Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
放課後の校庭。
長く伸びた影の二人。
分かつ境界線のようにベンチに落ちている。
清浦刹那は、隣に座る桂言葉を呼び出した。
それは、この複雑に絡み合った『知と情念』の糸を解きほぐすための、最後の手続き。
「清浦さん、お話って……?」
言葉の問いは穏やかだった。
だが、その瞳の奥には、誠を護るための鋭利な警戒心。
抜き身の刀のように光っている。
それを察してか、刹那は視線を前方に固定したまま、淡々と告げた。
「桂さん、私は降りる」
「え……?」
「桂さんに、伊藤を任せたい。それで、ここからが本題」
刹那の提案は、驚くほどに合理的。
冷徹なまでの自己犠牲。
親のコネクションを利用し、自らをパリ留学へと向かわせる。
自分をこの学園というシステムから完全に除去する。
そうすれば、言葉が嫉妬に狂うことも、誠が余計なリスクヘッジに思考を割く必要もなくなる。
それは敗北ではない。
誠と交わした生き残りという目的を完遂するため。
刹那なりの最適解だった。
静寂が流れる。
やがて、言葉の口から零れたのは、意外な言葉だった。
「清浦さんは、とても優しいんですね。……私、誤解していました」
「誤解?」
「はい。物静かで知的で、私には到底及ばないほどに、伊藤くんを深く繋ぎ止めて離さない人だと……そう思って、恐れていました」
「……私は、併走するだけ」
刹那の声に、感情の起伏はない。
言葉と敵対する気も毛頭ないのだ。
「見ているものが違う。私と伊藤は、進路という自分自身の生きる道を行くだけ。混じるのではなく、ただ並んで歩く。卒業すれば別の道になる。最初から、同じ場所にはならない」
「はい……すみません」
「どうして謝るの?」
「私、嫉妬していました。清浦さんに」
「知ってる。だから、この提案をした」
刹那の論理は完璧だった。
互いの利益を最大化し、摩擦を最小化するパージ案。
だが、言葉はその論理のさらに奥。
刹那がひた隠しにしていた熱に触れる。
「その提案の件ですが……私、清浦さんと『お友達』になりたいです」
「……」
「ダメ、でしょうか?」
「……嫉妬はどうするの。私が近くにいれば、桂さんの計算は狂うはず」
「清浦さんを、信じます」
「信じれば裏切られる。現実は、そういうもの」
あえて突き放す。
それを言葉は柔らかな微笑みで包み込んだ。
「清浦さんは裏切りません。だって……裏切られた時の、あの身を切るような痛みを知っている人ですから」
論理の盾を構える刹那に対し、言葉は情緒の逃げ場がない真実を突きつけた。
情報のノイズに焼かれた経験を持つ者同士。
その痛みこそが、言葉にとってはどんな契約書よりも確かな信頼の証だった。
「……伊藤は、私を遠ざけようとした」
刹那が、ポツリと本音を漏らす。
「桂さんの嫉妬によって、私という存在が物理的に『消される』ことを、伊藤は本気で警戒した。それほど、今の桂さんの重圧は凄まじい」
「そんなこと、しません……。私がそんな『汚れ』を身に纏えば、伊藤くんが悲しみます」
「……本意ではないと?」
「はい」
刹那は、初めて隣に座る言葉を正面から見据えた。
「桂さんは、この学園という枠組みに収まらない。だから皆、その異質さに嫉妬し、敬遠する。桂さんの存在感は、あまりにも強すぎる」
「そ、そんなことは……」
「例えるなら、そう。自分を羊だと思い込んでいる狼。……私と伊藤は、桂さんの『本物』を、きっと誰よりも理解している。だからこそ、敵に回したら絶対に勝てないことを、私と伊藤は……認めている」
言葉の心に宿っていた不安定な揺らぎを、一瞬で消し飛ばす。
これまで誰からも理解されず、ただ気味の悪い優等生や性的対象としてしか見られてこなかった。
その魂の深淵にある、鋭利で純粋な本質。
それを、誠と刹那という学園屈指の知性を持つ二人は、最高度の評価をもって肯定したのだ。
もはや、嫉妬やコンプレックスという低次元なノイズは不要だった。
刹那が自分を認め、誠が自分を頼りとしている。
その事実が、言葉を学園という檻から解き放つ。
同時に誠を護るための唯一の存在へと完成させた。
「友達は保留。私も桂さんも、そういうレッテルで測れるものじゃないから」
「そ、そうですか」
「交流するのはいい。これ連絡先」
携帯の番号を登録。
メールの交換ができるようになった。
初めて同性の連絡先。
言葉にとってはかけがえのない宝となる。
「あ、ありがとうございます」
「伊藤のことはどうする?」
「私から説明します」
「わかった。今まで通りでいい?」
「はい。お気遣いありがとうございます」
刹那は改めて認識した。
この怪物とまともに戦ってはいけないと。
勝負以前の問題である。
手相で誠が言葉を選んだ。
時点で確定していたから。
「桂さん」
「はい?」
「山県、マークしたほうがいい」
「え?」
「山県。伊藤への未練、バレバレ」
「そ、そうなんですか」
「伊藤はノイズ扱い。可能性は低い。でも、山県の知に、興味を持たないとは限らない」
「伊藤くんって、本当に好奇心が旺盛なんですね」
「伊藤の知の浮気、それは不誠実じゃない。幅広い視野を持てる本物の知性」
このやり取りを通じ、言葉と刹那の交流が深まった。
たとえば本の交換でも証明されている。
「……桂さん、これ」
刹那が差し出したのは、数式と図説が整然と並ぶ理系の対話本。
感情に左右されない物理法則や、論理の美しさを説いた一冊。
情緒という霧の中で見失っていた世界の骨組みがそこにはある。
「ありがとうございます、清浦さん。……私からは、こちらを」
言葉が手渡したのは、革装の古い推理小説だった。
緻密な伏線と、人間の業が織りなす迷宮。
論理だけでは解けない動機という名の深淵。
その頁に閉じ込められている。
二人の指先が本を介して触れ合う。
それは、互いの聖域の鍵を交換するような。
静謐な背徳感を伴っていた。
そんな二人のやり取りを遠くから見たのは誠である。
彼の内心としては。
(二人が知の怪物に見える)
自分は凡人と言い聞かせる。
学校の成績では二人に全く歯が立たない。
比べるほうがおこがましいほどに。
別の日の図書委員当番。
カウンター席で誠と言葉が並ぶ。
隣にいる彼にニコニコと話しかけていた。
「伊藤くん、こちらの一部は私よりも清浦さんの選書を求めたほうがいいです」
「論理計算術のほう?」
「はい。感情の心理でしたら任せてください」
「あー、そういう棲み分けなのか。知の共存として納得だ」
別の日。
同じクラスの教室にいる刹那へ。
休み時間のときに誠は声をかけた。
「レファレンス、論理計算術、冊数は2」
「桂さん?」
「当たり、棲み分け選書だ」
「わかった」
夏の蟬の声が止み、秋の冷たい空気が流れ込む図書室。
二人の少女が交換した本の頁の間。
そこに、誠という『真理』を解き明かすための、目に見えない数式が刻まれていた。