Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
電車の通学ラッシュをいかにして回避するか。
あの混雑地獄を避けるには、何時の列車が最適解なのか。
伊藤誠は携帯を片手に、自室で一通のメールを送信した。
送信先は清浦刹那。
精密な確率計算をもって最適解を導き出す、学園随一の観測者だ。
「……マジかよ。もはや早朝の域を越えてるだろ」
早起きは三文の徳とは言う。
しかし三文どころか、それは深夜の内に就寝を強いる生活の強制終了だ。
それでは夜の自由時間が減るではないか。
不満げに眉を寄せる誠。
そんな彼へ、間髪入れずに刹那からの返信が跳ねた。
『まずこの資料を見て。伊藤の睡眠負債と、ラッシュ時のストレスによるIQ低下の相関図。あの混雑は、伊藤の知性を搾取するノイズでしかない』
添付されていたのは、詳細な円グラフと時間帯別の乗車率予測データ。
彼女の計算によれば、誠が現在利用している時間帯の乗車率は180%を超えている。
それは思考を停止させ、ただ肉の塊として運搬されるだけの家畜の時間だと刹那は断じた。
『始発から3本目までなら、乗車率は30%以下。座席の確保確率は95%以上。学校が開くまでの空白時間は、職員室で図書室の鍵を借りて自習に充てればいい。管理職(教師)に「熱心な生徒」という誤認を植え付けるコストパフォーマンスも考慮済み』
『朝食はどうするんだよ。いいか刹那、お前もマンション暮らしならわかるだろ? 朝早くから食事の用意で物音を立ててみろ。近隣からクレームが来るぞ。朝が早いってことは逆に静かすぎて、生活音が響きやすいんだよ』
まさか絶食状態で登校しろというのか。
それこそ兵糧攻めではないか。
誠が詰め寄るようなメール。
すると刹那が淡々と、しかし決定的な事実を突きつけた。
『その懸念は、すでに桂さんと共有済み』
『なんでここで桂が出てくるんだ?』
『伊藤の朝食リソース確保。桂さんが「自分が用意する」と立候補した』
『却下だ。桂のサンドイッチは不味すぎる。昼休みのあの「バグ」は、トラウマ級のえぐさだった』
『お母さんに師事し、現在は改善済み。桂さんに抜かりはない。彼女の家は一軒家で防音性も高い。早朝に調理を行うことによる近隣トラブルの発生確率は0.02%以下。さらに、彼女は家事スキルの習得による自己研鑽を望んでいる』
誠は携帯を握りしめたまま、天井を仰ぐ。
画面越しに伝わってくるのは、刹那の冷徹なまでの最適解。
そして、その裏で驚異的な速度をもって実務を完遂させようとする、言葉の重い情念。
(待てよ。朝の準備が厳しいってことは、昼食の弁当だって同じだよな……)
冷凍食品で自然解凍を狙うのか。
あるいは、夜のうちに仕込んで昼を待つか。
学食という選択肢もあるが――。
(いや、ダメだ。食堂は混む。あの駅のラッシュと同じレベルで、他者の存在そのものがノイズになる)
誠の思考を先読みしたかのように、刹那からの通知が続く。
『食堂の利用は非効率。ピーク時の待ち時間と、他者の咀嚼音による集中力阻害は無視できない。よって、昼食も桂さんが担当する。朝食のついでにパッキングすれば、追加コストは最小限で済む』
これには誠も、合理的な懸念を抱かざるを得ない。
二人分の朝食と昼食。それに加えて授業の教材やノート。
それらをトータルすれば、一人の女子高生が運ぶには過度な積載量になる。
『桂の負担が大きすぎるだろ。荷物が増えすぎてキツイぞ』
『伊藤の懸念は正しい。桂さんに二人分の食事を抱えて登校させるのは、彼女の身体的負荷、および「居合」の即応性を著しく低下させる。よって、以下のスキームを提案する』
刹那から送られてきたのは、桂家を起点とした周辺地図だった。
誠のマンション、言葉の自宅、そして学校を結ぶ最短経路。
そこには天候別の合流ポイントが緻密にプロットされていた。
『合流地点は、桂家から徒歩2分の公園。午前5時45分。雨天時は桂家のガレージ内でのピックアップを許可する。桂さんのお父様へは、私が「合同勉強会の資材搬入」という名目でロジックを通しておいた』
『根回しが早すぎだろ』
誠は、自分が気づかぬうちに、二人の少女が作り上げた巨大な「最適化の歯車」に組み込まれていた。
しかし、提示されたメリットはあまりに魅力的であり、拒絶する理由が見当たらない。
『このスキームにより、伊藤は以下の利を得る。
完全無欠の静寂:早朝の図書室での独占的思考時間。
栄養の最適化:桂さんによる、タンパク質と低GI食品を中心とした思考継続型メニュー。
ノイズの遮断:混雑地獄という搾取からの完全な解放。
安全保障:桂言葉という狼を常に随伴させることによる、物理的トラブルの無効化』
こうなってしまっては、イエスと応えるしかなかった。
翌朝、午前5時。
誠は昨夜までの懐疑心を捨て、冴えわたった意識でベッドから這い出す。
近所の眠りを妨げぬよう、静かに、かつ迅速に身支度を整えた。
外はまだ薄暗く、街は深い眠りの中にある。
それでも誠の足取りは驚くほど軽い。
約束の場所へ向かうと、街灯に照らされた一人の少女の姿があった。
「あ、伊藤くん。おはようございます」
言葉の声は、早朝の澄んだ空気に溶け込むように透き通っていた。
彼女の手には、断熱性の高いトートバッグ。
そこから漂ってくるのは、以前のようなバグではない。
丁寧に出汁を取った味噌汁の香りと、炊きたての新米の匂いだ。
「おはよう、桂。……本当に、毎日やるのか?」
「はい。伊藤くんが、最高の知性を発揮できる環境を整える。それが、今の私の規律ですから」
言葉の瞳に迷いはない。
誠は、彼女から手渡されたバッグの重みを受け取った。
それは単なる食事の質量ではない。
彼女が伊藤誠という存在に賭けている、巨大な情念の重さだ。
「……わかった。じゃあ、まずは学校に向かおう。ラッシュを回避するのが最優先だ」
「ふふ、そうですね。私と伊藤くんだけの、特別な任務です」
二人は、まだ誰の気配もない静まり返った駅へと歩き出す。
始発に近い電車内は、刹那の計算通り、乗車率30%以下。
二人で並んで座っても、周囲には十分なパーソナルスペースが保たれている。
膝の上に置いたバッグの温もりを感じながら、誠は考える。
今、自分はかつてないほどの効率を手に入れている。
だが同時に、自分は言葉の作り出す聖域の中に、完全に囲い込まれてしまったのではないか。
窓の外を流れる、目覚め前の街並み。
その静寂の中で、言葉は誠の肩に、ほんの少しだけ体重を預けてきた。
それは、居合の達人とは思えないほど儚く、しかし確固たる所有の意思表示。
(……まあ、いいか。知の安寧のためだ。多少のことは受けて立とう)
誠は目を閉じ、これから始まる自分だけの時間をシミュレーションしていった。
隣で、言葉は満足げに、誠の呼吸に合わせて静かに目を閉じた。
「学園前、学園前です。お出口は右側です……」
アナウンスと共に降車し、無人の校門を抜ける。
いつもの踊り場にレジャーシートを敷いての朝食。
家庭の味として完璧に仕上げられた食事に、誠が「美味しい」と一言こぼす。
言葉は春の陽だまりのような満面の笑みを浮かべた。
「この後は教室に荷物を置いて、図書室の鍵を借りる。……自習という名の、知の探究だな」
「はい。ご一緒させてください」
自習という言葉は、彼らにとっては半分が真実で、半分が秘匿。
それは学校の勉強などではない。
いかにしてこの世界で生存戦略を立てるかという学び。
誠は図書室のOPAC端末に向かい、キーボードを叩く。
『早起き 眠気 攻略』
――該当する書籍はありません。
『早起き 精神論 批判』
――該当する書籍はありません。
『早朝 眠たい 対処法』
――該当する書籍はありません。
「なんてこった」
誠は力なく天井を見上げた。
「伊藤くん?」
「見ての通りだよ。三回アタックして、全部振られた」
「キーワードを二つに絞ってみてはいかがでしょうか?」
「それだとノイズが一気に増えるんだよ。目的の解に辿り着く前に、不要な情報に埋もれてしまう」
誠の溜息が、誰もいない図書室に白く滲む。
検索アルゴリズムをもってしても困難な課題。
今、この瞬間に肉体を支配しようとする眠気。
その生理現象に対し、納得のいく解が提示されない。
「桂はどうやってるんだ? この早朝の眠気を、どうやって攻略してる?」
「私が眠気を攻略する方法は……検索結果には載っていません。それは、『居合の呼吸』と、『感覚の遮断』ですから」
言葉が、静かに誠の背後に回った。
窓から差し込む青白い光が本棚の影を長く伸ばし、図書室は深海のような静寂に包まれている。
「少し、失礼しますね」
言葉の両手が、誠のこわばった肩に触れた。
以前までの彼女なら、決して自分から触れることなどなかったはずの境界線。
「息を吐いてください。肺にある古い空気をすべて。……情報のゴミを捨てるように」
言葉の指先が、首の付け根にあるツボの天柱を正確に捉える。
誠の脳内に、火花が散るような鋭い刺激が走った。
眠気という霧が一瞬で晴れ、視界のコントラストが異様なまでに跳ね上がる。
「居合では、静止している時こそ、いつでも動ける『動の静』を保ちます。眠気とは、思考が肉体に負けている状態……。こうして外部から神経を刺激することで、強制的に意識を『今』に繋ぎ止めるんです」
誠は、自分の脳がかつてないほどクリアに駆動し始めたのを感じた。
しかし、その駆動を支えているのは、背後にいる言葉の指先だ。
彼女が放つ、殺気を極限まで薄めたような、研ぎ澄まされた集中力。
「……効率的だな。これならカフェインに頼って胃を荒らすこともない」
「はい。そして、この刺激を与えられるのは……私だけです」
言葉のささやきには、甘い毒のような『独占欲』が含まれていた。
刹那が『確率』で誠の安全を保証し、言葉は『感覚』で誠の身体を支配する。
静寂の図書室。
自分を定義する外殻が、ゆっくりと彼女たちの色に染まっていく。
それを、もはや拒絶することさえ忘れて受け入れる誠であった。