Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
榊野学園の図書室。
情報の墓場であると同時に、静寂の聖域。
放課後の西日が斜めに差し込むカウンター。
誠と言葉は、滞留する空気を実務で処理しようとしていた。
かつて誠が言葉に抱いていた、あの安っぽい下俗な好奇心。
それは既に『減損処理』を終え、帳簿上からは抹消されている。
しかし、目の前に座る桂言葉という実体。
その高解像度な美しさは、否応なしに空間の密度を書き換えてしまう。
だからこそ、誠は先手を打つ。
「受付を頼んでいいかな。俺が返却された本を棚へ戻してくるよ」
「あ、はい。わかりました」
誠なりの境界線の引き方だ。
『受付』という不動の拠点を言葉に与え、自分は『棚戻し』という移動を引き受ける。
物理的な距離を保ち、視線の交差を最小限に抑える分業体制。
これこそが、精神的リソースを保護するための最適解だ。
(えっと、次はこれか……)
返却本をワゴンに積み、書架の奥へと消える。
一冊一冊、背表紙の請求記号を捕捉。
あるべき座標へと戻していく。
それは誠にとって、乱れた帳簿を整理するような、無機質な心地よさであった。
「一通り、終わったよ」
「ありがとうございます、伊藤くん」
そのやり取りさえも、あらかじめプログラムされた関数の呼び出しに過ぎない。
誠の声は、一切の不純物を濾過したように淡々としていた。
(去年の俺なら、ここで気の利いたセリフの一つでも吐こうと腐心していたんだろうな)
自分を優位に見せようとする虚栄の投資。
今の誠には、その期待値の低さがよくわかる。
沈黙を共有することの方が、よほど生存コストの節約になるのだ。
ところが——―。
「伊藤くんは……本、お好きなんですね」
不意に投げられた、計算外の発言。
誠は一瞬だけ指を止め、言葉を見た。
彼女はバーコードリーダーを丁寧に磨きながら、視線を伏せたままである。
「まあ、ここは静かだから。そういう桂も、そうなんだろ?」
「……はい。とっても」
言葉の口元に、微かな綻びが生まれた。
それは安直な恋愛感情などではない。
静寂を愛する個人的な価値が一致したことへの、極めて静かな安堵だ。
誠はそれ以上追及しない。
思考の解像度を『知の構造』へと切り替える。
公共図書館と、学園の図書室。
蔵書の傾向、情報の解像度。
榊野学園の歴史資料のように、ここにしかないローカル・リソースの価値—。
(検索エンジンは便利だが、ノイズが多すぎる。公共と学園の蔵書を、シームレスに横断検索できれば楽なんだけどな)
知へのアクセスを最適化したいという欲求。
誠は周囲の安全を確認し、言葉に問いを投げた。
「桂」
「あ、はい?」
「この学園にレファレンスできる司書教員っているかな?」
「……レファレンス、ですか?」
彼女は数秒、思考の深度を深めるための間を取った。
回答を慎重に選抜しようとするその仕草。
誠は補足を加える。
「資料の所在確認や、横断検索の代行だ。今のOPAC(オンライン検索)だと、同義語のノイズが混ざって効率が悪いんだよ」
誠が端末の画面を提示すると、言葉は小さく、溜息のような息を吸った。
「一応、いらっしゃいます。でも、常駐ではなくて……週に数回、先生のご都合で来られない日も多いみたいです」
人的資源の不透明さ。
誠は眉間に意識を集中させ、思考の温度を下げる。
(なるほどな。これが図書館の本にあった『非定常リソース』か)
固定されたアクセス権ではない。
確率的にしか発生しないノード。
誠は短く息を吐き、構造を定義する。
「つまり、窓口がある時とない時がある。支援の不在を前提とした、自律型のシステム……ということか」
「はい。ですから……皆さん、自分で探しています」
誰にも優しくない代わりに、誰も特別扱いをしない。
ある意味、過剰に公平な不毛地帯。
誠の中で、その結論は仕様の再設計案へと昇華されていく。
支援が常駐しないのなら、利用者は自ら探索アルゴリズムを構築せねばならない。
漠然とした探索は、時間をドブに捨てるに等しいからだ。
「……伊藤くんは、すごいですね」
「なにが?」
「そんなふうに……図書室のことを、一つの『仕組み』として捉えているところです」
言葉の声には、賞賛とも、羨望ともつかない。
曖昧な熱が混ざっている。
誠は数秒の沈黙を選んだ。
あえてその熱を流すようにして、話題を切り替えていく。
「リクエストについてはどうかな? 例えば大学図書館の資料を、学園経由で取り寄せられると思う?」
「……できる場合もあると思います。ただ、正式な申請と先生の承認が必要で。時間は、相当かかりますが……」
「なるほど、物流の問題か」
取得ではなく、承認。
検索ではなく、申請。
大学図書館は、承認制の外部API。
学内図書室は、即時アクセス可能なローカル・キャッシュ。
誠の頭の中で、巨大な情報構造図が組み上がっていく。
(最新刊は書店に分はあるけど、資産としての保有は金のコストがかさむ。棚のスペースの馬鹿にならない)
学生としての時間は、あまりにも短い。
無駄な探索コストを削ぎ落とし、最短経路で知の核心にたどり着く。
それは、刹那から引き継いだ『算術人生論』を、誠なりに翻訳した実践であった。
「よお誠!」
図書室の扉が、静寂の掟を無視するような音量で開く。
泰介だ。
言葉が、一瞬だけビクッと肩を震わせた。
乱暴な音波に、彼女の鼓膜が過敏に反応している。
「なあ誠、エロ本置いてねえか?」
「寝言は寝てから言え。グロテスクな児童文学か、拷問史の資料でも押し付けるぞ」
「なんだよそれ、怖えな」
「で、用件は?」
「ああ、姉ちゃんから頼まれた本を探してるんだ」
珍しくまともな依頼だ。
誠は詳細を促す。
「えっと何だったかな……たしか表紙が盾と学校になって、タイトルは英語だったような……」
致命的な情報不足。
誠が「出直せ」と突き返そうとした、その時。
「あの……もしかして、こちらでしょうか?」
言葉が一冊の本を差し出した。
表紙には重厚な盾の紋章と、学園の校舎。
タイトルは『School Days』。
「あ、それだ! 間違いない!」
「……桂、どうしてわかった?」
「表紙のシンボルと、文字の配置バランスが一致していたので……おそらく、これかと」
泰介の曖昧な言語情報を、瞬時に視覚データと照合し、正解を導き出す。
その驚異的な検索精度に、誠は内心で舌を巻いた。
表情には出さなかったが。
「サンキュー誠! 桂さんもありがとう!」
泰介が去り、扉が閉じる振動と共に静寂が再起動する。
誠は、刹那から届いた『要警戒』の通知を反芻した。
(ただ者じゃないな、桂は……)
単なる美貌という資本だけではない。
文学的思索か、あるいは研ぎ澄まされた共感能力か。
刹那の論理とはまた別のベクトルで、彼女の知性は洗練されている。
(しかし、それは危うい。人への親切は、この学園では搾取の標的だ。また『頼られる』という罠に落ちる)
去年の学園祭。
断れず、押し付けられ、金魚のように口をパクつかせて疲弊したかつての自分。
(……もう、あんなふうにボロボロになりたくない。そして、他人をそうさせてもならない)
誠はワゴンの縁を強く握り、作業に戻る。
再び棚の最下段——。
最も膝に負荷のかかる、誰からも見向きもされない暗がりへと、彼は静かに手を伸ばした。