Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
放課後の図書室。
山県愛が諸事情により当番を早めに切り上げることになった。
事前に申し出を受けていた刹那は、表情一つ変えずにそれを受理している。
「ごめんなさい、清浦さん。あとはお願いします」
「気にしないで。お疲れ様」
愛が申し訳なさそうに去り、扉が閉まる。
沈黙が降りたのも束の間。
タイミングを計ったかのように図書室の重いドアが再び開いた。
足音の主は一人。
刹那の演算通り、その男は現れた。
「お疲れ、清浦」
「まだ当番の時間、残ってる」
「そうだな。ちょうどいい」
カウンターの内側へ、誠が滑り込む。
代役を買って出たのは善意などではない。
刹那という高精度な演算機が吐き出す『知』。
それを、滞在時間という対価で買い取るための、極めて事務的な取引だった。
「誰もいないな」
「うん……伊藤」
「なんだ?」
「レファレンス、する?」
刹那の短い問いに、誠は首を横に振った。
「まずは知的対話の前処理が必要だ。自分が何を求めているのか、その輪郭がまだぼやけている。対話というプロセスを経てノイズを削ぎ落とさないと、核心は取り出せない。……まずは、対話だ」
「……お題は?」
「手相。先日、清浦は二人きりになれるあの『死角』を指定したよな?」
誠が人差し指で示した先。
歴史資料コーナーという、図書室の最果て。
重厚な書架が壁となり、カウンターからは死角となる、情報の墓場にして聖域だ。
「そこで桂についての『致命的なバグ』を教わったわけだが……」
「うん」
「泰介なら、あのシミュレーションを『密室のエロ展開』と定義したはずだ。清浦は俺がそのように逸脱(バグ)を起こす可能性を想定しなかったのか? 危機管理として、それは甘いんじゃないか?」
人を信じるなという警告か。
それとも自身の抑制力への挑発か。
誠が投じた不躾な問いを、刹那は淡々と、しかし剃刀のような鋭さで受け流す。
「伊藤の目的は、常に知の収集。あの学園祭の瓦解を経て、伊藤は快楽よりも『生存と自律』を最優先課題に置いている。……違う?」
刹那の瞳には、一切の揺らぎがない。
望むところとしたのか、誠も真っ向からその視線を受け止めた。
「人間の性欲は生理的欲求だ。それ自体を全否定すれば、人類は滅亡する。……俺がその本能に屈するという確率は、理論上ゼロではなかったはずだ」
「場所をあそこに指定したのは、もし伊藤が逸脱しても、私が声を上げれば図書室全体に響く。逃げ場のない死角は、迎撃に最適なフィールド」
「清浦が大声を上げる? それは貴重なデータだな。代償として、俺の社会性が抹殺されることになるが」
「試す?」
「いや。やるなら山彦のある山で実験したい。なぜ声が反射するのか、その現象を物理的に検証する方が、知的探究として遥かに有意義だ」
「伊藤。山に行かなくても、山彦はここにいる」
どこに、と誠の目が問う。
刹那は自身の胸元に指先を添えて答えた。
「私の返答。……伊藤が投げた問いに対し、私が最短ルートで解を戻す。これも一種の、知の山彦」
誠が論理を投げれば、論理が返る。
沈黙を投げれば、沈黙が返る。
そこには桂言葉のような情緒による増幅も期待による歪曲もない。
極めて純度の高い、ミラーリングの対話だ。
「山彦は、自分の声しか聞こえない。だから、安心。でも、新しい知は生まれない。ただの自己完結」
ここで誠は、静かに行動に移った。
カウンター上の蔵書検索(OPAC)端末へ指を走らせる
キーワード:『手』
――『二文字以上で検索してください』
キーワード:『手相 運命 人は計算で測れない』
――『該当する書誌がありません』
キーワード:『手相』
――『該当件数は 276件です』
「……いい線はいったが、ノイズが多すぎる」
誠が目で合図を送る。
ここからどうやって、真実の書誌を抽出するのかと。
刹那は一瞬だけ目を細めた。
誠は場所を空け、キーボードを譲る。
刹那の細い指が、端末のキーを弾き始めた。
ここから、彼女のレファレンスの幾何学が開始される。
「伊藤、ヒット数が多いのは、検索式を『面』で捉えようとしているから」
刹那は迷いなく、演算子(オペレーター)を追加していく。
それを特等席で観察しているのが誠だけだ。
「『手相』だけでは、占い、統計、医療、歴史、オカルト……あらゆるノイズを拾う。……知の山彦を、一点に収束させる」
「理屈はその通りだが、『該当なし』で弾かれるのがオチだろ?」
「検索式は『言葉の羅列』じゃない。それは『座標の指定』」
刹那の指が、精密機器のスイッチを入れるようにエンターキーを叩いた。
画面が瞬時に、冷徹なリストへと切り替わる。
――『該当件数:3件』
誠は思わず、画面に顔を寄せた。
溢れかえっていたノイズが、まるでモーゼが海を割るように消え去っている。
残ったのは、硬質な学術的匂いのする三つの書誌だけだ。
1.『身体図像の記号論:掌紋と線の文化史』
2.『非言語コミュニケーションにおける自己開示の深度:手の表情を読む』
3.『確率論から見た占いと相関係数の罠』
誠は感嘆を通り越し、一種の恐怖すら覚えた。
刹那が使ったのは、単なるキーワードの掛け合わせではない。
NDC(日本十進分類法)の分類番号を直接コードに組み込む。
そこから、キーワードの抽象度を物理的な棚の座標へと強制的に落とし込む。
まさに情報の外科手術だ。
「伊藤、知の山彦が返ってこないのは、叫ぶ方向を間違えているから。山に向かって叫ばず、鏡に向かって叫んでいる。……それだと、自分の願望というエコーしか返らない」
刹那が端末の画面から誠へと視線を変える。
誠と目が合い、ここから選択肢を提示した。
「三冊。どれにする?」
「……二冊目の『自己開示』。桂に掌を見てはいけないと警告した清浦の理論。その支柱がここにあると推察する」
刹那は無言で頷き、誠を目的の棚へと案内した。
そこは最上段。
刹那の身長では、腕を伸ばしても届かない領域だ。
「清浦、上の段というのは、どうしてこうも使い勝手が悪いんだ?」
「蔵書の保存量確保のため」
「下段は腰への負担、上段は脚立の使用コスト。システムとしては不親切だろ」
「ぼやいても仕方ない。伊藤、脚立はここ」
脚立を動かして指定の場所まで運ぶ。
ちょうどいい位置でストップをかけた。
「三流の漫画なら、清浦が無理に取ろうとして俺が支える、なんていうお約束の展開になるんだろうな」
「甘えない。自分で取って」
「言われなくてもそうする」
誠は脚立に登り、慎重に目的の一冊を抜き取った。
無理な背伸びで本を傷めるような愚は犯さない。
それが誠なりの、知への敬意だから。
下り際、見上げている刹那に本を手渡した。
「脚立は俺が片付ける。清浦は貸出手続きを頼む」
「うん」
歴史資料コーナーの入り口。
誠は脚立を畳み、静寂を運び戻す。
刹那がカウンターで、一冊の自己開示を受け取る。
二人の間にあるのは、熱でも、恋でもない。
ただ、冷徹で美しい、知の同期だった。