Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
誠たちは榊野学園を卒業した。
しかし、彼らにとってそれは感傷に浸る儀式ではない。
単なる『通過儀礼』に過ぎなかった。
物語にありがちな卒業イベントにリソースを消費するつもりはない。
これから始まるのは、生存を賭けた長きにわたる人生の戦いなのだ。
学生という有限のモラトリアムは終わる。
あとは定年という果てしないゴールを目指す社会人のロードへ。
いつ途絶えるかわからない命の火を絶やさぬよう。
労働と私生活の最適化を行なう。
どこまで無駄を削ぎ落とし、自らの手で安寧を築けるか。
それが新たな問いとなっていった。
季節が巡り、数年の月日が流れる。
同窓会という不毛な行事に縛られることもない。
思い出話で盛り上がるエネルギーがあるなら、別の目的に投資すべきだ。
誘いは多忙という定型文で断る。
それが現実的であり、角の立たない解だった。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
仕入れ工場の厨房。
タイムカードを切る誠の動作は無駄がない。
誠が選んだのは、ラディッシュの物流センターにある食堂での調理補助だ。
かつて内定していた児童施設が不祥事で損切された。
その際、刹那が母・舞のコネクションを使って即座に代替ルートを提示した結果である。
低コストな生活設計。
時給以上の価値を、誠は『思考の自由』に見出していた。
ルーチンワーク化された労働の裏で、彼は常に別の思索を走らせている。
退勤後、彼は駅前の図書館を素通り。
さらに足を延ばして専門書が並ぶ大学図書館へと向かう。
そこでかつて磨き上げた『知的探索術』を実践。
最新の知見を携えて、彼は自らのシェルターへと帰還する。
かつて暮らしていた場所から遠く離れた市外。
特急の止まらない駅。
無機質なRC構造の集合住宅。
生活感の薄い新興住宅地に響く特急の風切り音。
それは、外部世界との接続を示す微かなパルスに過ぎなかった。
オートロックを抜け、内廊下の静寂を渡る。
隣人の気配はない。
誰もが無作法な干渉を拒むアノニマスな住人たち。
誠にとって、これこそが真の安寧だった。
電子錠を解除して、玄関に足を踏み入れる。
最小限の照明で余計なものはない。
その整理された空間を浮かび上がらせる。
「……おかえり、誠。遅かったね」
リビングのワークスペース。
そこから、冷徹だが柔らかな声が響く。
清浦刹那。
彼女は宣言通り、誠の座標と並走するように生きている。
「……ただいま、刹那」
「んっ、まだ慣れない?」
「理屈はわかる」
家賃や住民税の折半、長期投資による複利。
一人暮らしのコストを抑え、将来の労働搾取から解放されるための『共同戦線』。
それは誠もわかっているので合意している。
「何が問題?」
「なぜ、下の名前で呼び合う仕様になった?」
「苗字は一族の属性。下の名前は個人の識別子(ID)。……より純粋な個として向き合うための措置」
「なるほど。……まあ、変なあだ名でないだけマシか」
「あだ名。……『まこちゃん』って呼ぶ?」
「却下だ」
「……私は『せっちゃん』」
「それも却下。いい大人がちゃん付けは恥ずかしいだろ」
「恥ずかしくない」
「……その議論は『保留』だ。次回へ持ち越す」
誠は借りてきた専門書をデスクへ置く。
二人の生活に同棲という言葉が持つ湿り気はない。
自由のリソースを確保するための最も強力な防衛生活。
誠は食の知識を還元。
刹那は情報技術で経済とセキュリティを担保する。
互いの領域を侵さず、時間を搾取しない。
不条理な海を渡るため、二つの『カルネアデスの板』を連結した強固な浮き島だ。
「……晩餐の『仕様書』は?」
刹那が画面から目を離さず、指先だけで問いかける。
「母さんから止が描いた絵のデータが届いたんだ。そのお礼に、あいつが好きだったポタージュを再現しようと思ってな。材料は仕入れてある」
「……止ちゃんの絵。以前より、色彩のレイヤーが複雑になってる。……彼女は彼女の戦場で、正しく進化してるみたい」
誠はエプロンを締め、厨房という聖域に立つ。
かつて榊野の図書室で交わされた会話。
今は日常のパケットとしてこの空間を流れている。
ままならない現実を、論理という名のフィルターで濾過。
より純度の高い『凪』を抽出する日々だ。
「誠」
「なんだ?」
「世界から連絡があった」
「ほう」
「弁護士目指してる。法で自分も相手も守るって」
世界はパリで散々な思いをした。
体が弱いのに無理やり母に連れて行かれて。
それで体調を崩し、大使館で帰国となって母とは絶縁。
刹那の母からの支援もあって独立するだけの力をつけた。
もうあの頃の世界ではない。
「市外へ出て正解。昨日、同窓会の案内メールが来た」
「即座にスパムとして処理か?」
「うん」
「俺のところにも来た。即デリート。あそこには、もう俺たちの探すログは何一つ残っていないから」
包丁がまな板を叩く、一定のリズム。
永遠に続くかのような社会人のロード。
それを、一歩ずつ踏みしめる足音に似ていた。
桂言葉は、遠い聖域で自らを研ぎ澄ませているだろう。
伊藤止は、夢という名の光をキャンバスに定着させているだろう。
西園寺世界もまた、自らの法学という盾を磨き、独立を果たそうとしている。
そして誠と刹那は、この無機質な箱の中で、誰にも発見されないまま。
静かに、確実に。
自律という名の自由を呼吸し続ける。
「いただきます」
「……いただきます」
二人の声が重なる。
そこにはハッピーエンドという既成のラベルはない。
ただ、自分たちの手で築き上げた。
誰にも侵されない『真実』がそこにあった。