Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
掲示板に張り出された名簿。
進級に伴う期待と不安が入り混じった熱気。
それが廊下に充満している。
そこから数歩引いた場所。
他者の体温が届かない距離で、誠は自らの名前を「捕捉」した。
2年1組。
彼にとっての、新しい生存圏の境界線。
その背中を遠慮なく叩いたのは、澤永泰介だった。
「おう誠、また一緒のクラスだな」
かつての親友。
だが今の誠にとって、泰介は管理すべきノイズに過ぎない。
その無防備な距離感さえも、今は慎重に扱うべきリスク因子だった。
「そうだな。黒田も一緒か」
「あーあ、またあんたたちと顔を合わせなきゃいけないなんて。新学期早々、ついてないわね」
黒田光は不機嫌を隠そうともせずに言い放つ。
だが、その毒は誠に向けられたものではない。
泰介へ向ける視線の端に、隠しきれない執着が混ざっている。
一方で、防衛線の要であった清浦刹那は、甘露寺七海と共に2年2組へと配属されていた。
「あちゃー、光と離れちゃったね刹那。寂しくて泣いちゃう?」
「……計算外。でも泣かない」
刹那の視線は一瞬だけ、1組の名簿にある伊藤誠の名をなぞった。
クラスが分かれる。
物理的な共鳴を失う。
これからは、常に隣り合うことはできない。
廊下という緩衝地帯を挟んだ遠隔支援へ。
運用プロトコルを切り替える必要がある。
「あ、加藤も2組だね。よろしく」
「う、うん。よろしく、甘露寺さん」
加藤乙女は、静かな愛想笑いを返す。
彼女は名簿の前を立ち去り際、誠をチラリと盗み見た。
だが、誠がその視線に気づくことはない。
誠の『凪』は、外部からの意味深な視線をすべて無効化し、背景へと溶かしてしまうからだ。
なお、1年で副委員を務めていた山県愛も同じ2組。
周囲の布陣は、静かに、だが確実に変化していた。
そして――誠の視線は、自らのクラス名簿の下方で凍りついた。
(桂が、同じクラス……か)
桂言葉。
1年の初期、通学電車の車両で見かけた、完成された静謐。
かつての誠なら、それを「高嶺の花」として、甘い幻想と共に眺め続けただろう。
だが、今の誠にとって、彼女は若気の至りという『評価損』。
それを突きつける鏡であり、最も近づいてはならない高リスク銘柄だった。
(あの時の俺と、今の俺。……皮肉な再会だな)
熱に浮かされた自分は、もういない。
だが、同じ教室という閉鎖空間で、何が起きるか分からない。
誠は一度だけ深く、肺の澱みを吐き出すように息をつき、名簿から目を離した。
「……行くか、泰介。ホームルームが始まる」
「おっと、もうそんな時間か」
指定された座席につき、誠は即座に理解した。
桂言葉という存在が、いかにその空間に『歪み』を生んでいるかを。
(……目立ちすぎる。あれは劇物だよ)
ただ座っているだけで、視界の端に強制的に割り込んでくる圧倒的な肉体美。
クラスの男子からは聖域への不可侵と視線の搾取が混ざり合った熱気が放たれる。
女子からは異物への警戒が静かに渦巻いている。
誠は努めて無関心を装い、視線を机上の平穏。
傷一つない合板の木目へと落とした。
休み時間。
誠は隣の2組へ足を運ぶ。
と言っても、入り口から内部の動線を視認するだけ。
七海と刹那が適切にコミュニケーションをとっている。
それを確認し、誠は「異常なし」と判断して自席へ戻った。
教室に戻れば、言葉は休み時間中も一人で読書に耽っていた。
かつて電車の車両で見かけた時と同じ。
外界を拒絶した閉じられた光景である。
そこへ、泰介が下卑た関心を隠そうともせずに近づこうとする。
光がそれを罵倒しながら、泰介の耳を引っ張って阻止した。
(騒がしい。この茶番、毎日見せられるのか俺?)
溜息を抑え、誠は思考を実務へと切り替える。
直面する課題は、クラス役職の押し付けという搾取の回避だ。
学級委員、保健委員、体育委員。
くじ引きという運否天賦に身を委ねれば、全リソースを奪われる高コストな役職を引かされるリスクがある。
(ヤバいから先手を打つか)
誠が出した答えは『図書委員』だ。
普段から図書館を利用しており、空間との相性は抜群。
静寂を好み、一人の時間を死守したい誠。
これ以上にコストパフォーマンスの良い逃げ場はない。
委員選出の際、誠は迷わず、しかし淡々と手を挙げた。
「1組、図書委員。伊藤誠、立候補します」
教室内を微かな静寂が走る。
これで当面の間、放課後の自由と静寂は担保されるはずだった。
誠は内心で安堵の溜息を吐く。
だが、その直後だった。
「……あの、私も。図書委員を、希望します」
教室の空気を震わせる、重く、しっとりとした響き。
ゆっくりと立ち上がったのは、桂言葉だった。
昨年、彼女は学級委員という過酷な役職を押し付けられ、クラスの悪意と無関心に晒され続けた。
その瞳は今、誰にも邪魔されない聖域を切望している。
誠の視線と、言葉の視線が、逃げ場のない空中で交差した。
(しまった。これ予想外だよ)
自分を守るための防空壕。
その扉を開けた先に、最も距離を置くべき『劇物』が待ち構えていた。
誠の脳内で警報が鳴り響く。
「はーい! 俺も図書委員やりまーす!!」
ここで泰介の軽薄な声が割って入った。
その視線は隠そうともせず、言葉の曲線的なシルエットを舐めるように注がれている。
「私も、図書委員希望です!」
間髪入れずに光まで立ち上がる。
泰介の暴走を物理的に食い止めるためだ。
しかし、図書委員の定数は二名。
(どうする。辞退するか? ――いや、しかし)
誠の脳内帳簿が高速で捲られる。
桂言葉と同じ空間に身を置くリスクは、精神的コストを増大させる。
だが、ここで身を引いて「くじ引き」の濁流に飲まれればどうなるか。
最悪のカード――学級委員を引かされる可能性がある。
(譲るか、通すか。……通すしかないだろ。学級委員よりマシだ)
くじ引きの結果――当選したのは、伊藤誠と桂言葉。
「ちぇー、外れたか。まあしゃーないか」
泰介はあっさりと引き下がる。
光は泰介が言葉とペアにならなかったことに安堵し、深く椅子に座り直した。
再び、誠と言葉の視線が合う。
「……よろしくお願いします、伊藤くん」
蚊の鳴くような、震える声。
しかし彼女は、はっきりと誠に向けて深く頭を下げた。
「ああ、よろしく」
誠は短く、事務的なトーンで答え、即座に視線を切り離す。
座席に戻ると、ポケットの携帯が短く振動した。刹那からだ。
『伊藤、図書委員になった?』
お見通しとばかりのメールが届く。
誠は画面のタッチで即座に返信をした。
『ああ』
『もう一人は、桂さん?』
相変わらず、刹那の状況分析は鋭利である。
『清浦はどう見る?』
誠の問いに、数秒の空白。
やがて、画面に短い宣告が浮かんだ。
『コスト激高。要警戒』
『カレーの辛口扱いかよ』
誠は思わず苦笑し、携帯を伏せる。
これから始まる静かなる戦場に向けて。
精神の防壁を再構築し始めていった。