば」
窓の外では、冬の訪れを告げる風が校庭を吹き抜けていく。
誠は刹那から受け取った攻略図を丁寧に折りたたみ、ポケットに収めた。
それは彼にとって、どの教科書よりも価値がある、自由を買い戻すための換金アイテムに見えた。