Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
『選ぶのは、私じゃない。あなた。』
それは、かつて甘いお菓子や優しい抱擁を与えてくれた親友とは思えない。
突き放され、放り出され、真っ暗な宇宙に一人で漂っているような感覚。
世界は震える手で携帯を投げ出した。
(冷たい……刹那、どうしちゃったの。私がこんなに苦しいのに。死んじゃうかもしれないのに……)
涙が石畳の冷気のように頬を伝う。
踊子が手配した部屋には、定期的に掃除に来るハウスキーパーと、階下に控える厳格なコンシェルジュがいる。
食料は冷蔵庫に補充され、医療システムも機能している。
客観的に見れば、彼女は生存を保証された『囚人』に過ぎない。
(お母さんは、私のことなんて見てない。見てるのは、パリで成功する『西園寺踊子』の娘だけ。私がここで消えても、きっと悲しむふりをして仕事に戻るんだ)
そう思考が至った瞬間、心臓の奥が焼けるように熱くなった。
悲しみではない。
それは、泥のような絶望の中から這い出してきた、剥き出しの『怒り』だった。
「……勝手だよ」
掠れた声が、広すぎる部屋に響く。
誰にも届かない日本語。
だが、その音を吐き出したことで、世界の中に自分の輪郭がわずかに戻った。
(刹那の言う通り。ここで待っていても、誰も助けに来ない。刹那も、お母さんも……。私が私を助けなきゃ、私はここで『アクセサリー』として腐っちゃう)
世界は、ベッドの縁に手をかけ、震える足で立ち上がった。
ふらつく頭を必死に押さえ、鏡の前に立つ。
世界の中心で笑っていた少女の残骸。
今では、ボロ雑巾のように映っていた。
彼女は冷水を顔に叩きつけ、クローゼットから一番厚手のコートを引っ張り出す。
そして、刹那とのメール履歴を遡る。
そこには昔、旅行のガイドブックを二人で眺めた時。
刹那がメモとして送ってくれた、いくつかのフランス語の単語がアーカイブされていた。
『Ambassade du Japon(日本大使館)』
世界は、その単語を呪文のように何度も反芻する。
発音など正しくなくていい。
通じるかどうかも二の次。
必要なのは、システムを接続しようとする意志。
震える指で、部屋の電話からレセプションに繋いだ。
「あ、ア、アロ(Allo)……」
心臓が口から飛び出しそうになる。
相手のフランス語がマシンガンのように耳に刺さる。
理解の拒絶。
だが、世界は目を閉じて叫んだ。
「Ambassade du Japon! S'il vous plaît(お願いします)! Japonais(日本人)! Aidez-moi(助けて)!」
不格好なコミュニケーション。
なりふり構わず、生き残りを賭けて、剥き出しの信号を送る。
コンシェルジュの声が、一瞬、止まった。
混乱した様子で何かを問い返される。
だが、世界は止まらない。
自分の名前、パスポート、そして大使館という単語を繰り返し、受話器を握りしめた。
十分後。
階下から複数の足音が近づき、ドアがノックされた。
そこには困惑したコンシェルジュと、踊子が契約している現地の通訳スタッフの姿があった。
世界は彼らの顔を見た瞬間、崩れ落ちるように泣き出した。
だが、それは以前のような同情を誘う涙ではない。
自らの足で出口の扉を叩いた者の、安堵の涙であった。
「……日本に、帰る。お母さんのためじゃなくて、私のために。……手続きを、してください」
通訳を介して放たれた。
微熱を帯びながらも、氷のように固く、決然としていた。
その頃、パリの16区にあるオフィス。
踊子は、手元の高級な万年筆をデスクに叩きつけた。
「……信じられない」
報告は、大使館からの直接の連絡と、パニックに陥ったコンシェルジュからの国際電話。
それによれば、娘である世界が自力で保護を求め、日本への即時帰国を訴えたという。
彼女が最も恐れたのは、フランスの警察や当局にネグレクト(育児放棄)の疑いを持たれることではない。
最優先事項は、明日控えている大手デパートとの契約調印式に、この『不祥事』が漏れ伝わることだった。
「世界は体が弱いけれど、私の用意した最高の環境にいれば、いずれ順応するはずだった。あの子のためを思って、この街に呼んだのに……」
踊子は、窓の外に広がる曇天のパリを見つめる。
彼女にとっての慈愛とは、相手に最適な環境という檻をあてがい、自らの管理下に置くことだった。
世界がその最適化を拒絶。
あろうことか自分を捨てて逃げようとする。
その事実は、踊子の支配欲を鋭く逆なでをした。
重厚なフランス製の内線電話が鳴り響く。
それはデパートの調印式や華やかなレセプションの連絡ではない。
実務の最前線であるラディッシュのパリ支店に所属する副店長からだ。
「――西園寺代表。現地のコンサルタントから連絡がありました。代表の娘さんが自ら大使館に駆け込んだという情報が、すでに一部の現地メディアの耳に入りかけています。……『進出企業の家族トラブル』。これは、ブランドイメージにとって致命的です」
踊子の指先が、微かに震える。
彼女が心血を注いで築き上げたラディッシュという城。
その基盤は、洗練された「家族の温もり」と「幸福な食卓」。
それを徹底的に美装された虚像の上に成り立っている。
娘が「異郷の地で監禁され、病を放置されている」という物語。
それが一度でもパリの街に流れれば、明日の契約など一瞬で霧散してしまう。
「……火消しを。すぐに」
踊子は絞り出すように命じる。
だが、それはもはや空虚だった。
この一件は、日本にいるラディッシュ本社の清浦舞にも連絡が入る。
舞は冷静だった。
彼女なりに事前の忠告はしていていたのだ。
『世界ちゃんは体弱いのに大丈夫なの? 私が代わりにパリに行ってもいいわよ』
それを踊子は楽観的に大丈夫と言って引かなかった。
「まったく、だからあれほど言ったのに」
火消しのとばっちりを喰らっての尻ぬぐい。
すでに彼女の中では、踊子が日本へ送還される未来が見えている。
これだけのスキャンダルをやらかしているのだ。
パリ支店からすれば追放処分となるのも時間の問題。
一刻を争うため迅速に対応する必要があった。
パリ、日本人大使館の保護下に入った世界。
それに対し、踊子がまず試みたのは母親としての面会。
それを隠れ蓑に説得をしようとしたのだろう。
しかし、そこに立ちはだかったのは、リスク管理の鬼と化した清浦舞の意志である。
舞は、日本から即座に現地の提携弁護士と、ラディッシュ本社の内部監査チームを動かした。
「踊子、あなたの負けよ。これはもう感情論じゃない。ラディッシュの株価と、日本国内でのブランドイメージを守るための『外科手術』が必要なの」
舞の指示は冷徹であった。
世界が大使館で語った監禁に等しい孤独と病状の放置。
これが表に出れば、日本での「ラディッシュ」は、家庭の幸福を売る企業から、身内を搾取するブラック企業へと失墜する。
舞が下した決断は、踊子のパリ支店代表解任。
そして、母娘の物理的・法的な引き離しであった。
数日後。シャルル・ド・ゴール空港。
世界は、大使館から派遣された随行員と、舞が手配したプライベート看護師に付き添われ、搭乗口へと向かっていた。
車椅子に座る彼女の瞳には、かつての世界の中心にいた頃の虚栄はない。
だが、その視線は地面を這うのではなく、前方のゲートを真っ直ぐに見据えていた。
「……お母さんは?」
随行員が短く答える。
「西園寺代表は、本社の査問グループへの対応と、現地のデパート側への事後処理で拘束されています。……日本での住居は、清浦舞様が手配したリハビリ施設併設の寮になります」
世界は小さく頷いた。
母に会えない寂しさよりも、母というシステムの支配から切り離されたことへの、深い安息が全身を包んでいた。
彼女は自分の震える手を見つめる。
あの夜、受話器を握りしめ、拙いフランス語で叫んだ自分の手を。
(私は、生きてる。……私が、私を救ったんだ)
リハビリ施設併設の寮。
その窓から見える景色。
かつてのパリの石造りでも、榊野学園の喧騒でもない。
徹底して管理され、静まり返った隔離された安全圏であった。
世界は今、人生で初めて、この静寂を心地よいと感じている。
そこにあるのは、母に与えられた檻でも、刹那に依存した避難所でもない。
あの日、パリの空の下で、自らの喉を震わせて「助けて」と叫び、自らの足で出口を叩いた。
その剥き出しの現実感だ。
(……私は、自分の力で、ここに来たんだ)
胸の奥に灯った小さな火が、冷え切っていた身体を内側から温めていく。
その熱は、同時にこれまで見ないふりをしてきた自らの罪を照らし出した。
(私、ずっと刹那に……刹那とおばさんに、甘えてばかりだった。迷惑をかけ続けて、それを『親友だから』って塗りつぶして……)
良心という鋭い痛み。
かつての世界は、この痛みから逃れるために、さらなる依存を重ねていた。
だが、今は違う。
この痛みこそ、自分が一人の人間として対峙する証拠だと理解している。
(自分のことは、自分で。……当たり前だよね、本当は)
依存の歪みを自覚した。
その時、彼女の中にあった世界の中心という虚栄は、静かに崩れ去る。
代わりに芽生えたのは、未熟な自律の芽であった。
世界は施設内の図書室へと足を運ぶ。
かつての彼女なら見向きもしなかった。
そんな硬質な沈黙が支配する場所である。
通信制学校の資料。
投げ出しかけた学業。
最低限の社会へのパスポートを手に入れるための選択。
初歩の法学資料。
親という支配者、そして社会の搾取構造。
そこから自らの権利を盾にして守るための知恵だ。
これらは誰に強制されたものでもない。
彼女が自分の意志で選び、その重たいページを自らの指でめくった。
かつてのお喋り上手な西園寺世界はそこにいない。
ただ、沈黙の中で知識を血肉に変えようとする、一人の亡命者がいた。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
手元には、かつて命綱のように握りしめていた携帯電話。
刹那に、現状を伝えたい。
心からの謝罪と、感謝を述べたい。
指が画面をなぞるが、送信ボタンを押す直前で止まった。
(……ううん。まだ、早い)
今ここで連絡をすれば、また刹那の優しさへの甘えになる。
刹那の人生に余計な負担をかけてしまう。
(これは私の問題。私が、私として立ち上がらないとダメだよ)
他者の顔色を伺う空気ではない。
互いの境界線を尊重することの始まり。
そんな透明で冷たい礼儀であった。
携帯の電源を落とし、デスクの上の参考書に向き合う。
外は深い夜だが、彼女の瞳には、かつてないほど確かな光が宿っていた。