Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
誠には、片想いの時期があった。
正確にいえば、それを恋と呼ぶべきかさえ。
今の彼には判然としない。
同じ電車に乗る1年4組の少女、桂言葉。
淡い想いを寄せ、異性として強く意識した。
今となっては、完全に葬り去られた過去形である。
かつての自分を振り返れば、あまりに未熟な若気の至り。
まだ学生だろうと言われればそれまで。
だが、それ以上に適切な表現がない。
誠は乾いた苦笑と共に、喉を鳴らす。
あの頃、誠の中で、天使と悪魔で絶え間ない葛藤があった。
かつての泰介から聞いた、稚拙なおまじない。
『携帯の待ち受け画面に好きな人の写真を設定し、三週間誰にも見られずに隠し通せば想いが叶う』。
誠はその誘惑を退けた。
理由は至って単純。
それは盗撮という卑劣な行為に他ならないから。
だからといって、撮影の許可を求めるなど論外。
おまじないの本質は秘匿。
許可を求めた時点でその神秘性は瓦解する。
倫理を守れば恋が始まらず、恋を始めれば罪を犯す。
結局、彼は何もしなかった。
ただ遠くから彼女を眺めるだけ。
そんな安全な傍観者の座を選び続けたのだ。
しかし――
(なんだろう。これは……虚しい?)
不意に湧き上がった言い知れぬ感情。
誠自身が驚きを隠せずにいた。
通学中、彼女は常に本を読んでいる。
ホームで電車を待つ時。
車内で座席に腰を掛けている時。
一人という時間を、これ以上なく有意義に、そして美しく使いこなしていた。
(ごめん……今まで、邪魔だったよな)
ふいに、申し訳なさが胸を突く。
たまに目が合いそうになり、慌ててそっぽを向いたあの日々。
その瞬間の彼女が、見知らぬ視線にどれほど不快な予感を感じていたか。
当時は胸のときめきで、目を曇らされ、そこまで考えが至らなかった。
――視線による不可視の侵害。
彼女の聖域を、自分の勝手な情熱で汚した罪悪感。
その痛みを恥じ入ることで、誠は自分の感情がまだ死んでいないことを自覚した。
同時に、その情動こそが彼女の静寂を乱すノイズであったことも。
その日を境に、誠は同じ時刻の電車に乗るのをやめた。
彼女を避けるためではない。
自分が抱いていた、形にならない何か。
それを無意味に確認し続ける自分に、耐えられなくなったのだ。
誰の領域も侵さない。
誰からの搾取も許さない。
だからこそ、桂言葉に向けていた『視線の返却』を選択した。
1年3組の教室。
いつも通りのざわめきに満ちている。
しかし、その喧騒の中心にある温度だけ、妙に軽かった。
澤永泰介がやって来る。
どこか勝ち誇って、それでいて気恥ずかしそうな面持ちで。
誠が座っている席へ歩み寄った。
「なんだ泰介? 課題プリントなら自分でやれよ」
「違うって、聞いてくれよ誠」
「聞くからドアップで迫るな、暑苦しい」
聞いてくれと言っておきながら、やけにもったいぶる。
だが、今の誠に焦燥は通用しない。
ただ、凪いだ瞳で相手を待つだけ。
「実はさ、俺……付き合うことになったんだよ」
それは、少年らしい自尊心の誇示だ。
同時に親友への無邪気な報告のつもりだろう。
空気は一瞬、浮ついた色を帯びる。
誠はわずかな一拍を置き、淀みなく頷いた。
「そうか。おめでとう泰介、幸せになれよ」
あまりにも自然な、不純物のない祝福。
皮肉も、羨望も、
自分と比較するような醜い引っかかりも、
そこには一切存在しない。
ただ提示された事実に対し、最低限の礼儀を放つ。
泰介は一瞬、拍子抜けしたように目を丸くし、それから力強く笑った。
「おうっ! 思い切り幸せになるぜ!」
「将来、もし結婚式を挙げるなら出席して祝ってやるからな」
「おいおい気が早いって。……けどまあ、いずれはそういうことも、な」
笑い声が周囲に伝播。
教室の空気は緩やかに解ける。
だが、誠の表情は再び波立つこともない。
以前の彼なら、他者の充実に当てられ、どこかで揺れ動いていたはずの感情。
それが今となっては、深い底へと沈殿している。
――他人の恋愛。他人の幸福。他人の選択。
それらはすべて、誠にとっては他人事に過ぎない。
誠はもう、そういう領域に立っていない。
関与しないことを選んだのでさえない。
ただ、彼を繋ぎ止めていた情動の糸は、音もなく断ち切れていた。
(相変わらずうるさいヤツだ)
精神のコストを無意識に避けてしまう。
それは、学園祭でのバーンアウトな影響だろうか。
泰介の声は、まだ続く。
未来への期待、冗談の延長、幸福の予兆。
それらをノイズとして聞き流しながら、誠は静かに思考する。
(面倒くさいな)
無視をすれば追及を招き、さらなる干渉を呼ぶ。
だからといって話を合わせるのは、枯渇した精神を雑巾のように絞る作業だ。
どちらに転んでも発生する対応の要求。
それが人間関係という逃れられない現実。
肉体が教室に在る以上、他者との関わりは避けられない。
(さて、どうする?)
後手に回る危うさを感じた。
一方的に聞くだけでは苦痛極まりない。
主導権を握らせているから、予測がつかないのだ。
それなら檻を用意してやればいい。
「泰介、聞いてもいい?」
「おう、なんだ突然?」
「泰介は彼女のどこに惚れたのか教えてくれ。参考にしたいんだ」
「はっはー! なんだ誠、お前もようやく男として興味が出てきたか!」
泰介は待ってましたと、誠の机に両手を突き、身を乗り出す。
その顔には、隠しきれない優越感と、全人類の勝者という輝しい笑みがあった。
「そんなの決まってんだろ! 全部だよ、全・部!」
「ぜんぶ?」
「あのな、彼女の笑った時の口元とか、ちょっと呆れたようにしょうがないわねと溜息つく感じとか」
「ほうほう」
「……あー、思い出すだけでニヤけちまうぜ」
「へえー、そうなんだ」
「俺がちょっとした冗談言った時、ナイスなツッコミで背中を叩いたりしてさ!」
「ツッコミ漫才か」
「あれはもう、一緒にいて楽しいテンションMAXになるってものだぜ」
「そうか。テンション上がるのか」
誠が今やっていることは『オウム返し』だ。
まさに壁となって、泰介というボールを跳ね返している。
相槌のバリエーションは豊富だ。
(事前に泰介対策の質問集を、頭の中で用意しておこう)
惚れた理由、デートの感想、相手の好きなところ。
相手の話しやすい内容をリストして選べばいい。
泰介だって人間だ。
ずっと永遠に喋れるわけがない。
何よりチャイムという終了合図がある。
休み時間、ずっと付き合うわけでもない。
トイレに逃げ込むことができる。
昼休みならば、食堂や校庭などで距離をとることも可能。
精々、数回関わればいい程度。
ずっとべったりではない。
(こちらから仕掛けるのも一つの手だ)
一方的に搾取されないよう、ストレスの発散は必要だ。
泰介の出方次第で、誠が攻勢に出る。
ただし深追いをしなくて済む範囲でだ。
「おーい泰介」
「なんだ誠?」
「今度のテスト、どの辺りが出ると思う?」
「うわー、面倒なこと聞くなよ」
「そう言うなよ。泰介の彼女にカッコいい所を見せるチャンスだと思わないか?」
「そ、それもそうか?」
「そうだよ。で、どの辺りが出ると思う?」
「よし、俺が見るテストが出る所はずばりここだ!!」
「ほうほう、確かに出そうだよなここ」
「そうだろそうだろ!!」
泰介が関わった分、誠はこうして話をふっかける。
やられたらやり返す。
こうして自分の中でルールを敷く。
それにより、心の余裕を保てる。
空洞化した精神を守るために。
誠はただ、静かな傍観者でありたいのだ。