Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
夜になり、多忙な父が久しぶりに帰宅した。
普段はもっと遅いか、泊まり込みが多い。
家族と顔を合わせる時間は少ない。
言葉はこの機を逃さず、門限に関する交渉を切り出した。
「お父さん。今日のタクシー、ありがとう」
「ああ、言葉。友達も無事に送り届けられたかな?」
「はい。……それで、お父さん。ご相談があるの」
「なんだい?」
言葉は、誠から指摘された『時間の有限性』と『不測の事態への対応コスト』。
それを淀みなく論理的に説明を展開した。
図書委員の業務延長、学園祭などのイベント準備、そして不可避のラッシュによる遅延。
これらは個人の努力レベルで解決できる問題ではない。
門限の柔軟な運用や移動手段の確保など、システムを改善する余地がある。
父は、まるで別人のような娘の顔を驚いたように見つめた。
これまで、与えられた規律をただ従順に守ることしか知らなかった娘。
それが、自らの置かれた環境を最適化しようと堂々と交渉してきている。
「……なるほど。確かに、言葉の言う通りだ。学校の役員としての責任を果たすために、無理に満員電車に揺られて疲弊するのは本末転倒だな。わかった。特別な理由がある場合は、事前の連絡をもって門限の延長を認めよう。今日のような場合は、遠慮なく配車の手配を使いなさい」
「はい。ありがとう、お父さん」
この時、父は密かに思索を巡らせていた。
娘のこの急激な成長は、間違いなく誰かの影響を受けている。
教師ではないだろう。
その論理の冷徹さの中には、不思議と柔軟な温もりが内包されている。
考えられるのは、今日同乗したという同世代の友人か。
もっとも、父はその友人を同性の女子だと完全に誤解していたが。
父が席を外した隙。
母の真奈美が意味ありげな笑みを浮かべ、言葉にすり寄ってきた。
「言葉。あなた、素敵な人を見つけたのね」
「えっ……」
「私がお父さんを射止めた時の頃を思い出すわ。その時の私に、今のあなた、そっくりよ」
「おかあさん! おねえちゃん、帰ってからずっとニコニコしてたよ。あやしいよね、男だ、絶対男だ!」
「ちょ、ちょっと心!」
「お父さんには内緒にしておくわ。あの人、娘に男の影なんて絶対に認めない潔癖な人だから。まだ時期尚早ね」
母と妹の容赦ない追及。
言葉は頬がカッと熱くなるのを抑えられなかった。
母の鋭い直感と、妹の無邪気な暴露。
桂家のリビングに流れる空気は、昨日までとは決定的に異質なものになっていた。
「お、男の人だなんて、そんな。……伊藤くんは、ただの図書委員で……」
「あら、『伊藤くん』っていうのね。……名前が出るのが早いわよ、言葉」
「っ……」
弁解しようとすればするほど、ボロが出る。
こうして図らずも、母と妹に伊藤誠という存在が露呈してしまった。
自室に戻り、本棚を眺める。
ふと、携帯を手に取り気づく。
連絡先を交換できたら……そうすれば、部屋にいても彼との繋がりを維持できる。
次の図書委員の当番日、言葉は行動に出た。
「伊藤くん、業務報告の都合でお願いがあるのです」
「なんだ?」
「携帯の連絡先を交換してくれませんか? 図書委員活動の連絡手段として」
「まあ、同じ委員だしな。緊急の連絡事項があった場合とか、合理的か」
誠としても、断る理由が見当たらなかった。
教室で直接言えば済むことだと思いつつも、彼の脳内では別の打算が働いていた。
(桂なら、他にも有力な情報を持っていそうだし、困った時の優秀な相談役になりそうだ。清浦にはできないアプローチが、桂にならできる可能性がある。清浦だけに依存するのは、投資でいう『一つの籠に卵を盛るな』の理論からしてもマズイ。桂というパイプを持っておくのは心強い)
そう自分を納得させ、誠はあっさりと応じた。
ここから、誠は実用書のベストセラーや最新刊に関する悩みを、メールで明け透けに語るようになった。
図書館に入荷していない、あるいは予約殺到で手に入らない。
書店で立ち読みをするにはリスクが高すぎる。
そうした効率化のジレンマ。
それは言葉にとって、自らの存在価値を証明する絶好の機会だった。
「あー、やっぱ厄介だ」
「伊藤くん、どうしたんですか?」
当番の日。
司書教諭と話をして戻ってきた誠がぼやいた。
「最新の実用書についてのレファレンスが、どうにも微妙でさ」
「といいますと?」
「俺が使える本かどうかは、書き込みができるような『空白』があるかどうかが重要なんだよ。どういった知識が載っているかの目録は、ネットで調べれば大体わかるけど、紙質や余白の広さといった物理的な書き込みの可能性は、ネットのサンプルじゃわからない。あと、俺の思考に合うかどうかは、実際に開いて直感的に判断しないとダメだ。さすがに、司書にそこまで判断させるのは無理があるなぁと」
「そうですか」
「正直に言えば、本を探すための『検索コスト』は極力増やしたくない。探すプロと、それを使う俺。役割分担ができれば、探す時間を『読む時間』に変換できて最高に効率がいいんだけど……主観的な相性までは、司書には頼めないからな」
誠は、自分というシステムの処理速度を一切落としたくない。
情報は鮮度が命。
それにアクセスするためのノイズを極端に嫌う。
言葉は、返却された本を丁寧にカートへ移しながら、誠の横顔を盗み見た。
彼が求めているのは、単なる本ではない。
荒野のような書棚を縦横無尽に駆け抜ける。
最も良質な果実だけを摘み取って差し出してくれる。
そんな忠実で有能な『情報の斥候』だ。
(私なら……。私なら、伊藤くんの時間を一秒たりとも無駄にはさせない)
言葉の奥底で、義務感などという生温かいものではない。
別の何かが力強く鎌首をもたげた。
それは、彼の知を護る防波堤になりたい。
あまりに強烈で排他的な献身の意志だ。
「伊藤くん」
「ん?」
「それでしたら、私がその『探す人』の役割を、引き受けさせていただけないでしょうか?」
誠の眉が、わずかに動いた。
それは驚きというより、提示された選択肢の利害を瞬時に計算。
まるで冷徹な機械のような反応であった。
「それは、桂の時間を奪うことになる。俺は、自分の目的のために他人の時間を搾取する気はない」
「そんなことありません。私としても、伊藤くんがどのような視点で実用書を読み解き、それをどう役立てようとしているのか、とても興味があります。これは、私自身の知見を広げるためでもあります」
知の相互利益。
それならば搾取にはならない。
言葉としても、誠の知の探求プロセスに触れることは喜ばしい。
むしろ、彼の脳内にダイブしたいとすら願っている。
「そういうことなら明日、手持ちの三冊の実用書を持って来るよ。それを参考に、俺の好みに合う選書ができるかどうか、試させてもらってもいいか?」
「はい! 喜んで!」
「かなり書き込みをしてるし、字はお世辞にも綺麗じゃないけど」
「かまいません」
後日、言葉は誠から三冊の実用書を受け取った。
①『現代における論理的交渉術:限定合理性の超克』
②『独学の技法:情報の取捨選択とネットワーク構築』
③『身体知の覚醒:格闘技術における力学の応用』
言葉は、ページに刻まれた誠の字の癖をなぞるように、そっと指先を滑らせた。
誠が「汚い」と卑下したその筆跡は、言葉にとっては違う。
彼の脳髄に直接触れ、これ以上ないほどに美しく、生々しい情報の脈動だった。
「どうかな? 書き込みの密度とか、余白の使い方の『癖』とか、掴めそうか?」
誠はあくまで、業務効率化のためのサンプル提供として問いかける。
だが、顔を上げた言葉の瞳には、静かな、しかしぞっとするほどの執念が宿っていた。
「はい。完璧に把握しました。伊藤くんが求めている『思考の避難所』としての余白の広さ、そして、ペン先が滑らない紙の摩擦係数。……すべて、理解しました」
「……避難所?」
「はい。書き込みとは、本の内容に対する、読者の魂の吐露ですから」
「あ、ああ……。すでに家にある本のリストも渡しておくよ。重複対策な」
「わかりました」
「選書は十冊までリストアップしてくれ。最低でも三冊は当たりが欲しい」
「はい」
誠から手渡されたリスト。
思考の拠点に並んでいるであろう書籍たち。
それが整然と記されていた。
言葉はそれを両手で恭しく受け取った。
この世の何よりも尊い宝の地図を受け取るかのように。
誠がこれまでに摂取し、血肉としてきた『知の系譜』。
それを知ることは、彼がどのような論理で世界を構築しているのか。
その裏側を完全に掌握することと同義だった。
ここから、大手書店における桂言葉の動きは激変した。
まるで居合の間合いを測るかのように。
研ぎ澄まされた鋭さがその立ち居振る舞いに宿る。
一人で静かに小説を読んでいた頃の彼女はもういない。
今の彼女は、愛する主君からの命を帯びた、一人の『知の侍』だった。
実用書コーナーへ迷いなく足を進める。
誠の既読リストと、彼が求める最新の知が交差する領域をマッピングする。
彼女の手には、誠の筆跡を完璧にインプットした脳と、紙の厚さや質感を測るための鋭敏な指先がある。
棚から一冊の本を抜き取る。
言葉はまずその『開き具合』を慎重に確認する。
誠は本に書き込みをする。
ならば、本の綴じ目までしっかりと平らに開き、フラットな状態を維持できる。
そんな『糸かがり綴じ』などの堅牢な製本でなければならない。
(……この本は糊付けが強すぎます。無理に開けば、伊藤くんの強い筆圧に耐えきれず、ページが脱落する恐れがあります。却下です)
紙質とインクの相性も重要だ。
言葉は予備の無地ノートを取り出し、誠が愛用する同型のボールペンで、彼の筆圧を再現した線を引く。
さらに、預かった三冊の紙の質感を指先で思い出し、目の前の本のページの「滑り」と照合する。
(インクの定着が遅いです……。これでは、伊藤くんの手を汚してしまい、彼の思考を阻害します。不採用です)
思考の余白を測るため、言葉は小さな定規を取り出す。
版面と余白の比率を瞬時に計算する。
その視線は正確無比であり、一切の妥協を許さなかった。
放課後の図書室。
言葉は、整然とまとめられた『選書レポート』を誠に手渡した。
そこには、単なるタイトルや目次の要約だけでなく、紙の坪量(重さ)、開きやすさの角度、そして誠の字が最も美しく定着するであろう紙の摩擦係数の推察までもが、狂気的なまでの緻密さで記されていた。
レポートを受け取った誠は、一人で大手書店へ向かう。
一人で集中して本と向き合う時間の重要性。
それを、読書家である言葉は理解している。
だから、野暮についていくような真似はしない。
(桂は、本の探し手として紛れもなく本物だ。こうなると、俺が書き込みを終えた本を一時的に桂に渡してフィードバックとし、次の選書の精度をさらに上げるというサイクルが組めるな)
誠にとっては、これ以上ないほどに効率的なシステムが構築された。
漠然と本を探すという膨大なコストがゼロになったのだ。
言葉がリストアップした本は、恐ろしいほどの精度で誠の要求(当たり)を満たしていた。
当然である。
彼女は本を探しているのではない。
誠の脳の欠損部分に、寸分違わず嵌まるピースを探しているのだから。
これはもう、単なる好意や愛といった生易しい言葉で語れるレベルの代物ではない。
(これって、清浦の論理性とは明らかに質が違う。なんだろう、この異様な感覚は。ものすごく助かっているはずなのに、同時に、自分の首に真綿が巻き付いていくような……。底なし沼に足を踏み入れて、二度と戻れなくなるような)
誠の優れた危機察知能力が、不可解な警鐘を鳴らしていた。
確実なのは、桂言葉という存在が、誠の知の補給路を完全に掌握しつつあるという事実。
これを探していると言えば、望み通りのものを完璧な状態で差し出してくれる魔法使い。
(これはアレだ。味方でいるうちは最強のシステムだが、敵に回した瞬間に俺のすべてが詰むタイプだ)
誠は時折、強烈な違和感を覚えるようになっていた。
通学の駅で、毎日のように言葉と出くわす。
偶然なのか必然なのかはわからない。
彼女もラッシュを避けるために早く来ていると言えば、お互い様であり、論理的な矛盾はない。
ホームで電車を待ち、改札を出て、通学路を隣同士で歩く。
言葉が時折、ちらちらと誠を見る。
誠も観察するように視線を返す。
目が合うと、言葉は恥じらうように目を逸らす。
「桂は、テストで満点を取れるタイプだよな。学年トップ層の」
「伊藤くんは……どうですか?」
「四十点作戦。赤点を回避するギリギリのライン。それ以上の点数を取るための勉強は、俺にとってはコストの無駄でしかない」
「なるほど」
「理解が早いな」
「はい。お預かりした実用書の書き込みの深さを見て、伊藤くんの知性が、学校のテストという規格に収まるものではないとわかっています」
「俺があえて手抜きをしていることに、嫌悪感はないのか? 桂は、何事にも全力を尽くすことを善とするタイプに見えるけど」
「伊藤くんの真剣さは、ペーパーテストなどという紙切れで測れるものではありません。それは手抜きではなく、探究する『戦場』が違うだけです」
誠は内心で驚愕した。
その、すべてを焼き尽くすかのような言葉の圧倒的な肯定の熱量に。
自分の知の本質が、完全に見破られている。
学園の評価システムという矮小なもので、伊藤誠の人間を評価できるわけがない。
彼女は本気で信じ込んでいるのだ。
誠は言葉を注意深く観察する。
あきらかに、男性という存在そのものが苦手そうな気配を常に纏っている。
自分も男である以上、その恐怖の対象に含まれるはずだ。
それなのに、なぜこうして傍にいて、自らを削ってまで選書に協力してくれるのか。
男が嫌いなら、自分も嫌悪されなければ理屈が合わない。
検証のため、誠は澤永泰介を連れて、友だちとして言葉に引き合わせてみた。
泰介は案の定、鼻の下を伸ばして言葉の胸元へ視線を這わせる。
黒田光を呼び出し、泰介をつねり上げてもらったが、光は露骨に言葉を睨みつける。
それは「泰介を誘惑するな」と無言の圧力をかけた。
理不尽の極みである。
「伊藤、あんたね。泰介をあんな女に紹介なんてしないでよ」
光が吐き捨てるように去った後、誠は泰介に告げた。
「男嫌いかどうかの検証をしただけだ。泰介、お前、完全に嫌われてるぞ」
「ま、マジで?」
「ああ。お前が近付いた瞬間、桂の『間合い』が明らかに警戒を帯びた。あれが本物の居合だったら、泰介は、すれ違いざまに三枚におろされてるだろう」
「そ、そんな、トホホ……」
泰介は即退場。
哀れな友人への同情は一切ない。
誠は、怯えたような、それでいて泰介に対する深い不快感を湛えた言葉の瞳。
それ見て、申し訳なく思い謝罪した。
「ごめん。泰介はスケベだけど、悪気はない――と思うんだ、たぶん」
「いえ……。伊藤くんが、あの方を『友達』と呼ぶのが、少し意外だっただけです。伊藤くんの周波数とは、まるで合っていないように見えましたから」
「……なんともいえないな」
友だちという定義にも、誠は自信がない。
彼らはただのノイズ。
だが、状況によっては利用価値があるかもしれないと思っている。
それは極めて冷めた思考回路であった。