Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方―   作:完結の陽炎

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第2話:潔癖な知の美学

(伊藤くんは、私を選んでくれた……)

 

言葉の内で、それは揺るぎない確定事項となった。

まるで、開いていた花が再びつぼみとなって、彼という存在だけを包み込むように。

 

「……あ、あの、伊藤くん」

 

「ん?」

 

踊り場の一段下で、誠が振り返る。

夕闇の逆光に照らされた彼の輪郭。

それは言葉にとって、絶対に手放してはならない唯一の光に見えた。

 

「帰り、途中までご一緒しても……」

 

「桂の最寄り駅は?」

 

「原巴浜です」

 

「俺はその次の東原巴。じゃあ、電車まで行こうか」

 

「はい!」

 

誠としては、遙か遠い昔のことのように思える。

一年生の頃、遠くから憧れのように彼女を見ていた時期があった。

今となっては、別の他人が経験した記憶のようにすら感じてしまう。

 

(あの頃はガキだったな。今もガキだけど)

 

己の未熟さゆえに、学園祭という搾取のシステムも未経験だった。

泰介のような青臭さが、確かに自分にもあったのに。

 

(見た目だけで惚れたつもりになってた。……今はどうだろうな)

 

学園祭の搾取に疲れ果て、燃え尽きた成れの果て。

もう、好き嫌いという単純な次元で語れるものはない。

そういった感情のコストは、ただ疲労を招くだけだと冷めている。

 

駅のホーム。

それはラッシュ時間帯の凄まじい渋滞で見舞われていた。

 

「まいったな」

 

「そうですね」

 

「電車をわざと何本か見送って、乗客が減るのを待つか?」

 

「難しいと思います。困りました……私、お父さんから門限を設けられているので」

 

「図書委員や学園祭の準備とか、特別な事情がある場合は、門限の時間延長を交渉したほうがいいんじゃないか? そういうのを臨機応変にやってくれないと無理があるよ。深夜ならアウトなのは当然だけど、常識の範囲でさ」

 

「そうですね。遅れるときは、必ず連絡を入れるようにはしています」

 

ホームに滑り込んだ満員電車。

ひどく冷めた目で見送る。

人々が互いのパーソナルスペースを無遠慮に侵食し合う現状。

箱の中に押し込められるあの光景。

誠にとって知性の欠片もない『搾取の縮図』にしか見えなかった。

 

「……伊藤くん。私、お父さんに電話してみます。……電車を遅らせて、少し空くのを待つ許可をもらえないかを」

 

「どうぞ」

 

言葉が携帯を取り出し、父に電話をかける。

すると、父からは手配するタクシーに乗りなさいという指示が出た。

 

「お父さん、友達と一緒にいるんだけど……その人も一緒でいい?」

 

『なんだ言葉。ついに友達ができたのか』

 

父は、娘が学校で孤立していないかを心配していたのだろう。

安堵したような声で、快く許可を出した。

言葉が礼を言い、誠にそれを伝える。

 

「桂のお父さんは太っ腹だな。確かに、あの混雑に突っ込むのは嫌すぎるし」

 

誠は言葉の好意に甘え、タクシーに同乗した。

静かな車内で、窓の外を流れる夕闇の街並みを眺めながら、誠はふと問いかけた。

 

「桂って、図書館は使わないのか? もしかして書店派?」

 

「えっと……どちらかといえば書店です。今通っている図書室も利用しますが、正直、人の手に渡った本は……汚れていたりすることが多いので」

 

「あー、書き込みされた本を見たときの絶望感は最悪だな。大切な公共の本を粗末にしやがって、と怒りが湧く」

 

誠の言葉は、単なる愚痴ではない。

情報の純度を汚染する者への、知的な憤りだ。

言葉は誠の横顔を盗み見るようにして、その言葉を深く噛み締めた。

 

(伊藤くんも、私と同じように感じてるんだ)

 

言葉は、他人が触れたもの、他人の体温が残るものが極端に苦手だ。

書き込み、折り目、手垢といった汚損リスクが常につきまとうから。

そんな彼女の強迫観念が、誠の知的な美学と完璧に共鳴していた。

 

「別に、書き込みそのものがダメってわけじゃないんだよ。ただ、図書館の本でやるなって思う。本に思考を刻み込む価値観はわかる。だからこそ、それは身銭を切って書店で買った本でやるべきだろうって」

 

「伊藤くんは、使う本を買っているんですか?」

 

「実用書から知を吸収するためには、書き込みは必須なんだよ。眺めているだけだと、後で見返した時、その時の発想を忘れてしまう。だから、まず図書館で内容を試して、本当に必要なものだけを書店で買うようにしてる。そうしないと、『こんなはずじゃなかった』って損をするからな」

 

「そうですね」

 

「ただ、問題点もあってさ」

 

「問題点、ですか?」

 

誠は携帯で図書館の蔵書検索を開き、目当ての最新の実用書の画面を見せた。

 

「予約数、五十六件。これだと借りて内容を確認するまでに何ヶ月もかかる」

 

「書店で確認することはできないんですか?」

 

「リスクがあるんだよ」

 

「リスク?」

 

「買うかどうかわからない状態で本を開くこと自体がさ。それに、書店の本は図書館の本と違って『商品』だから、扱うのが怖いんだよ。うっかり落としたり、ページを折ったりして、商品価値を下げてしまわないかっていう恐怖がある。だから書店では、『絶対にこれを買う』と決めたもの以外は、極力触らないようにしてるんだ」

 

誠の吐露は、単なる節約術を超えた、形ある本への強い敬意だった。

言葉は、誠の携帯画面に映る『予約数56』という数字。

それを、まるで自分自身の問題のように重く受け止めた。

 

「その緊張感、分かります。……本は、誰かにとっての答えが詰まっているものですから。それを、自分の未熟な不注意で汚してしまうのは……許されないことですよね」

 

「最近の本ってどれも高いから、厳選が大変だよ。あ、そういえば桂って、教室でも本を読んでるけど、小説派?」

 

「そうですね。物語の世界に触れるのは好きです。伊藤くんは?」

 

「俺は知識を使いたいから実用書メイン。物語を読むとしたら、止のために絵本を少し読むくらいかな。あ、止は俺の妹な」

 

言葉にも、桂心という妹がいる。

話を聞けば、止は心よりもさらに幼いらしい。

そんな有意義な情報の交換をしていると、時間はあっという間に過ぎていった。

 

「あ、伊藤くん、着きましたよ」

 

「本当だ。じゃあタクシー代――」

 

「大丈夫です。お父さんが電子決済で支払い済みですから。運転手さんも承知されています」

 

運転手も愛想よく頷く。

ここまでされて遠慮するのは逆に失礼にあたる。

時間は有限であり、気持ちよく受け取るのが礼儀。

誠はその場の空気を読んだ。

 

「わかった。ありがとう」

 

ドアが開き、誠が降りる。

座席に残った言葉は、次いで自宅へと向かうのだろう。

二人は開いた窓越しに視線を交わした。

 

「桂、お父さんにありがとうってお礼を言っておいてくれるか?」

 

「はい」

 

「あと、図書委員の仕事で混雑に巻き込まれる可能性は、今後もあるかもしれない。門限を延ばすか、今日みたいにタクシーを使うか、お父さんと話し合ったほうがいいと思う。お互いに、無駄な時間と労力を減らすのは大切なことだから」

 

時間と労力の有限を骨の髄まで理解している。

タクシー代の返礼として、的確なアドバイスを送った。

「これで借りは返したぞ」と言わんばかりの、誠らしいドライな優しさ。

そんな義理堅さも、言葉は極めて好意的に受け止めていた。

 

「わかりました。お父さんと話し合って決めます」

 

「じゃあ、また明日学校で」

 

「はい!」

 

誠が手を振り、言葉も振り返す。

窓が閉まり、タクシーが動き出した。

それを見送ってから、誠は自身のマンションへと歩き出す。

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