Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
「……入ってきなさい」
教諭の促しに応じ、静寂を裂いて彼女は現れた。
一歩。
その足運びに、無駄な揺らぎはない。
背筋は天から一本の糸で吊るされたように垂直を保つ。
長い黒髪が、新しい制服の背の上で静かに整列している。
「桂言葉です。よろしくお願いいたします」
凛とした声が教室の隅々まで染み渡る。
それは、かつて榊野学園の図書室で、誰にも届かぬように紡がれていた独白とは異なる。
明確な他者への接続を意図した響きを持っていた。
休み時間。
彼女を待っていたのは、かつてのような疎外感という名の結界ではない。
洗練された知的好奇心の群れだった。
嫉妬による毒も、無作法な侵入もない。
そこにあるのは、同じ高度の教育を受けた者たちが持つ、節度ある善意である。
「前の学校は、どちらだったの?」
「榊野学園です」
その答えに、周囲の空気がわずかにさざめいた。
「……あそこは、確か普通の進学校よね。あまり良い噂は聞かないけれど」
「学園祭の運営で、生徒が酷使されていたとか……レベルの低い混乱があった場所でしょう?」
上位学園の矜持が、榊野を過去の遺物として切り捨てる。
言葉は否定しなかった。
一年生の頃の、泥を啜るような孤立。
クラス委員という名の搾取。
それは紛れもない事実だったから。
けれど、彼女の脳裏には、あの静謐な図書室の光景が鮮やかに蘇る。
端末を叩く指先の冷徹な論理性。
偽造パスポートを検印するかのような乾いたやり取り。
「いいえ、そこには……畏怖すべき知性が二人、いました」
言葉は、居合の太刀筋をなぞるように、誇り高く語り始める。
伊藤誠と清浦刹那。
あの二人の会話。
言葉ですら立ち入る隙のないほど高度な対話。
まるで生存を賭けた真剣勝負のような美しさがあった。
「あの場所で私は、本物の『知的戦闘』を、この目に焼き付けました」
居合を嗜む彼女だからこそ感応できた。
その精神性の極北を。
対等な友とも呼ぶべき二人の名。
その言葉の表情には、かつての弱々しさは微塵もなかった。
やがて、新しい日常が彼女を包み込む。
もはや、自分を殺して低スペックな環境に擬態する必要はない。
(伊藤くん。清浦さん)
窓の外、遠く離れた榊野学園の方向を見つめ、彼女は心の中で深く一礼する。
(私、この聖域で、私自身を磨いていきます。ですから……お二人も、あの過酷な学園で、どうかご自身を貫いてください)
それは、最も誠実な決別の祈り。
別の高度へと移送された言葉は輝き、窓に映る空はどこまでも青く澄み渡っていた。
一方、その頃の榊野学園。
2年1組の図書室で放課後を迎えていた。
「あーあ、カワイイ女の子が隣にいたらな」
「泰介、そんなこと言ってると、また黒田に怒られるぞ」
お調子者の澤永泰介。
言葉が転校したことで図書委員が一人いなくなった。
その補充の埋め合わせで泰介が抜擢されたのである。
しばらくするとドアが開く。
その相手は――
「なんだ委員長か」
「泰介、今の清浦は図書委員だって」
「似たようなものだろ」
誠と泰介のやり取り。
刹那は特に反応しない。
ただ用件を伝える。
「澤永、光から伝言。店の手伝い要請」
「げえ、マジかよ」
誠と刹那が視線を交える。
まるで意思疎通をしたかのように。
そして誠が切り出していく。
「泰介、どうせほとんど誰も来ない。ここはいいから、黒田の店に行ってやれ」
「いいのか誠?」
「見ての通り、ボーとしてるだけだしな」
「それもそっか。じゃあ悪いけど、あとは頼んだぜ」
「ああ」
光の店の手伝いのため、泰介は図書室を去っていく。
残されたのは誠と刹那の二人だけ。
周囲はシーンと静まり返り、閑古鳥が鳴いている。
「……」
刹那は何も言わず、誠のすぐ隣へ詰めた。
かつて、言葉が座っていたカウンター席。
まるで境界線を上書きするかのようにいる。
(泰介を追い出して、隣に座るか。まあ、それなら俺も遠慮なく話せる)
桂言葉のことはもう終わったことである。
未練だと思われてしまうのも誠にとっては癪だ。
これからの事で、刹那の方向性を問う。
「清浦の資格という偽造パスポート、それはずばり簿記とITの高度資格か?」
「秘書検定も受ける」
「んっ? それって搾取のターゲットにならないか?」
「伊藤、勘違いしないで。……私の前で無礼なパケットを飛ばす人間を、一秒で黙らせるための『仕様書』が必要なだけ」
応用情報やセキュリティで自らの領域を暗号化する。
刹那の段取りは徹底していて、誠からすれば頷くだけ。
「伊藤は、生涯スキルの知的探索術を磨くの?」
「ああ。卒業したら調理補助で働くけど、大学図書館の一般利用者として登録する。先日、見学してみたけど、公共図書館とは明らかに質が違ってたな。地下書庫が凄かった。全く歯が立たないレベルでな」
誠の視線は、遠くの知の深淵を見据えていた。
大学図書館の地下書庫。
それは彼にとって、攻略すべき巨大なデータベース。
同時に自分というシステムの未熟さを突きつける鏡でもあった。
「……背伸びは、成長のプロセス」
刹那が、机の上に一冊の薄い冊子を置いた。
それは、彼女が独自に編纂した秋季・学習マトリックス。
文字の羅列ではない。
各資格試験の難易度、相関関係、そして取得による対人防御力の推移がグラフ化された。
まぎれもなく人生の戦闘計画書だ。
「伊藤、大学図書館の深層へ潜るなら、検索能力(リサーチ)だけでは足りない」
「他に何がいるんだ?」
「情報を『構造化』する論理の強度が必要」
刹那が提示したマトリックスを指でなぞる。
それを静かに見つめる誠の思考も同じ。
「清浦、参考までに聞いてもいい?」
「どうぞ」
「清浦はいつまで親と同居するんだ? 介護まで一生見るのか?」
「……同居は、コストパフォーマンスが逆転するまで。……親の恩義は返済済み。生活基盤が整い、外乱を遮断できるシェルターを確保したら、即座に一人暮らしを実行する」
「やはりそうか」
「伊藤はどうなの?」
誠もまた刹那と同じ。
幼い妹の止は画家という夢を抱く。
それを微笑ましく思いながら、自らの限界を見据えていた。
「母さんには言ってあるよ。卒業したら今まで通りにいかなくなるって」
「……それは正しい同期。境界線を引き、お互いを尊重する」
「まったく、ままならないよな。止のことも、桂のことも。都合のいいハッピーエンドなんてない」
「伊藤、事実は小説より奇なり」
「へえへえ、わかってますよ」
ここから話題は具体的な一人暮らしの拠点へと移る。
誠は通勤コストを重視。
自立のために今いる区外への脱出を視野に入れていた。
「いいと思う。座標を破棄して、新しいルートを構築するのは生存戦略の基本」
「車はコスト高いから除外。電車通勤になるだろうな。バスは遅延リスクが高いし」
「……伊藤、もし物件を調べるとき、『セキュリティの堅牢な物件』があれば、私に教えて」
「それってオートロック?」
刹那はわずかに首を横に振る。
それなら他にどんな条件があるのか?
誠が視線だけで先を促す。
「それは物理レイヤーの最低条件。……外部ネットワークからの遮断、光ファイバーの直結。そして住民同士の『無作法な干渉』が発生しない、匿名性の高い設計」
小難しい言葉を並べる。
要するに、静寂で安全なシェルターが欲しいということ。
「清浦なら自分で調べられそうだけどな。まあ情報提供くらいならいいよ。判断はそっちでやってくれ」
「充分」
お互いに、学生の準備期間を徹底して使い倒す。
自分たちが無理なく生き残り、誰にも搾取されないために。
学園という戦場を、二人は透明な足取りで駆け抜けていく。