Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
シミュラークルという概念がある。
実体なき写し。
あるいは、真実と区別がつかないほど精緻な偽造のことだ。
誠が読書感想文や道徳的課題を忌み嫌うのは、単なる怠惰ではない。
自身の内面や思想。
つまり知の『尊厳』を学園というシステムにさらけ出してしまう。
無遠慮なスコアリングを、精神的な搾取だと感じているからだ。
本物の知をシステムに切り売りしたくない。
だからこそ彼は、偽物の芸術としての知を供出。
知の亡命者として生き延びる道を選んだ。
刹那があの日。
誠の案をあえて否定したのは決して意地悪からではない。
真面目な宿題の完遂を望んだからでもない。
彼女が課した条件の真意は別にあった。
(伊藤の本物を知るのは私だけでいい。学園のシステムには、偽物の幻影を出せばいい)
真の自己をシステムに明け渡さないための、高度な防御芸術。
誠がわざと数問を間違え、絶妙に惜しいミスを設計する行為。
それは、道化師のパフォーマンスに似ていた。
「伊藤ならこの程度だろう」という教師たちの先入観。
それを、役者として完璧に演じきってみせたのだ。
誠は自らの真の知性を、安全な暗闇、すなわち知の神殿の深奥に秘匿。
表層ではシステムの要求に合わせた偽物の知性を踊らせた。
それは自分という存在の核を安売りしないための、プライドを懸けた偽装であった。
(嘘をつくなら、美しく。……瞬さんのような、中途半端な嘘で落ちぶれてほしくない)
刹那の脳裏には、母・舞を裏切り続け、安直な情動に流されて人生を濁らせた父・間瞬の姿がある。
誠には、あのような綻びのある嘘に甘んじる男になってほしくない。
自分を汚さずにシステムを欺ききること。
その手際は、一流のイリュージョニストの如きエレガンスを湛えているべきだ。
彼女にとって、単なる手抜きはシステム上のバグ。
完璧な偽造は知的な美学となる。
学園という檻の中で飼い慣らされるのではない。
檻の外から内側へ。
システムを支配する側であれと、彼女は誠に期待したのだ。
誠は学園という檻の中にいる。
だが、その精神の核は、完全にシステムの外へと亡命していた。
「賭けは俺の勝ちだ、清浦」
三学期、最初の放課後。
誠は図書室の片隅で、勝利のパケットを刹那へ飛ばした。
冬休みの宿題という負債清算。
誠が展開した偽装と攪乱の複合戦法。
それは、学園の教師の網を通り抜けたのだ。
これは誠にとって、最初から勝率の決まったゲームであった。
彼は刹那の解答を無機質にコピーしていない。
記述式において、刹那のアルゴリズムだけを抽出。
肉付けするインターフェースは完全に自前で構築した。
客観的な正解に関しても、自身の過去のログに基づき、人間味のあるミス。
これをランダムに配置。
正答率のゆらぎは、一寸の疑いも差し挟ませないほどに精緻であった。
「丸写しを証明する手段は、今の学園制度にはない。むしろ、この情報化社会で外部サーバーを遮断してから課題をこなせなんて、そんな命令をする方が無理がある。俺はただ、能動的に戦略を立て、知的ゲームとしての解を提供したに過ぎない」
誠の不敵な笑み。
それはルールの内側にいながら、その脆弱性を嘲笑うハッカーのそれであった。
「……」
刹那は、開いたままの参考書から視線を上げず、静かな沈黙を維持していた。
その無表情は、敗北の拒絶ではない。
彼女もまた、この結果を予測していた。
それでもあえて冬の夜に高いハードルを課した。
彼に手品師のような芸術的センスを求めたから。
誠がその期待に応え、学園という観客を完璧に欺いてみせた。
これは彼女なりの静かな賛辞である。
「……伊藤……上質なペンを、受理する」
刹那は短く、そう告げた。
賭けの代償を要求するその声は、どこか満足げに響く。
「ああ、期待しているよ清浦」
二人は再び、無言でそれぞれの知の探求へと戻っていく。
窓の外、冬の陽光が琥珀色の静寂を照らしていた。
学園というシステムを欺き、自らの『凪』を守り抜いた。
その勝利の余韻が、二人の間に流れる空気を、より強固なものへと変えていく。