Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
第1話:触れたあの日
事の発端は、誠が清浦刹那へ送った一通のメール。
用件は手相に関する問い合わせ。
同性の澤永泰介の手相はすでに検証済みだった。
それならば、女性の手相は男性のそれと構造的にどう違うのか。
記号的な知識ではなく、実証データとしてそれを知りたい。
そんな誠の純粋な知的好奇心。
誠が知る中で、検証に耐え得る相手は二人。
桂言葉と清浦刹那だ。
メールで刹那に対し、誰を見ようとしているかなどという前提は伏せていた。
それなのに、返ってきたのはこんな短い文面だった。
『桂さんに聞く方が早い』
まるで誠の意図も、頭の中の候補も見透かしたかのような返信。
誠はそれもそうかと、感情を交えずに素直に受け止めた。
本人がノーと言えば、ただ引き下がればいい。
別に言葉がダメでも刹那がいる。
リスクヘッジは構築されているのだから、何の問題もない。
だから――。
「伊藤くん」
「あ、今日は当番だったな?」
「はい」
「じゃあ行こうか。いつも通りにやっていこう」
「はい。よろしくお願いします」
放課後の図書室。
図書委員としての業務が静かに始まった。
受付という接客業は言葉の担当。
返却された本の運搬や、書架の整理といった肉体労働は誠が引き受けている。
腕に抱えた本を元の棚へ戻し終え、受付へ戻る。
隣に座る言葉は、背筋を伸ばし、まっすぐに書架の全体を見渡していた。
(誰もいないな)
空間の静寂を確認。
伝えるタイミングはここしかない。
ゆっくりと言葉に向けて声をかける。
「桂」
「あ、はい?」
「当番が終わった後で、少し時間もらえるかな?」
「? わかりました」
「大丈夫。五分もかからないことだから」
人の時間は有限である。
それを重々承知している誠。
あらかじめコストの上限を提示した。
やがて当番の作業が完了し、戸締まりをして鍵を職員室へ返却する。
それから二人が向かったのは、屋上扉に通じる薄暗い階段の踊り場。
そこなら、他者の視線というノイズが入り込まない。
「伊藤くん、それで……どんなご用件でしょうか?」
「これ」
誠が差し出したのは、一冊の本である。
「手相の本……ですか?」
「男の泰介で一度検証したんだけど、女の手相はまだ実験してないんだ。男とどう違うのかを比較したくて。本に書いてある理屈が、本当なのかを確かめたい」
「手……を見せてほしい、ということでしょうか?」
「ああ。でも、もし無理なら断っていいよ。他にもアテはあるから」
純粋な効率化と、相手への配慮。
誠にとってはそれだけのことだった。
だが、その音を鼓膜に受けた言葉にとって、それはあまりにも残酷。
同時に抗いがたい誘惑として響いたのだ。
(……他にも、アテが……)
図書室の琥珀色の静寂。
それが言葉の脳裏に蘇っていく。
「あ、あの、伊藤くん。参考までにお聞きしたいのですが」
「どうぞ」
「他に……誰がいるんでしょうか?」
「清浦だ。隣のクラスの図書委員だから、桂も知ってるはずだよ。委員の会議でも会ってるはず、リボンが目立つ小さい女子」
誠の目は本気だ。
微塵の嘘も、駆け引きもない。
言葉が断れば、彼は即座に方向転換し、清浦刹那の元へ向かうだけ。
その瞬間、言葉の内で冷たい火花が散った。
誠の傍らで、常に無機質な凪を維持しているあの少女。
言葉とは対照的で、小さく、静かで、何を考えているのか読めない存在。
(清浦さん……。あの人が、伊藤くんに手を……)
言葉にとって、他者に手のひらを見せるという行為は、並々ならぬ覚悟を伴う。
なぜならそれは、自らの内に秘めた『居合』という孤独な牙を。
あるいは『男性恐怖』という剥き出しの急所を。
誰かに明け渡す儀式に等しい重みを持っているから。
「あ、あの伊藤くん」
「はい?」
「その……その検証って……おひとりだけですか?」
「ああ、男の泰介が一人だから、女も一人だけ。サンプル数を変えると、比較の基準がズレるからな」
言葉が引き受ければ、誠は刹那の手相を見る必要がない。
断る権利はある。
それは、自分ではなくてもいい。
その無慈悲な事実。
言葉の奥底に眠る自己肯定の渇きを鋭く突き刺す。
もしここで拒絶すれば、誠は呆気なくこの場を去るだけ。
もう二度とこの距離には戻ってこない。
(それは……嫌、です)
もはや、選択の余地などない。
言葉は腹をくくるしかなかった。
「分かりました。……私でよければ、どうぞ」
「ありがとう。じゃあ、少し前に突き出すようにしてみせてくれ」
指先が微かに震えている。
それを自覚しながら、言葉は制服の袖から白い手首を滑り出させた。
その役目を他の誰にも渡したくないから。
誠は迷いなく一歩、踏み込む。
二人の距離が、図書委員としての境界線を越えた
個人のパーソナルスペースへと侵入。
言葉は、誠の体温が空気を介してじわりと伝わってくるのを感じた。
一瞬、呼吸が止まる。
「っ……」
喉が小さく鳴った。
自らの手に、誠の吐息が微かに触れている。
見るだけ。
だが、至近距離での確認になるため、どうしても息がかかる。
それは言葉にとって、男性に直接触れられることと同義。
生理的な拒絶反応が脳内でエラーを放つ。
それを懸命に耐え忍ぶ。
嫌がれば彼が遠くへ行ってしまうという予感。
刹那には負けたくないというどす黒い対抗心。
それらが恐怖を上回っていた。
「桂、やはり居合をやってるね」
「!? ど、どうしてそれを……」
「親指と人差し指の間にある刀傷。これ、納刀する時にうっかりつけてしまったヤツだろ。あと、指の竹刀タコ。明らかに素人の手じゃない。その努力の結晶が、美しく見える」
言葉の思考は、一瞬にして漂白された。
彼女にとっての居合とは、誰にも理解されない孤独の産物。
男性という脅威から自分を遠ざける厚い壁であったはずだ。
(美しく……見える……?)
自分の指にある硬いタコ。
不器用な鍛錬の証である、掌の傷。
それは、女の子らしくないもの。
隠し通すべき醜いものだと思い込んでいた。
だが、眼前の彼は違う。
それを、最も尊い価値があるもののように、真っ向から肯定してくれたのだ。
「……伊藤くん」
言葉の瞳に、熱い膜が張る。
清浦刹那への対抗心や、男性への恐怖。
そんな表層のノイズはどうでもいい。
今、誠が放った美しさの定義。
それによって、すべて焼き尽くされたから。
「この線、泰介とは決定的に違う。……規律正しいな。桂の生き方そのものが、掌に刻まれているみたいだ」
誠は、言葉の掌を覗き込んだまま、感嘆の吐息を漏らす。
その吐息が生命線をなぞる。
言葉の内で眠っていた嵐は、静かに、しかし決定的に目を覚ました。
(ああ……伊藤くんは、私のすべてを見てくれる。わかってくれる……うれしい)
ただのデータ収集が、言葉にとっては神聖な儀式へと変貌した。
この思い出を、生涯忘れることはないだろう。
誠が、自分の本質を認めてくれた。
それが全てである。
「ありがとうございます、伊藤くん。……そんな風に言っていただいたのは、初めてです」
「俺は思ったことを言ってるだけだよ。桂の努力は本物だ。素直にすごいと思う」
誠は満足げに身を引き、手相の本を閉じた。
これでデータ収集は完了。
彼にとっては、知的な実験の終了に過ぎない。
背を向けて階段を降りていく誠の背中。
それを見つめる言葉の瞳は、明らかな熱を帯びていた。