Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方―   作:完結の陽炎

45 / 63
第4話:居合の薄氷

屋上へ続く踊り場の静寂。

もはや単なる物理的な空間ではない。

そこは誠と言葉。

二つの孤高が互いの核を剥き出しにする儀式へと変容していた。

 

「腹の探り合いは苦手だから、率直な話をしてもいい?」

 

「あ、はい」

 

「泰介を使った検証で、桂が男を嫌悪していることはわかった。だとしたら、どうして同じ男である俺を嫌うことなく、むしろ協力してくれるのか?」

 

これは論理の問いである。

『男』という属性のレッテルだけで、彼女は判断していないのだろうか。

言葉は自身の指先をぎゅっと握りしめる。

視線を誠の胸元あたりに落としてから、絞り出すようにして答えた。

 

「……伊藤くんは、私を『性別』で見ていないからです」

 

「性別で、見ていない?」

 

「はい。澤永さんや、他の男性の方々は……。私を見ると、まず『体』を見ます。あるいは、勝手な『女らしさ』を押し付けてきます。それは、私という人間の中身を読み飛ばして、自分たちの身勝手な欲望だけを書き込もうとする、暴力的な行為です」

 

言葉の鋭い分析に、誠はわずかに眉を動かした。

誠が抱く公共の本への書き込みによる、情報の汚染への嫌悪感と驚くほど似通っているからだ。

 

「私にとって、それは図書館の大切な本に、無神経な落書きをされるのと同じ……耐え難い苦痛なんです」

 

「なるほど」

 

「でも、伊藤くんは違います。伊藤くんは私の手を見て、そこに刻まれた居合の努力と規律……私という人間の、純粋な情報の痕跡だけを正しく読み取ってくれました」

 

言葉が顔を上げる。

その瞳には、もはや狂気にも似た、澄み切った絶対的な信頼が宿っていた。

 

「伊藤くんは、私を一人の人間として尊重してくれます。だから、私は、伊藤くんを絶対に拒絶しません」

 

「……本当にそうかな? 仮に、俺が今、桂に触ろうとしたらどうなる? 生理的な恐怖が、無意識に発動するんじゃないか?」

 

誠には予想がつく。

触れようとすれば、彼女は反射的に逃げるか、あるいは無意識に手が出るだろうと。

もし手が出た場合、相手は居合の熟練者。

素人の誠がその一撃を避けられる術はない。

 

(敵に回したら、物理的にも桂には勝てない。俺はそれを知っている)

 

だからこそ、彼女への敬意と距離がある。

最初から勝負する気などない。

戦いの土俵に乗らないことが、最大の防衛策。

触れないということは、互いの領域を侵害しない不可侵条約だ。

 

「伊藤くんが、それを望むなら……」

 

静かに右手を差し出してきた。

誠は試すように、その手を握ってみる。

嫌がるそぶりを見せない。

ただ、触れた瞬間にビクッと小さく震えただけ。

 

「……」

 

「……」

 

互いに無言のまま、静寂が落ちる。

言葉が微かに握り返してきた。

誠も少しだけ力を込めて握ってみる。

そして視線が交錯した。

 

(なんだろう。こちらの領域が、少しずつ浸食されているような気分。ああ、だから桂は他の男に触れられた時、この『精神への侵入』を本能的に拒絶したのか)

 

男嫌いの根本的な構造が見えた。

これなら苦手と感じて当然だと。

逆にやられる側になってみると、言い知れない恐怖を感じる。

 

「桂、わかった。もう手を離してもらっていいか?」

 

「……」

 

「桂?」

 

「……伊藤くん」

 

「はい?」

 

「怖いと思うのは、私だけじゃなかったんですね」

 

「……ノーコメント」

 

しかし、言葉は誠の手を握り返したままだ。

こうなると誠としても対応に困る。

 

「なんで手を離さないのか、聞いていい?」

 

「伊藤くんが、離してくれないからです」

 

「桂が先に力を抜いてくれるかと思って。レディーファースト」

 

「ずるいです」

 

「意地悪、と言わないところが桂の優しいところだな」

 

「ですから、私からは絶対に離しません」

 

心なしか、言葉の握る力が強まった。

その反抗が少し面白く感じられ、やり返したくなる。

にぎにぎと、わざと指先を動かして遊ぶようにした。

 

「伊藤くん、楽しそうですね」

 

「桂がなんで男嫌いというか、他者との接触を怖いと思ったか、そのシステムがわかったから」

 

「でも、伊藤くん。……怖いだけじゃないと思うんです。こうしていると、ちょっと、嬉しかったりもします」

 

「怖いのに、嬉しい……か」

 

「今の伊藤くんと、同じだと思います」

 

こうして物理的に繋がりながら、互いの精神の深淵を探り合う。

結局、「せーの」の合図で同時に手を離すで折り合いをつけた。

 

 

昼休み。言葉から食事に誘われた。

「お弁当を多めに作ってしまったから」という、わかりやすい口実。

購買でパンを買おうと思っていた誠のタイミングと合致。

それならばとご相伴にあずかることにした。

 

屋上扉前の踊り場。

冷たいコンクリートに小さなレジャーシートを敷いて、二人は並んで座る。

 

(……珍味だ。料理に不慣れなのがバレバレだな)

 

言葉が作ったサンドイッチ。

その具材の組み合わせがバグを起こしていた。

生まれて初めての独創的な味である。

だが、一緒に差し出された温かい水筒のレモネードは格別の美味しさだった。

 

「桂、お母さんに料理の基礎を教えてもらったほうがいい。将来自立するなら、家事の最適化は必須スキルだから」

 

「は、はい……精進します」

 

誠と言葉の時間は、こうして静かに、しかし確実に積み重なっていく。

こうした日常の過程が、言葉の誠に対する愛の高鳴りを異常なまでに増幅させていた。

だからこそ、彼女は不安に苛まれる。

彼氏彼女という明確な契約を結びたいという情念。

いつ失うかもしれないという恐怖の裏返し。

 

告白するのは怖い。

今の完璧な関係性が壊れてしまうかもしれない。

現状維持を求めるのは、人間の自然な防衛本能。

しかし言葉にとって、その現状維持には、致命的な危機感が伴っていた。

なぜなら。

 

「あっ……」

 

図書室の窓から校庭を見下ろした言葉の視線。

その先に、一人の少女の姿があった。

言葉が明確に恐怖する、唯一の対象。清浦刹那だ。

 

彼女は、誠と対等、あるいはそれ以上の高度な次元で知的交流ができる。

自分がいくら情報の斥候として立ち回っても勝てない。

誠の好奇心を満たす相手として、刹那に奪われてしまうのではないか。

刹那がいる限り、自分はいつか捨てられてしまう。

そうした最悪の事態を、言葉の優秀な頭脳が想定しないはずがなかった。

 

(嫌です……伊藤くんは……彼のすべては、私だけ……。私は、彼を満たすためだけに存在するの……)

 

言葉の内で渦巻くどす黒い情念など露知らず。

別の場所で、刹那は誠に静かな忠告を与えていた。

 

「手相の件、伊藤は結局、桂さんの所に行ったのね」

 

「清浦がメールで『桂に見せたほうが早い』と書いてたからな。その最適解を忠実に実行しただけだ」

 

「……不覚」

 

「え?」

 

「ううん。でも、伊藤。このままだと、桂さんに『染まる』よ」

 

刹那の瞳は見抜いている。

誠の周囲にまとわりつき始めた、言葉の重い情念の気配を。

この上なく正確に捉えていた。

 

「……やはりわかるか、さすがだな清浦」

 

これは誠も自覚している。

だからこそ刹那に会って話をしたかった。

 

「桂の放つ『居合の波動』は、冗談抜きでヤバい。桂と直接やり合うなよ。これは、清浦の忠告に対する、俺からの忠告返しだ」

 

誠の言葉を否定しない。

言葉が誠というシステムを徐々に染め上げていく。

その過程に対して、淡々としながらも、鋭い批判を瞳に宿している。

 

「伊藤は、あの熱量に、自分が耐えられると思ってる?」

 

「桂は極めて有能な『探し手』であり、俺はそれを『使う手』だ。その役割分担が機能しているうちは、関係は安定する」

 

「その役割がすり替わったら? 彼女が伊藤のために情報を『探す』のではなく、伊藤の思考そのものを『管理』し始めたら……。その時、伊藤に逃げ場はない」

 

最も痛いところを、容赦なく突いてくる。

誠の目が「そんなことは百も承知だ」と語っていた。

居合というものは、刀が抜かれる前から勝負がついている。

気付いた時には、すでに致命傷を負い、相手の術中にはまっているから。

言葉の愛は、まさにそれなのだ。

 

「俺のことは、俺自身で何とかする。それとも清浦は、得意の論理で桂を説得して、勝てると思っているのか?」

 

誠の瞳に宿る諦念に近い確信を見て、小さく息を吐く。

彼女も気づいている。

言葉が誠に向ける熱量は、もはや互いを高め合う情報の交換などではない。

自らの存在意義のすべてを彼に賭けている。

とても狂信的な『信仰』へと変質していることを。

 

「……勝てない。論理が通じない相手に、話を重ねるのは無駄」

 

刹那は潔く認めた。

彼女にとって、桂言葉は居合の使い手である以上に、伊藤誠への愛。

その絶対的な正義の殻に閉じこもった、難攻不落の要塞に見えていた。

 

「俺はな、桂が、どんな手を使って清浦を排除するか。その最悪の構造が見てしまうんだよ。清浦を害する危険性を、勘で感じ取っている。だから無茶はするな。下手に動けば、マジで消されるぞ」

 

刹那は黙り込む。

誠が本気で危惧している。

言葉が内に秘めた、静謐でありながらの狂気。

存在抹消への意志。

人間が極限まで追い詰められた末に起こす暴発。

 

誠は予言している。

自分のように、エネルギーが尽きて燃え尽きるのとは違う。

桂言葉は、その逆だと見ているのだ。

燃え上がりすぎて、自覚のないまま周囲のすべてを灰にしてしまう。

 

(伊藤は……自己犠牲を払うつもり。私を守るために、桂の脅威の矢面を、たった一人で引き受けようとしている)

 

自ら刹那との距離を取った。

これまで知的な交流で世話になってきたからこそ。

刹那を巻き込むわけにはいかない。

言葉が暴走すれば、何をしでかすか予想がつかない。

言葉にはそれだけのポテンシャルと実力がある。

だからこそ、深入りは死を意味する。

 

誠は今、その薄氷の上を歩くギリギリの綱渡り。

この息苦しい日常の中で生き残ろうと足掻いていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告