Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
隣のクラスからの干渉が消失している。
二学期に発生するはずの致命的なバグ。
加藤乙女の急襲を計算に入れていた。
しかし、現実はその予測を裏切っている。
ふと隣の教室を覗く。
そこから映る異様な光景に、誠は思わず自分の目を疑った。
(ありえない。あの加藤が受験勉強だと?)
何かに取り憑かれたように。
分厚い参考書と格闘する乙女の姿があった。
これは夢でも見ているのだろうか。
天変地異の前触れだろうか。
ほっぺをつねると痛みを感じる。
(……実行犯の目星はついている)
放課後の図書室。
野暮用で逃げてしまった泰介。
静寂な作業は誠一人に委ねられてしまう。
だが、その空白を埋めるかのように、清浦刹那が音もなく滑り込んだ。
「忍者か?」
「違う」
さも当然のように、カウンター席に並んで座る。
刹那の視線は手元の資料に固定されて、微動だにしない。
それならばと周りに誰もいないことを確認。
誠は本題へと切り込んでいった。
「加藤の変貌。主犯は清浦だ」
「人聞きが悪い」
「違うと言うのか?」
「その推論に、客観的なエビデンスはある?」
誠はプロファイリングを口にする。
加藤乙女と甘露寺七海は、同じ女子バスケ部の部員だ。
七海と刹那は同じクラスである。
一年生の頃からの知己。
刹那は七海を経由して乙女に接触。
進路への危機感というマルウェアを流し込んだ。
「……という筋書きだ。さあ清浦、あの加藤に何を吹き込んだ?」
刹那はわずかに筆を止める。
そして情報を濾過した声で応じた。
乙女に説いたのは、単なる安っぽい同情ではない。
生活保護申請における手続きの屈辱的な煩雑さ。
ケースワーカーから受ける強烈な就労圧力。
親類縁者への扶養照会による、社会的な尊厳殺し。
それらは、乙女にとって、死よりも耐え難い没落のシナリオであった。
「おいおい、えぐいな」
「あと妹さんも追加」
「あいつの妹といえば、可憐か?」
「正解」
決定的な失敗サンプルを提示。
乙女の妹・可憐は、第一志望の榊野に落ちてしまった。
併願校へと流れた妹の姿を準備を怠った者の末路として再定義。
乙女の内部で妹のようになりたくない、という『焦燥』をたきつけたのである。
「加藤さんはもう、伊藤を観測している余裕がない」
それは優先順位というプライオリティを刹那が書き換えたからだ。
もはや乙女にとっての最優先事項は恋愛ではない。
進路という避けて通れない『生存』である。
「恐怖をトリガーに、加藤を受験勉強の檻へと閉じこめたのか」
「……恐怖ではない。正しいコスト計算。……今学期も静かに過ごせるための必要経費」
刹那が施す精神の土木工事。
それは誠の内面を越え、彼を取り巻く人間関係を整理している。
恐ろしいのは、相手に悟らせず、構造そのものを作り変えていることだ。
窓の外、暮れなずむ校庭。
二人の座るカウンターだけが、世界から切り離された平穏を保っていた。
別の日。
図書委員の定例会議。
退屈な報告を聞き流し、最小限のタスクだけを処理してリソースを節約する。
会議が終わると、泰介が溜息をつきながら歩み寄ってきた。
「やっと終わったな誠、ほんとだるいぜ」
「ああ、お疲れ。この後は黒田の店か?」
「そうなんだよ。光のやつ、待たせると怖いからな」
「ま、頑張れ」
泰介がトホホな足取りで去っていく。
それを横目に、廊下を歩いていると、聞き覚えのある声が角の向こうから響いた。
「山県さん、図書館サポーターの活動、順調?」
「あ、うん。清浦さんが紹介してくれた公共図書館、すごく落ち着ける場所だね」
「絵本の読み聞かせ、本棚の整理。図書委員での経験、役に立つ」
刹那と山県愛の対話だった。
ある日に刹那が山県へ「ボランティア」を推奨。
これにより、誠の領域から切り離され、自分を必要としてくれる子供たちに繋ぎ変えられた。
彼女の歪んだ献身は、安定したリソースへと変換されている。
(あれは、やり甲斐という隔離だな)
子供が相手ならば、高度な論理体系もいらない。
難しいことで思考をフリーズさせられることもない。
誠の変化に絶望することもないため、自分を疑わずに済む安全圏だ。
(清浦、マジでとんでもないな)
誠は背筋に冷たいものを感じてしまった。
桂言葉には『聖域への移送』を。
加藤乙女には『生存の恐怖』を。
山県愛には『承認の安住』を。
誠を蝕む可能性のあったノイズ。
それらは、刹那の手により、最適な器へと注ぎ込まれて固定された。
こうして伊藤誠の『凪』が完成していく。
外界の干渉が沈黙した空白地帯。
その琥珀色の静寂こそ、誠が切望した生存の形でもあった。