Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
榊野学園の昼食事情は多岐にわたる。
購買のパン、食堂、自前の弁当、あるいはコンビニ。
泰介は外の空気を吸いがてらコンビニへ走ることが多い。
誠も自作の弁当を持参することは多いが、それも毎日ではない。
たまに、気付け薬代わりに食堂を利用する日があった。
(……あー、やっぱり混んでるよな)
客が少なければ経営が傾く。
不便さは繁盛の証左だと割り切る。
これが毎日なら混雑によるストレスは無視できないが、たまのイレギュラーなら許容範囲だ。
(日替わり定食でいいや)
選ぶという判断コストを最小化。
トレーに乗った配給品を抱え、誠は座席を探して視線を泳がせた。
(どこも埋まってるな)
昼の食堂は戦場というより、居場所の配分表のような顔をしている。
物理的な空席はあっても、そこが「座れる場所」であるとは限らない。
四人席に三人、二人席に一人。
壁際は埋まり、中央は騒音の渦。
(詰めれば座れる――じゃないんだよな)
物理ではなく、空気の密度の問題だ。
そこに割って入るだけの正当な理由がない。
余計な摩擦を引き起こすリソースも、今の誠にはないのだ。
トレーの重さが、わずかに腕に沈む。
時間が伸びる。
日替わりの焼き魚が、ラーメンのように伸びたりはしないのが救いだった。
そのとき、窓際の端。
四人席の片側に、妙に不自然な『空白』として残っている場所があった。
(桂か。ま、清浦はここに来ないしな)
刹那は徹底した弁当派だ。
光や七海と共に、その日の風向きに合わせて場所を変える。
食堂という喧騒に彼女が現れることは皆無だ。
(それにしても空きすぎだろ。四人席で三つ空いてるって、誰も入らないのかよ)
誠はトレーを抱えたまま、不可視の境界線を観測した。
桂言葉の周囲には、彼女の意図とは無関係に、峻烈な結界が張られている。
その容姿の美しさと、浮世離れした佇まい。
それが周囲の生徒たちに、「自分のような凡人が隣に座るべきではない」という無意識の気後れを強要させていた。
女子たちの視線には、羨望よりもむしろ、触れ得ぬものへの疎外感と嫉妬が混じっている。
(他を当たるのも面倒だ。もう、あそこでいいや)
誠は開き直り、その結界へと足を踏み入れた。
周囲の視線が、針のように突き刺さる。
「あいつ、誰だ?」
「あの桂さんの隣に座るつもりかよ」
そんな無責任な野次馬根性。
誠にとっては処理すべき情報ですらない。
「桂、ここ座っていい?」
誠の声は、平坦で、装飾がない。
言葉がビクリと肩を揺らし、顔を上げた。
大きな瞳に驚きと、場違いなほどの微かな期待が混じり合う。
「あ、伊藤くん。はい、もちろんです」
誠は対角線上に腰を下ろし、トレーを置いた。
少し冷めた焼き魚の匂い。
それが彼女の纏う微かな香水の香りと、冷えた空気の中で静かに混ざり合う。
言葉はどこか嬉しそうであり、それでいて落ち着かない様子で視線を泳がせた。
今まで誰も、この距離まで侵入してこなかったからだ。
誠は食事に集中した。
それを邪魔せず、言葉もパスタをフォークに巻き取る。
彼女の所作には、一点の曇りもない。
(清浦とは真逆だ。あっちが小さな冷淡の氷なら、こっちは大きな熱を秘めた炎か)
大人しい振る舞いの奥に、鉄のように真っ直ぐな芯の強さが熱を持っている。
背筋は一本の線が通ったように微塵も曲がらない。
居合でも習っているのかと言わんばかりの、完成された静止。
(皆が近づかないのは、この武術家みたいな空気のせいだな)
誠に武道の心得はない。
だが、本能は告げている。
不用意に触れれば、鞘に収まったままの日本刀で斬り落とされる。
そんな静かな畏怖がアラームを鳴らす。
(ま、俺は何もする気ないし。気にするだけコストの無駄。清浦なら絶対そう言う)
誠は思考を打ち切った。
脳内の刹那が無表情に頷く。
余計な先入観は持たない。
彼女に教わった『保留』という安全装置だ。
食べ終わる頃合いを見計らい、誠はふと思いつく。
(そういえば、桂はいつも本を読んでいる。……読書感想、彼女にとっては得意分野か?)
誠の持ち味は知の流動性だ。
特定の誰かの知に固執しない。
凪のような精神で、多様な視点をサンプリングする。
(清浦なら黙って去るんだろうけど……一つだけ、問いを置き土産にするか)
水を一杯飲み、間を置く。
「桂」
「あ、はい!?」
唐突な呼びかけに、言葉が弾かれたように応じた。
その反応速度もまた、居合のようだ。
猫のような過敏さ。
誠はそういう仕様だと受け入れ、問いを継ぐ。
「現代文の指定図書、読書感想文――あ、考察レポートな。あれを書くのは得意?」
言葉は、一拍だけ間を置いた。
「あの……得意、かどうかは分かりません。ですが……」
視線を落とし、言葉を慎重に選抜する。
「書くこと自体は、嫌いではありません。ただ……『正しい形』にしないといけないと思ってしまうので……少し、時間はかかるかもしれません」
回答は得意・不得意の軸ではなかった。
壊してはいけないという重圧の中、己を律して文章を紡ぐ人間としての矜持。
「なるほど」
「……伊藤くんは、どうですか?」
「読書感想?」
「あ、はい」
「そうだな。正直に言ってもいい?」
「は、はい」
「ぶん投げたくなるぐらい、避けて通りたいタイプだよ。ま、割り切ってやるけどさ」
言葉の目が点になる。
正直という前置きをした甲斐があった。
誠の拒絶があまりにストレートだったからだ。
「ぶん……投げるのですか?」
「『思想自由の尊重』と言えば伝わるかな。俺の読み方は、実際にやるためのものだから。感想という検閲は、プライバシーの侵害だと思っている」
「あ、はい……なんとなく、わかります」
「ま、そこは大人しく、兵法みたいに準備を整えてやり遂げるよ。……じゃあ、俺は行くね。質問の回答、ありがとう」
礼を述べて席を立つ。
座席というリソースを停滞させないための迅速な離席。
言葉もそれに応じるように、どこか憑き物が落ちたような顔で会釈を返した。
二つの異なる知。
食堂の喧騒の中で一瞬だけ交差。
再び、それぞれの孤独な軌道へと戻っていく。