Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
「なあ、刹那」
誠は、借りてきた専門書から視線を上げた。
ワークスペースで端末に向かう彼女の背中に問いかける。
「なに、誠?」
刹那の手は止まらない。
雑談や冗談なら、彼女は打鍵を止めないだろう。
しかし、誠の声に含まれた解像度を感じ取り、彼女は椅子を回転させた。
その瞳には、冷徹な論理と、どこか悦びに似た微かな光が湛えられている。
「同棲という現状は、俺たちにとって最適。だけど、行政上の扱いは今後どうするかだ」
国が提供する既製パッケージ(婚姻届)を導入すべきか。
それとも独自のプロトコルである事実婚を貫くべきか。
「……誠、その問い。情念の契約としてのプロポーズではなく、『法的OSのアップデート』としての婚姻。そういう意味で受け取っていい?」
「ああ。結婚は情緒的な綺麗事で成立しない。俺たちの『凪』を恒久的なものにするための、利害関係を知りたい」
「……いい視点」
刹那は端末を操作し、壁面のモニターに整然とした比較表を投影した。
(いつになく早い。……もしかして、テンションが上がっているのか?)
表情は相変わらず鉄面皮。
だが、付き合いの長い誠は何となくわかる。
彼女の論理的な詰め将棋。
その対話を、心底楽しんでいるのだと。
「誠の言う通り、税制優遇や法定相続権といった特権は強力。一方で、氏の変更に伴うリソース消費や、契約解消時の高い計算コストが共存する」
「そりゃあ、何事もメリットとデメリットはあるだろう」
「……誠の判断の分岐点は、『名前』へのこだわりに集約される」
「そういう刹那はどうなんだ? 自分の名前へのこだわりは?」
「私は『清浦』のままを希望」
「オーケー。それなら俺が『清浦誠』になればいい」
数日後。
二人は役所のカウンターに立っていた。
完璧にデバッグされた婚姻届。
不備などあるはずがなかった。
だが、担当職員から返ってきたのは「不受理」という、論理の外側にある拒絶だった。
「……不備、ですか?」
誠の声が乾いた空間に響く。
職員が差し出したのは、一本の巨大な樹木が異形に枝分かれし、再び収束する不気味な家系図の写しだった。
「お二人の父親は別の方ですが……さらに上位階層、祖父の代でデータが単一の起点に収束しています。日本の民法第734条、直系血族および三親等内の傍系血族間での婚姻は、システム上受理できません」
誠の思考が凍りつく。
投影された系譜には『沢越止』。
システムを汚染するバックドアのような名が刻まれていた。
誠の系統:沢越止(父) ➔ 伊藤誠
刹那の系統:沢越止(祖父) ➔ 清浦舞(母) ➔ 清浦刹那
「……つまり、俺の父親は、刹那の母親の父親でもある。……俺と舞さんは異母姉弟。俺から見た刹那は……『姪』なのか」
誠は戦慄した。
血の濃縮。
近親交配。
生物学的なエラーが、奇形のリスクという具体的な恐怖として脳裏を掠める。
「普通、役所がこれで通しているのはおかしいだろ? こんな異常な血の混濁、システムが検知しないはずがない」
「……正解」
刹那は即座に端末を展開し、役所のロビーで非公開データベースへとダイブした。
指先が火花を散らす速度で、汚染されたログをトレースしていく。
「……判明。これは役所の仕様ではなく、上位権限者による『パッチ』」
誠の父、沢越止。
彼はこの国の戸籍管理システムに、意図的な複数の偽装IDを生成。
血縁の衝突を検知させないよう整合性を書き換え続けてきた。
誠は家系図を凝視する。
そこには数え切れない女性と、その先に連なる『止』の刻印。
暗渠の底で蠢く触手のように、この国の系譜を蝕んでいた。
「父さんは、国家システムすらハックして、偽装し続けてきたのか。……なんて不純なアルゴリズムだ」
「……お母さんが誠を『資産価値の毀損がない』と判断した理由も、今、完全に理解した」
「どう理解した?」
「彼女にとって、この血の濃縮はエラーではない」
「……」
「清浦というサーバーを強化するための『オーバークロック』。外部のノイズを完全に遮断するためのカプセル」
刹那は画面を閉じ、役所を背にした。
その足取りには感傷も絶望もない。
ただ、予測不能なイレギュラーを処理し終えた後の、深い納得があった。
「……誠、これからは法的な承認を捨て、完全なアノニマス(無名)として並走する」
「望むところ。子を望まない俺たちの前提は変わらない」
役所を出ると、アスファルトを焼く夏の陽光が、二人の視界を白く塗り潰す。
婚姻届という紙切れは、もはや意味をなさない。
しかし、それによって二人のシンクロが損なわれることもない。
(そうか。それでせっちゃんは低身長なのか。完全な遺伝子バグだな)
成長不全により骨格の未発達。
刹那の小柄な体躯は、遺伝子の過密がもたらした。
その可能性を否定できない。
隣を歩く刹那。
その無機質で、しかし確かな温もりを持つ手を取る。
沢越止が撒き散らした不純なパケット。
知性というフィルターで濾過し続ける。
その決意だけが、真昼の静寂の中に響いていた。