Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
伊藤誠は、公共図書館の静寂の中で一冊の本をめくる。
タイトルは『手相の科学:運命のパターン認識』。
彼にとって、これは神秘の書ではない。
迷信というバグを含んだ、古いOSの仕様書に過ぎなかった。
(生命線か……。皮膚に刻まれたこの深い溝が、本当に寿命の期間を決められるのか?)
迷信だと切り捨てることはできる。
だが、誠が観測したいのは真偽そのものではない。
掌という極めて個人的な領域。
他者が勝手に物語で上書きし、運命を搾取する。
その社会的なアルゴリズムの構造を暴きたい。
(とりあえず泰介で検証してみるか)
翌日。
誠は教室の喧騒の中、標的とした澤永泰介を捕捉した。
「なんだ誠。手相占い? また随分とアナログな趣味を始めたな」
休み時間。
泰介が当然のように誠のパーソナルスペースを侵食してくる。
誠は動じない。
主導権を渡さないための先手。
ペース管理は常に自分で行う。
「そんな大げさなものじゃない。とりあえず右手を出せ」
「いいけどよ。……どうだ? 俺の将来はバラ色か?」
「……泰介。お前は、無駄に生存コストを浪費して長生きするタイプのようだ」
「え、マジか! そう言われると、そんな気がしてきた」
単純な男だ。
情報の信憑性よりも、提示された物語の心地よさを優先する。
誠はさらにログを読み上げるように続けた。
「それと、知能線の蛇行が激しい。本のアドバイスを引用するなら、『思考のふらつきが強く、注意散漫。周囲の状況を確認せよ』だそうだ」
「えー、俺ってそんなにフラフラしてるように見えるか?」
「さあな。俺は、この本に書かれた通りに診断しているだけだ」
適当にあしらいながら、誠の思考は加速する。
男子のサンプルはこれで足りる。
知りたいのは、その対極に位置するデータ。
より複雑で、より深淵な知性を持つ個体の掌だ。
(男女で手相の違いってあるのか?)
誠の脳裏に、二人の女子が浮かぶ
桂言葉。
あの白磁を思わせる皮膚の下。
どのような薄幸というプログラムが走っているのか。
彼女にとって、掌を晒すという行為は、自らの脆弱性を無防備に開示すること。
もし、彼女の生命線が絶望的に短ければ、それは彼女の悲劇的なラベルを決定的に補強してしまう。
(ただ見るだけ。……でも今の時勢だと、セクハラ案件になりそうだな)
清浦刹那。
彼女なら、これを無意味なノイズとして一蹴するだろうか。
あるいは、工学的な配線図を確認するように、迷いのない知能線を差し出すのか。
誠は、自らの掌を静かに握りしめた。
ここに刻まれた線は、流されるままだった昨年の『評価損』の名残か。
それとも、自律を誓った今の自分の『マイルストーン』か。
(手相に意味なんてない。けど、不確かな情報で人がどう意味をつけて、行動に影響するのか。……その転換点を見極めたい)
誠は携帯端末を取り出し、刹那へ簡潔なクエリという問いを送信した。
『手相の観察はセクハラに該当するか? 物理的接触なし、視認のみの場合』
送信。
返信には、通常の演算時間を大幅に超える沈黙があった。
それが彼女なりの慎重なリスクアセスメントであると誠は理解している。
やがて、端末が短く震えた。
『定義次第』
刹那特有の圧縮言語。直後に、詳細なプロトコルが流れてくる。
『手相=個人の身体情報(非公開領域)と定義する場合、同意なき観察は侵害。ただし、日常的な開放空間での視覚的検知のみなら、立件のリスクは極めて低い』
判断のグレーゾーン。
誠が眉根を寄せると、さらに追記が届く。
『付記:セクハラの成立要件は「出力側の意図」ではなく「入力側の認識」に依存する。相手が不快というフラグを立てれば、即アウト』
(やはり、主観というバグに左右されるか)
続けざまにもう一通。
『伊藤の場合、「観察」と「評価」が常にセット。無自覚な搾取に注意』
その一文だけ、やけに個人的な警告を含んでいた。
誠は少しだけ目を細める。
(完全に観測されているな。行動パターン、思考の癖、その全てを)
廊下から泰介の無邪気な笑い声が聞こえる。
誠はそれを背景ノイズとして処理した。
脳内の倫理防衛ラインが、刹那の提示した定義とせめぎ合う。
端末が最後に、一行だけのログを吐き出した。
『桂さんに聞く方が早い』
女子のサンプルは一人でいい。
泰介に対する対照実験としての真理。
刹那の解析に全てを委ねるか。
あるいは刹那の示唆に従い、言葉という劇物に直接触れるか。
迷いの末、誠が下した決断は――。
【清浦刹那にメールで問い合わせる→刹那編 第1話へ】
【桂言葉へ直接尋ねてみる→言葉編 第1話へ】