Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方―   作:完結の陽炎

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第3話:検索の幾何学

放課後の図書室。

山県愛が諸事情により当番を早めに切り上げることになった。

事前に申し出を受けていた刹那は、表情一つ変えずにそれを受理している。

 

「ごめんなさい、清浦さん。あとはお願いします」

 

「気にしないで。お疲れ様」

 

愛が申し訳なさそうに去り、扉が閉まる。

沈黙が降りたのも束の間。

タイミングを計ったかのように図書室の重いドアが再び開いた。

足音の主は一人。

刹那の演算通り、その男は現れた。

 

「お疲れ、清浦」

 

「まだ当番の時間、残ってる」

 

「そうだな。ちょうどいい」

 

カウンターの内側へ、誠が滑り込む。

代役を買って出たのは善意などではない。

刹那という高精度な演算機が吐き出す『知』。

それを、滞在時間という対価で買い取るための、極めて事務的な取引だった。

 

「誰もいないな」

 

「うん……伊藤」

 

「なんだ?」

 

「レファレンス、する?」

 

刹那の短い問いに、誠は首を横に振った。

 

「まずは知的対話の前処理が必要だ。自分が何を求めているのか、その輪郭がまだぼやけている。対話というプロセスを経てノイズを削ぎ落とさないと、核心は取り出せない。……まずは、対話だ」

 

「……お題は?」

 

「手相。先日、清浦は二人きりになれるあの『死角』を指定したよな?」

 

誠が人差し指で示した先。

歴史資料コーナーという、図書室の最果て。

重厚な書架が壁となり、カウンターからは死角となる、情報の墓場にして聖域だ。

 

「そこで桂についての『致命的なバグ』を教わったわけだが……」

 

「うん」

 

「泰介なら、あのシミュレーションを『密室のエロ展開』と定義したはずだ。清浦は俺がそのように逸脱(バグ)を起こす可能性を想定しなかったのか? 危機管理として、それは甘いんじゃないか?」

 

人を信じるなという警告か。

それとも自身の抑制力への挑発か。

誠が投じた不躾な問いを、刹那は淡々と、しかし剃刀のような鋭さで受け流す。

 

「伊藤の目的は、常に知の収集。あの学園祭の瓦解を経て、伊藤は快楽よりも『生存と自律』を最優先課題に置いている。……違う?」

 

刹那の瞳には、一切の揺らぎがない。

望むところとしたのか、誠も真っ向からその視線を受け止めた。

 

「人間の性欲は生理的欲求だ。それ自体を全否定すれば、人類は滅亡する。……俺がその本能に屈するという確率は、理論上ゼロではなかったはずだ」

 

「場所をあそこに指定したのは、もし伊藤が逸脱しても、私が声を上げれば図書室全体に響く。逃げ場のない死角は、迎撃に最適なフィールド」

 

「清浦が大声を上げる? それは貴重なデータだな。代償として、俺の社会性が抹殺されることになるが」

 

「試す?」

 

「いや。やるなら山彦のある山で実験したい。なぜ声が反射するのか、その現象を物理的に検証する方が、知的探究として遥かに有意義だ」

 

「伊藤。山に行かなくても、山彦はここにいる」

 

どこに、と誠の目が問う。

刹那は自身の胸元に指先を添えて答えた。

 

「私の返答。……伊藤が投げた問いに対し、私が最短ルートで解を戻す。これも一種の、知の山彦」

 

誠が論理を投げれば、論理が返る。

沈黙を投げれば、沈黙が返る。

そこには桂言葉のような情緒による増幅も期待による歪曲もない。

極めて純度の高い、ミラーリングの対話だ。

 

「山彦は、自分の声しか聞こえない。だから、安心。でも、新しい知は生まれない。ただの自己完結」

 

ここで誠は、静かに行動に移った。

カウンター上の蔵書検索(OPAC)端末へ指を走らせる

 

キーワード:『手』

――『二文字以上で検索してください』

キーワード:『手相 運命 人は計算で測れない』

――『該当する書誌がありません』

キーワード:『手相』

――『該当件数は 276件です』

 

「……いい線はいったが、ノイズが多すぎる」

 

誠が目で合図を送る。

ここからどうやって、真実の書誌を抽出するのかと。

刹那は一瞬だけ目を細めた。

誠は場所を空け、キーボードを譲る。

刹那の細い指が、端末のキーを弾き始めた。

ここから、彼女のレファレンスの幾何学が開始される。

 

「伊藤、ヒット数が多いのは、検索式を『面』で捉えようとしているから」

 

刹那は迷いなく、演算子(オペレーター)を追加していく。

それを特等席で観察しているのが誠だけだ。

 

「『手相』だけでは、占い、統計、医療、歴史、オカルト……あらゆるノイズを拾う。……知の山彦を、一点に収束させる」

 

「理屈はその通りだが、『該当なし』で弾かれるのがオチだろ?」

 

「検索式は『言葉の羅列』じゃない。それは『座標の指定』」

 

刹那の指が、精密機器のスイッチを入れるようにエンターキーを叩いた。

画面が瞬時に、冷徹なリストへと切り替わる。

 

――『該当件数:3件』

 

誠は思わず、画面に顔を寄せた。

溢れかえっていたノイズが、まるでモーゼが海を割るように消え去っている。

残ったのは、硬質な学術的匂いのする三つの書誌だけだ。

 

1.『身体図像の記号論:掌紋と線の文化史』

 

2.『非言語コミュニケーションにおける自己開示の深度:手の表情を読む』

 

3.『確率論から見た占いと相関係数の罠』

 

誠は感嘆を通り越し、一種の恐怖すら覚えた。

刹那が使ったのは、単なるキーワードの掛け合わせではない。

NDC(日本十進分類法)の分類番号を直接コードに組み込む。

そこから、キーワードの抽象度を物理的な棚の座標へと強制的に落とし込む。

まさに情報の外科手術だ。

 

「伊藤、知の山彦が返ってこないのは、叫ぶ方向を間違えているから。山に向かって叫ばず、鏡に向かって叫んでいる。……それだと、自分の願望というエコーしか返らない」

 

刹那が端末の画面から誠へと視線を変える。

誠と目が合い、ここから選択肢を提示した。

 

「三冊。どれにする?」

 

「……二冊目の『自己開示』。桂に掌を見てはいけないと警告した清浦の理論。その支柱がここにあると推察する」

 

刹那は無言で頷き、誠を目的の棚へと案内した。

そこは最上段。

刹那の身長では、腕を伸ばしても届かない領域だ。

 

「清浦、上の段というのは、どうしてこうも使い勝手が悪いんだ?」

 

「蔵書の保存量確保のため」

 

「下段は腰への負担、上段は脚立の使用コスト。システムとしては不親切だろ」

 

「ぼやいても仕方ない。伊藤、脚立はここ」

 

脚立を動かして指定の場所まで運ぶ。

ちょうどいい位置でストップをかけた。

 

「三流の漫画なら、清浦が無理に取ろうとして俺が支える、なんていうお約束の展開になるんだろうな」

 

「甘えない。自分で取って」

 

「言われなくてもそうする」

 

誠は脚立に登り、慎重に目的の一冊を抜き取った。

無理な背伸びで本を傷めるような愚は犯さない。

それが誠なりの、知への敬意だから。

下り際、見上げている刹那に本を手渡した。

 

「脚立は俺が片付ける。清浦は貸出手続きを頼む」

 

「うん」

 

歴史資料コーナーの入り口。

誠は脚立を畳み、静寂を運び戻す。

刹那がカウンターで、一冊の自己開示を受け取る。

二人の間にあるのは、熱でも、恋でもない。

ただ、冷徹で美しい、知の同期だった。

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