Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
夏休みの図書室。
冷房の唸りだけが響く静寂の中。
誠は言葉の欠落が始まる瞬間。
指先の熱として感じていた。
受付に座る彼女の肩。
どこか見えない重圧に押し潰されたかのように丸まっている。
誠はあえて指摘しない。
問いかけるという行為そのものが、彼女の『深淵』へ加担することになるから。
仕事が終わった後。
夏の日差しが石造りの壁に遮られ、琥珀色の湿り気を帯びた廊下の踊り場。
そこで二人は向かい合った。
言葉にお話があると言われて誠は静かに応じる。
その瞳は、凪いだ水面のように静か。
しかし逃げ場のない決定を映し出していた。
「……私、転校することになりました」
「……いつ?」
誠の問いは、驚きも、同情も含まない。
ただ、プロトコルを確認するような乾いた響きだった。
「夏休みの終わりに」
言葉は、自身の指先を見つめながら続けた。
「お父さんとお母さんが……急に。私がこの学園で『適切な結果ではない』と。もっと規律の行き届いた、私にふさわしい環境で……国内の系列校に見つかったからと」
(……本当に、完璧な手際だな)
誠は内心、刹那の管制塔なる精度に戦慄した。
敵に回してはいけないと生存本能が告げている。
言葉の自律の試みという脆弱なプログラム。
それを親の上位権限で上書きをする。
言葉自身がどれほど抵抗しようとも、社会的な引力で強制的に引き剥がされてしまう。
「……そうか」
「伊藤くん。私は……私はまだ、ここで、伊藤く――」
「桂さん」
言葉が遮られた。
そこに現れた刹那によって。
すると彼女はその場で頭を下げる。
「ごめんなさい、話を聞いてしまって。転校、するの?」
「清浦さん……はい、夏休みの終わりには」
「そう。桂さん、ここでの思い出、転校先で活かして。それが私たちができる唯一のエールだから」
「え?」
「それとも、私たちの思い出、距離なんかで負けちゃうほど、安っぽいものなの?」
誠は身震いをした。
本当に恐ろしいと心底思った。
刹那が完全に相手を読み切っている。
1年の時はクラスは違えど、同じ学級委員だった。
2年もクラスは違えど、同じ図書委員。
その繋がりをあたかも友情のベールに包んで見送りとする。
「いいえ。そ、そうですよね。思い出をもって転校先で頑張ることが大切……ですよね?」
「そう。私も伊藤も、未来に向けて頑張る。だから桂さんも、転校先で自分の道を進んで頑張ってほしい。そうだよね、伊藤?」
「ああ、お互いに自分の進路に向かって頑張っていこう」
「……はい。そうですね。私も、頑張ります」
言葉の瞳に、わずかな光が灯る。
それは希望というより、刹那が提示した美しい思い出を額縁にしたもの。
自分自身の失敗を、無理やり押し込めた結果の安堵。
彼女の純粋さは、刹那が施した応援によって、一滴の疑いもなく飲み干してしまう。
(……友情に見立てた強制ログアウト。清浦は、桂が最も拒絶できない『善意』を選びやがった)
言葉にとっての最強の呪縛。
ここで誠に縋り付くことはできない。
それだと大切な思い出を汚すことになる。
刹那は、言葉の唯一の逃げ道を、彼女自身の誠実さを使って封鎖した。
「じゃあ、私たちはこれで。……桂さん、お元気で」
刹那は短く告げると、誠の腕に軽く触れた。
明らかな撤収の合図。
その空気を読めないほど誠も愚かではない。
「元気でな、桂」
誠は一度だけ言葉に視線を向け、すぐに踵を返す。
背後で、言葉が深く、深く頭を下げる気配がした。
踊り場を去り、静まり返った校舎の階段を降りていく。
蝉の声が、コンクリートの壁に反射して激しく鳴り響いていた。
「……刹那。本当にとんでもないことしやがるな」
一階の昇降口で、誠は隣を歩く刹那に小声で呟いた。
刹那は前を向いたまま、表情を一切変えずに答える。
「感謝と友情、最も摩擦係数が低いパージ手段。伊藤もエールを送った」
「これで終了か?」
「うん」
言葉への同情はある。
だが、これ以上はどうにもできない。
お互いにそれを実感している。
「伊藤。二学期からは、本当の『凪』が来る」
「同時に進路に向けて、生き残りサバイバルゲームの始まりだな」
校門を抜けると、眩しすぎる夏の光が二人を包み込む。
一人の少女の自律の夢を焼却。
灰にした後に残る真空の白さだった。
二学期の始業式。
二年一組の教室では、夏休みの余熱と、新しい季節への期待が混じり合った独特の喧騒に包まれていた。
だが、その中に、決定的決落がある。
それを、クラスの誰もが肌で感じていた。
誠は見つめる。
自分の席から少し離れた場所。
主を失った空席を。
そこだけが、まるで写真の一部を切り抜いたかのように白く、真空の静寂を保っていた。
「聞いたか誠、桂さんが転校したってよ」
泰介が、重い足取りで誠のデスクに歩み寄る。
その顔には、隠しきれない喪失感が浮かんでいた。
「ああ。そうらしいな」
誠は視線を動かさず、事務的なトーンで応じる。
その冷徹なまでの凪に気づく様子もない。
泰介は天を仰いで嘆いた。
「ちくしょぉー!! 俺の目の保養が――あたたたた!!」
「このバカ泰介!! 教室で騒ぐんじゃないわよ!!」
背後から現れた光が、泰介の耳を容赦なく引き絞る。
「痛い痛い! 離せよ光!」
「あんたね、転校した相手を『保養』扱いするなんて失礼でしょ!」
今日も相変わらずのノイズ光景。
誠はそれらを背景音として処理し、窓の外へ視線を逃がす。
そこに広がる、高すぎる秋の空へ。
あの日、刹那がエンターキーを叩いた瞬間。
そこから確定した未来。
石畳の下を流れる暗渠が、ついにその不純物を完全に濾過し終えた。