Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
2年2組の図書委員。
そこには、清浦刹那と山県愛が名を連ねていた。
刹那がその座を選んだ理由は、誠のそれと等しい。
――静寂の確保と、コストの最適化。
一方、山県愛にとっては、昨年の学級委員という「くじ引き地獄」で負った精神的損害(トラウマ)からの避難所だった。
二度と同じ轍を踏むまいという生存本能が、彼女をこの情報の墓場へと滑り込ませたのだ。
図書委員会、月例報告。
そこには、無警戒な生徒を標的にした委員長選出という不可避な罠が潜んでいた。
(おいおい、そんなの聞いてないぞ)
誠は内心で舌打ちを隠さない。
図書委員という実務だけで、すでにリソースは適正価格(コスト)を払っている。
責任の集積地であるトップなど、割に合わなすぎる不良債権だ。
当然、自ら名乗り出る愚を犯すはずもない。
隣の言葉も、視線の先の刹那も微動だにしない。
幸い、委員長はくじ引きの結果、他クラスの無色透明な男子生徒に決定した。
誠は内心で胸をなでおろす。
(助かった。それにしても、清浦も山県もここを選んだか。妥当な線だな)
会議は無難に、形式化されたノイズとして流れていく。
行事、予算案。
誠の耳には、それらは実体のない記号にしか響かない。
どうせ意見を具申したところで、予算・時間・人手の三位一体で棄却される。
真面目に投資するだけ赤字なのだ。
誠も刹那も、すでに期待という段階を卒業している。
会議終了後、誠は廊下に出た刹那を静かに呼び止めた。
「清浦、ちょっと時間いい?」
「いいけど、なに?」
「レファレンスできるか?」
「……内容による」
「本を探そうとしても、検索ノイズが多すぎるんだよ。ヒット数が数万件単位で、手がつけられない」
「……探し方が、悪い」
刹那の声は剃刀のように鋭く、一切の忖度を含まない。
誠は苦笑混じりに、その切れ味をいなした。
「あいにく、俺は清浦ほど効率のいい脳がないんで」
「効率じゃない。定義の問題」
「定義?」
刹那は黙ってついて来いと、図書室の検索端末へ向かった。
彼女の細い指が、流れるような運指でキーボードを叩く。
「例えば、欲しい情報を曖昧なまま検索にかける。……キーワード『文学』」
画面を激流のように、数万件の検索結果が埋め尽くす。
「これは検索じゃない。単なる『乱れ撃ち』。ノイズが混ざるのは、統計的な必然」
「思考、探索、知的……そういう属性を重ねるだけじゃダメなのか?」
「ダメ。伊藤は調べるプロセスを、一括で処理しようとしすぎ」
「そう言われても、絞り込みすぎれば『該当なし』でエラー直行だぞ」
誠は刹那に席を譲らせ、キーボードを叩き返した。
『知的冒険の応用』『遊びの探索術』『なぜ図書館の検索は難しいのか』
三度試みても、検索エンジンは冷淡な「0件」を返してくる。
「ほらな。真面目に全項目で照合したのに、この有様だ」
「伊藤、それキーワードになってない。伊藤が求めているのは概念の浮遊でもない。自分を武装するための、即効性のある『実用書』。そうでしょ?」
図星だった。
誠は無言で首肯する。
刹那は画面上の「NDC」という三文字を、冷たく指差した。
「NDC――日本十進分類法。これが、この墓場における唯一の地図」
「えー、なんか難しそうだな」
「難しくない。例えば4類(自然科学)なら技術、5類(技術)なら工学や実務。伊藤が知の迷宮に溺れる前にすべきは、キーワードの入力じゃない。自分がどの『階層』に手を伸ばしたいのか、領域を物理的に確定させること」
彼女が教示しているのは、情報の探し方ではない。
情報の『切り捨て方』だ。
「知を網羅しようとするのは、ただの強欲。必要な一点を、網羅的に絞り込むのが、知の算術」
「そうは言っても、知に明確な分類なんてできるのか? 人の浮気は天罰ものだが、知の浮気は自由だろ。幅広く知りたいと思うのは、罪なのか?」
誠の反論には、彼なりの自由への渇望が混ざっていた。
だが刹那は、一切の表情を変えず、端末の電源を落とした。
「知の浮気は自由。でも、時間は有限。……伊藤が迷宮で迷っている間、本当に必要な一冊は、別の誰かに貸し出される。それもまた、算術のうち」
「あ、それは分かる。借りたかった本が『貸出中』だった時の、あのすれ違いは最悪だ」
知の渋滞。
その不利益を刹那は冷徹に制御しようとしている。
知の浮気を肯定しつつ、時間というリソースで縛る。
それが彼女の流儀だ。
「要するに、俺はまず、己の欲求を『分類』から始めろってことか」
「うん。そうしないと、情報のノイズで迷宮入りする」
「未解決な探索事件だ」
誠は自分で検索することの不器用さを痛感する。
しばらく思案してから導き出されたのはひとつ。
「今の俺が求めているのは、騙されないための知だ。どうよ、分類できるか?」
刹那は一拍だけ、沈黙した。
それは思考の間ではなく、すでに終了した演算の確認。
「できる。むしろ、それしかない」
誠の提示した『騙されないための知』。
それは曖昧に見えて、構造化すれば極めて限定的な領域に集約される。
刹那の脳内で、知のブロックが組み替えられていく。
「まず前提。……『騙される』という事象は、一種類じゃない」
「と言うと?」
刹那が、指を一律に立てた。
「一つ。『情報』に騙される。統計、データ、見せ方のマジック。これは4類。具体的には統計学や認知バイアス」
「清浦の得意な数学理論だな」
次に、二本目の指。
「二つ。『人間』に騙される。営業、詐欺、交渉。これは3類。社会科学における心理学と経済行動」
「……口の巧い誰かさんを思い出すな。名前は出さないが」
そして、三本目。
「三つ。『自分』に騙される。思い込み、願望、自己正当化。これも3類だけど、より内側。認知心理のバグ」
「……去年の学園祭で流されていた自分か。耳が痛い」
誠は感嘆と共に息を吐く。
一塊の知が、刹那の手によって三つの戦場に鮮やかに分割された。
それだけで、視界の解像度が跳ね上がる。
「それで、伊藤が今すぐ必要なのは、これら全部じゃない」
「優先順位か?」
「そう。選ぶなら――まず、『自分に騙されない』こと」
「内側から、か」
「他人の詐欺なんて、結局は自分の欲望をフックにして成立するもの。だから、内部のバグを先に潰す」
図書室の静寂の中。
彼女の言葉が冷たく、重く落ちる。
「次に、人間。最後に、情報」
「普通、逆じゃないか? 手口を先に知る方が効率的だろ」
「逆にすると、全部無駄になる。……情報のテクニックを覚えても意味がない。詐欺の手口を知っても、自分が『信じたい物語』に乗ってしまえば、そこで終わり」
「……本当に、耳が痛い」
「痛いなら、まだ正常」
刹那はそこでようやく、端末の画面を指先で弾いた。
表示されたのは、膨大な検索結果ではなく、選別された鋭利なリスト。
「ほら。361、140。このあたり」
「心理と、社会学か」
「うん。騙されない、というより……『どう騙されるか』の構造を先に知ること」
「なるほど。防御術じゃなく、先に『攻撃の仕組み』を解体しろってことか」
刹那は最後に、わずかに視線を上げた。
「伊藤」
「ん?」
「騙されない人間なんて、いない。……あるのは、自分が『どこで騙されるか』を把握している人間だけ」
誠はそれを否定しなかった。
否定するための材料を、今の自分は何も持っていない。沈黙という名の肯定。
「……自分の『弱点目録』でも作れってことか」
「それが、最短経路」
誠は周囲の気配を殺し、誰もいないことを確認してから白状した。
「清浦。……桂のことだけどさ」
「ん?」
「レファレンスで、完全に意表を突かれた。……俺は、彼女を『大人しい読書家のお嬢様』だと思い込んでた。泰介の曖昧な依頼を瞬時に解決したあの精度に、文字通り裏をかかれた」
誠の独白を、刹那は無表情で受け止める。
その瞳には、それこそが誠の脆弱性(バグ)であるという、冷徹な肯定があった。
「侮っていたつもりはなかったんだ。ただ素直に、『ただ者じゃない』と思った。認識を、根底から改めたよ」
刹那は一瞬だけ、まばたきをした。
それは驚きではなく、入力された伊藤誠のアップデートを既存の枠に格納する動作。
「更新、早い」
「放置したままだと、焦ってバグるのは分かってるからな」
霧が晴れるように納得がいく。
自分の認識がズレていた。
ならば、修正する。
ただ、それだけだ。
「伊藤、その手の誤認は珍しくない」
「そうか」
「外見、雰囲気、役割。そこから先を省略する癖がある。……ショートカットの副作用」
「一々、全部を精査してられないからな」
「うん。その判断自体は間違ってない。ただし。『例外』の存在を、前提に組み込んでいない」
誠は視線を逸らした。
窓から差す西日が、床を刺すように伸びている。
「例外を前提にする……具体的にどうすればいい? 全てを疑っていてはキリがないぞ」
「全部疑う必要はない」
刹那の即答。
誠が先を促して待つ。
「『確定させない』だけでいい」
「……『保留』か?」
「そう。ラベルは仮置き。確定は、しない」
刹那は、いつも通り余白がない。
だが、その分だけ密度が高い。
誠は手元の紙とペンを走らせる。
自分自身の脆弱性リスト、その第一行。
『桂言葉:属性未確定(保留)』
その文字を筆頭に、彼は自らの内部構造を書き換え始めた。