Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
夏休みの熱気がアスファルトを白く焼き焦がす外界。
そこから切り離された、静謐なるアーカイブ。
誠は、目的としていた食品衛生管理者、MOS、そして漢字検定の習得を完了させていた。
今や彼の内面は、昨年の流されるままだった脆弱な肉体ではない。
実務的な論理という硬質な装甲でコーティングされている。
今日は、その知の余白を埋めるべく、普段とは異なる区立図書館の書架を回遊していた。
その完璧なルーチンの中で、計算外の変数が佇んでいる。
「あっ……」
「おっ?」
書架の隙間、背表紙が織りなす情報の迷宮の向こう側に、清浦刹那がいた。
制服という規格を脱ぎ捨て、私服のワンピースを纏った彼女。
トレードマークのリボンも夏仕様の涼しげな青色に換装されている。
刹那の瞳に、一瞬だけ驚きのパルスが走る。
だが、彼女は即座にそれを日常的な沈黙へと上書きした。
(おっと、図書館で私語はダメだよな)
誠は小さく「お構いなく」と唇を動かし、会釈を残して移動した。
OPAC(蔵書検索)端末の前に座り、キーを叩く。
キーワード:『ヤンデレ』
――該当件数12件。館内3件。
抽出されたのは、娯楽としてのサスペンス小説と、その病理を体系化したというカルチャー辞書。
誠は請求記号を脳内メモリに記録し、閉架の奥へと踏み込んだ。
古い冷房装置が、肺を病んだ老人のように喘ぎながら冷気を吐き出している。
誠はシャツの袖を捲り、最下段からその一冊を引き抜いた。
タイトルは『ヤンデレ大百科』。
ページを捲るたびに、視神経を逆なでする暴力的な記述が網膜に飛び込んでくる。
(盗撮、監禁、睡眠薬、拘束、地下室、包丁……)
救いようのない、絶望的なアルゴリズムの羅列。
誠の口元から、乾いた苦笑が零れ落ちる。
恋愛の高純度な燃料を用いた、アウトプットの残虐。
そこに広がるのは、法への抵触と、人格の徹底的な毀損。
(対象を自分だけのプライベート領域へ幽閉し、他者のアクセスを一切禁じる……。清浦が警告した他者という概念の抹消とは、この狂信的な独占欲の行き着く先か)
言葉がここまでの暴挙に出るとは思えない。
だが、ヤンデレという物語に例外のハッピーエンドは存在しない。
必ず破滅というバッドエンドでプログラムが強制終了される。
決めつけられた運命。
それは、誠が最も忌避すべき不自由の極致であった。
(清浦をこの定義に当てはめようとしても、デレの成分がないから計算できないな)
誠は本を閉じ、汚染物質を隔離するように慎重に棚へ戻した。
不毛だ。
これなら駄洒落全集でも読んでいた方が、知の呼吸は深まっただろう。
その時、視界の端にワンピースの裾が揺れた。
隣の書架の影から、刹那がその無機質な瞳で誠の挙動をトレースしていた。
「……伊藤。不純物の処理、終了した?」
低く、埃っぽい静寂に溶け込むような声。
彼女の視線は、誠が今しがた隔離した猛毒を正確に射貫いている。
誠は無言で立ち上がり、自動ドアを抜けて外へと出た。
会話というノイズを許容できるのは、この酷熱の外界しかない。
「外、暑い」
刹那が半歩後ろから影のように追随する。
冷房で冷えた肌を、日陰に溜まった粘りつくような熱気がなぞる。
遠くで蝉の声が、不協和音となって降り注いでいた。
誠は自動販売機でスポーツドリンクを二本購入し、結露した一本を彼女に手渡した。
「対話するなら外しかないだろ。他のお客さんに迷惑をかけられない」
「配慮の徹底。伊藤らしい」
刹那はボトルの冷たさを確かめるように握り、視線を上げた。
「それで。あの本に、求める『知』は存在した?」
誠は冷たい液体を喉に流し込み、脳にこびりついたヤンデレの毒を中和する。
「救いがないな。あの本に書かれているのは、閉鎖系への幽閉と心中、それによるバッドエンドのみ。幸福という名のハッピーエンドが、一行すら存在しない」
「……それは妥当。閉鎖系に自己完結を求めるロジックに、持続可能な幸福は存在しない」
「一途な愛という名目で、独占欲の暴走か。清浦は『わかったつもりになるな』と警告するだろうけどな」
刹那がボトルをキャップを空けてごくごくと飲む。
誠は蝉の鳴く方角を眺めながら続けた。
「ただ、例外のないシステムはどうにも退屈だよ。不可能を可能にするロマン……ハッピーエンドへの分岐を期待したんだが」
「そんなものはない」
「ああ、この手の刺激物は、破滅こそが唯一の売価らしい。はっきり言って興醒めだ」
誠はボトルのキャップを、MOSの手順を守るようにカチリと音を立てて締め直した。
自律という名の、自己管理の徹底である。
「清浦がいなければ、俺は情報の便秘になっていただろうな。独りよがりの知は、停滞して腐ってしまう」
誠のあまりにも明け透けな独白に、刹那の眉がわずかに寄った。
「……伊藤、言い方が低俗」
「思考の生存戦略に綺麗も汚いもない」
誠は再び自動ドアを潜って静寂のアーカイブへと戻る。
冷房の効いた館内へ入った。
一瞬で汗が引き、脳の熱量が適正温度へと下がっていく。
(……伊藤の中にあるのは、老廃物ではない。未整理の、膨大なデータベース……)
背後から、刹那が静かに追いかけて来る。
誠が足を止めると、彼女はワンピースの裾を整えながら、誠の横に並んだ。
ここで三度、誠がOPACに向かってクエリを投じる。
『ヤンデレ 救済』
『狂気愛 ハッピーエンド』
『人生 搾取 回避』
――該当する書誌はありません。
(……振られたな)
誠は溜息を吐き、椅子から立ち上がった。
背後には、彼の空振りを観測し続けていた刹那の気配。
誠は手持ちのメモに、ペンを走らせる。
『すっからかん、にゃんてこったいと猫になってふて寝したい気分』
刹那は一瞥し、無機質な動作でペンを奪い取った。
そのまま、誠のふざけた一文の下に、精密な回路図のような筆跡で追記する。
『猫に論理的思考は不可能。伊藤、退化は非推奨』
『俺は三顧の礼を尽くしたが、軍師は不在。今回の探索は失敗だ』
刹那はそのメタファーを数秒間見つめる。
誠から新たなメモを受け取って、脳内の演算を走らせた。
『誤読。諸葛亮は「天下三分の計」を提示した。だが、その本が提示したのは「世界二分の計」。自分と相手以外の全ノードを抹消する、排他的なアルゴリズム』
『失敗に違いないだろ?』
『伊藤の探索は失敗ではない。不純物の存在を「確認」したことが、現時点での最大収穫』
刹那はペンを誠に返すと、自身のカバンから一冊の私物を取り出した。
図書館の蔵書にはない、彼女だけの非公開アーカイブ。
金文字で刻まれたタイトルは『近代公衆衛生の構造:規律と空間』。
『口直しに、これ。私の推奨(リコメンド)。読む?』
それはヤンデレという個人の情念に汚染された空間を、冷徹な統治と清潔さで上書きするための処方箋。
誠はその本を受け取る。
夏の西日が、二人が座る死角を、静かな琥珀色の沈黙で塗り潰していった。