Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方―   作:完結の陽炎

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第4話:性悪説の自己防衛

刹那の危機管理能力。

それに対して誠は、極めて批判的な評価を抱いた。

 

彼女の構築する防御構造。

論理としては確かに美しい。

だが、そこには致命的な欠落がある。

圧倒的な暴力や権力。

すなわち、論理すら通用しない絶対的な力による蹂躙。

そこが計算に含まれていない。

 

誠には、その欠落を無視できない理由があった。

自分の中に流れる、沢越止という男の血。

女たちを食い散らかし、母を深く傷つけ、今なおのうのうと現世を謳歌する父。

良心という機能が初めから欠損している個体。

 

今の誠にとって、父への怒りなどはコストの無駄遣いに過ぎない。

だが、その悪の系譜を受け継ぐ自分自身を客観視したとき。

刹那の防衛思想は、あまりに無防備な楽観に見えてしまったのだ。

 

(声を上げれば響く? ――甘い。声を上げる隙すら与えられなかったら、どうするつもりだ)

 

口を塞ぎ、急所を突き、致命的な弱みを握って沈黙を強要する。

沢越止なら、呼吸をするように平然とやってのけるだろう。

 

ここで思い出すのは、一年の後期。

自分可愛さにクラス委員を丸投げしようとしたクラスメイトたち。

あの醜悪な保身の顔。

自らの安寧のため、他者を踏み台にする搾取の構造。

それは性欲の原理と何ら変わりはない。

 

(清浦の理屈は、話の通じる俺だから成立している。父さんのようなタイプにとって、あの死角は絶好の狩場だ)

 

ならば、徹底的に余白を潰すべきであろう。

迎撃のための金的、視覚を奪う催涙スプレー、密着撃退のスタンガン。

そこから秒単位の逃走経路。

敵に情けなど不要。

再起不能にするまでのパッチを当てる必要がある。

 

(清浦に『もしも』があれば、俺にとっては知の共有財産における甚大なダメージ。代替不可能な演算機。もっと自分を大切にしてほしいものだが)

 

誠は携帯を手に取り、その容赦のない意見をテキストに叩き込んだ。

要約すれば以下の一文となる。

 

『清浦には人間の醜さに対し、徹底的な対策が不足している』

 

しばらくして、端末が鋭く震えた。

 

『同意。私のシミュレーションに「伊藤誠」以外の男性データ、不足。伊藤の指摘する、絶対的な悪意の介入……それはシステムの強制終了を意味する。伊藤、代案はある?』

 

誠の口元が、自嘲気味に歪む。

己の血の半分を占める悪。

それを刹那を守るための盾の設計図として利用する。

これこそが、偽造パスポートを持って生きる、今の彼に相応しい戦い方だ。

 

『次回の放課後、その脆弱性の修正パッチを当てていこう』

 

放課後の教室。

部活もバイトもない学生たちが去り、静寂が沈殿する空間。

普段は流される場所となるが、今は『検証の場』となっていた。

 

「……それで?」

 

刹那が、机に置いた自分の細い手首を見つめながら問いかける。

その華奢な骨格。

物理演算を行えば、彼女が圧倒的な劣勢にあることは自明だ。

 

「清浦が去年のあの委員なすりつけで経験した通り、人間の搾取には底がない。もし奇襲する悪意がいたとして、一人で対処できるだけの力はあるのか?」

 

「……私の身体では、物理的な拒絶に限界がある。それは認めざるを得ない」

 

「そうだろう。だからこそ、戦う以前に回避することが必要だ」

 

「『幾何学』?」

 

「また難しい専門用語を……まあ、そんなところ。例えば、清浦を壁に追い詰めて壁ドンに持ち込まれたら、その時点ですでに手遅れだ」

 

誠が教室の壁で手を押し付けているポーズ。

傍から見れば滑稽に映るが本人は至って真面目である。

刹那はジーと座ったままそれを静かに見守った。

 

「腕を掴めるのは、間合いを詰められてしまっている証拠。社会性を維持しつつ、セーフゾーンを死守する。清浦、ちょっと立ってみてくれ」

 

刹那は無言で従った。

誠は教卓と机の角を結ぶ直線の延長上に身を置き、自分の位置を微調整する。

 

「まず、背後に死角を作らない。壁を背負うのは一見安全に見えるけど、退路を断たれるリスクの方が高い。常に二方向以上に逃げられる軸を意識しろ」

 

沢越止なら、こうして常に逃げ場を確保して女たちを渡り歩いたはずだ。

その逃げ癖を、今は自衛の技術として転用する。

 

「チェスのナイト、多角的な移動経路?」

 

「そうだ。そして視線。相手の目だけを見るな。肩、胸、足元の重心を視野の隅に入れる。動き出しの予兆は、視線より先に重心に現れるから」

 

誠はあえて、刹那の間合いへと一歩踏み込んだ。

かつての流されるままだった自分。

甘い接触と勘違いしたかもしれない距離。

だが、今の誠にとって、それは単なるデモンストレーションに過ぎない。

 

「今、俺は踏み込んだ。清浦ならどう動く?」

 

「……右斜め後ろに半歩。伊藤の右腕の可動域から外れる位置」

 

刹那は音もなく、駒を滑らせるように位置を変えた。

誠の指先が届くはずだった空間。

物理的な空白へと書き換わった。

 

「ああ、それだ。物理的な力で競わないこと。相手が力を発揮できる座標を、最初から与えない」

 

誠は自分の掌を見つめる。

ここには、獲物を捕らえるための筋力が備わっている。

それを自覚しているからこそ、届かない場所を正確に定義できる。

 

「伊藤、一つ確認」

 

「なんだ?」

 

「……もし、この幾何学を突き抜けてくる悪意がいたら?」

 

「その時は、知の防衛を解除だ」

 

徹底的に、再起不能まで叩き潰す。

そのための、泥臭い手段に切り替える。

法も、倫理も、その瞬間にパージだ。

自分の命を守るための正当防衛である。

 

「……了解。その自衛パッチ、私のシステムに統合する」

 

「催涙スプレーは遠距離、スタンガンは近距離。だが、ぶっつけ本番で体が硬直しては意味がない」

 

「うん」

 

「……清浦、この消しゴムを防犯ブザーに見立てて、今から投げるぞ」

 

宣言通り、消しゴムを刹那の顔面に向けてスローで投げた。

彼女が手で覆うようにしてキャッチした瞬間。

誠は一気に踏み込み、がら空きとなった彼女の脇腹に携帯電話を押し当てる。

 

「……っ」

 

刹那の喉が小さく鳴った。

もし携帯がスタンガンであれば。

彼女の華奢な神経を一瞬で焼き切り、演算を強制停止させる一撃となっていた。

 

「基本は距離を置くことだけど、万が一のこうした近接術も想定したほうがいい」

 

誠は携帯をしまい、再び適正な距離をとった。

 

「清浦の不愛想や合理性は、最高の武器だ。相手に主導権を握らせない。その姿勢はこれからも維持したらいい。俺が今伝えているのは、話し合いが通じない『最悪な相手』への事前対処だ。搾取される前に、その芽を摘む。……それが、生き残るための戦術だと俺は考えている」

 

西日が長く伸び、二人の影を床に鋭く刻む。

誠の影は、どこか父の面影を宿している。

それを踏み越えていくような、歪で強固な輪郭を持っていた。

 

(伊藤は、悪意ある者から私が壊れないよう、徹底した対抗手段を提供している)

 

世俗的な情などではない。

かといって、単なる維持管理でもない。

刹那のあるがままでいてほしいという切実な願い。

だが、それだけではこの泥濘のような現実を生き抜くには危険。

そんな誠なりの最大級な忠告だった。

 

「俺と同じ泥を被ってほしいわけじゃない。ただ、その純粋な論理の牙城が、下劣な力で崩されるのが我慢ならない。……これは一種のメンテナンス。システムが致命的なバグで停止しないためのな」

 

「伊藤……それって、独占禁止法?」

 

「図書館でいえば貴重資料の保護だ。清浦は、俺にとって唯一まともに知的対話ができる相手。もし低俗な悪意に壊されたら、俺の知における可能性もろとも消滅してしまう」

 

「桂さんは?」

 

刹那の短い問い。

誠の眉が微かに動いた。

 

「……それ、わかってて言ってるだろ。桂に深追いすれば破滅すると警告したのは、他ならない清浦じゃないか」

 

刹那は、先ほど誠が押し当てた携帯電話の感触を反芻するように、自分の掌でその位置をなぞった。

物理的な衝撃は既に消えている。

だが、誠が提示した悪意の座標という教訓。

それは、刹那の論理回路の深淵に、消えないログとしてアーカイブされた。

 

「伊藤こそ貴重資料。……それも、保護が必要。そうでなければ演算の筋が通らない」

 

「俺は清浦みたいに小さくも可愛くもない。ただの男子だぞ」

 

男と女では自衛の在り方が違う。

すると刹那は無機質な瞳のまま淡々と答えた。

 

「桂さん、山県さん、加藤さん……とりあえず三名。他にも観測範囲内で、伊藤をターゲットに設定する個体はいる」

 

刹那が淡々と出力したリスト。

それは誠にとって、単なる環境の一部に過ぎなかった存在を、明確な脅威へと変質させた。

 

「穏やかじゃないな」

 

「……現在の伊藤は、誰の所有物でもない『空白地帯』。それは、全方位に対し、占有権の主張を許容している」

 

「それは清浦だって同じだろ。田中みたいな情緒搾取が湧くんだから。人のことは言えないはずだ」

 

誠の切り返しに、刹那はわずかに睫毛を伏せた。

二人の影は、整然と並んだ机のグリッドを横切る。

壁の端で一つの歪な輪郭となって溶け合っていた。

 

「私は『閉鎖系』。……他者が侵入するには、パスワードが必須。物理的暴力という特権命令を除けば、私のシステムを書き換えるのは計算上困難」

 

「ほう」

 

「でも、伊藤は違う。……伊藤は、全方位に対して『論理的対話』のポートを開放中。それは悪意あるハッカーにとっては格好のバックドア」

 

「具体的な解説を頼む」

 

「……桂さんの執着、山県さんの好奇心、加藤さんの独占欲。彼女たちは、伊藤の望む『知の等価交換』に関心がない。……彼女たちが求めているのは、伊藤誠というリソースの『全権取得』」

 

誠は窓の外、血のように赤く染まった校庭を眺め、冷徹に思考を走らせる。

刹那の言う全権取得。

それは、自分が考えなくて済む楽という対価を支払うこと。

同時に、主導権を無意識に放棄した流されるままの状態という意味でもあった。

 

「清浦、女子は男子みたいに力攻めはないだろ?」

 

「ない」

 

「じゃあ俺が狙われるとしたら、どんな攻め方をするんだ?」

 

「情緒的搾取。伊藤は論理的に説明されると、相手の歪みを許容するバグがある。それは致命的な弱点」

 

「……山県や加藤がそんな論理的な話すると思うか?」

 

「桂さんは?」

 

鋭い刃物として突き刺さる指摘。

誠が言った二人は論理がない。

あくまで感情論の押し付け。

しかし言葉は別格な異質さを放っている。

これには沈黙で返すしかなかった。

 

「図星。今、伊藤が演算した通り、桂さんは高度な説明能力を保持している」

 

「そうか」

 

「情緒という文学的領域のスペシャリスト。彼女は、その能力を理論武装して最大活用できる」

 

「普段、読書している桂を見ていると、充分すぎるほどあり得る話だ」

 

ここで刹那が一歩前進し、誠に歩み寄る。

先ほど誠が教示した幾何学の間合い。

それをあえて無視し、誠のパーソナルスペースという非公開領域へ、音もなく滑り込む。

 

「清浦、近い」

 

「これは警告。……私が壊されれば伊藤の可能性が消えると言った。……それは逆に、伊藤が誰かに占有されたら、私の『知の山彦』は二度と機能しなくなる」

 

「……他を当たれ、なんて無責任なことは言わないよ。実際、俺には清浦以外に対等に渡り合える相手はいない。他を探せと言われたところで、そんなヤツはいねえよ、と答えるのがオチだ」

 

孤独な思索の時間は、二人とも大切にしている。

だが、それだけではこの過酷な搾取の時代を乗り越えられない。

個人の限界を、二人は痛いほど理解していた。

誠は、父から継いだ強欲な好奇心を制御するために、膨大なコストを払っている。

検索をかけてもノイズに埋もれる知。

それを刹那が最短ルートで整理・抽出してくれる。

刹那という演算機を失えば、誠の知の探求におけるコストパフォーマンスは瓦解するのだ。

 

「伊藤、下校時刻。校門が閉まる」

 

「もうそんな時間か。早いな」

 

「そういうもの」

 

隣り合わせで歩き始める二人。

身長差はあっても、その歩幅の論理は完璧に同期していた。

 

(通学路の治安はどうだろうな)

 

誠は実験としてわざと歩調を遅らせる。

刹那の斜め後ろ、奇襲をカバーできる位置に回ろうとしたが。

 

「伊藤、遅い。歩調の乱れを検知」

 

「背後からの奇襲、あるいは後方からの車両接近による危険性はどうよ?」

 

誠は視線を背後の住宅街の影へと走らせる。

教室内で刹那に叩き込んだ幾何学。

それを、今度は自分自身に適用している。

二人で歩くということは、死角を共有するということでもあるから。

 

「……過剰防衛」

 

「確かに。清浦のストレスになっては本末転倒か」

 

刹那の静かな抗議を受け、誠は潔く隣へ戻った。

 

「俺が誰かの『空白地帯』だとしても、そこに入り込もうとする相手が、俺の知的探究を理解するとは思えない」

 

「んっ……」

 

「結局、彼女たちが欲しいのは『伊藤誠』というラベルを貼った、都合のいい人形か?」

 

「概ね正解。……ただし、彼女たちはその占有欲を『愛』と呼称する。……自覚なき搾取」

 

「悪意がないからこそ、こちらの防衛網を『冷たい』の一言で無効化しようとするわけか。厄介だな」

 

校門を抜け、駅へと続く緩やかな坂道。

街灯が一つ、また一つと灯り、二人の足元に複雑な幾何学模様の影を投影していく。

 

「伊藤。……先ほどのリストに、私の名前を含まなかった」

 

「なんだよ、性悪説に基づいた警戒対象に入れてほしかったのか? 仲間外れにされて憤慨しているとか」

 

誠は冗談めかして言ったが、その瞳は笑っていない。

誠が刹那を脅威リストから除外していること。

それは、誠が刹那に対してのみポートを開放している。

 

刹那が立ち止まり、街灯の光と影の境界線に身を置く。

 

「論理的欠陥。私は伊藤に対し、物理的・心理的に最短距離に位置している。……本来なら、最大警戒対象(Sランク)に設定すべき」

 

「それは勝負にならないからだ」

 

「勝負?」

 

「清浦のスペックを100としたら、俺は精々10だ。警戒なんて無駄なコストを払うだけ損だよ。やるならやれ。それで清浦の気が済むなら安い買い物だ」

 

誠はさらに続ける。

刹那の観察した瞳を射抜くかのように。

 

「俺は俺のために生きる。清浦もそうだろう? 互いの目的は『この搾取される現実をいかに生き抜くか』で一致している。その合理性が、共倒れになるような裏切りを許容すると思うか?」

 

刹那の表情はいつも通りに固い。

だが瞳の奥でわずかな熱がこもった。

 

「もし俺を壊せば、最大の損失を被るのは清浦だぞ」

 

「……莫大な損失。修復不可能なデータの全損。それは私の本意ではない」

 

刹那は独り言のように呟き、再び歩き出す。

その歩調は、先ほどよりも微かに、誠の方へと寄っていた。

物理的な接触はない。

だが、二人の間を流れる空気の密度は、確実に熱を帯びた同期へと変質していた。

 

「理解した。私は私自身の合理性に従い、伊藤誠というリソースを維持・管理する。それは――私自身を保護することと同義」

 

「管理、か」

 

「不満?」

 

「……いや。去年の学園祭で、周囲に搾取され、振り回されたことを思い出した。あの時、クラス委員として清浦に管理されていたら、また別の未来があったかもしれないと思ってさ」

 

「それとは別。あの時の管理は、理不尽に対する傲慢。でも、今の管理は――相互利益の恒久的な保護」

 

刹那の言い分に、誠は自嘲気味に笑った。

自分の中に流れる、沢越止の破壊する血。

それを、清浦刹那の保守する論理が包囲して中和していく。

その感覚は、真新しいパスポートの刻印のような、奇妙な安堵感を伴っていた。

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