Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
桂心が本能的に「これだ」と確信したもの。
それは、誠が放ったあの『ミミズ戦法』。
思考を暗号化する速記術の完全な獲得だった。
彼女は自分の机に向かい、一心不乱にペンを走らせる。
最初は単なる模倣に過ぎなかった。
だが、翌日に読み返したとき、書いた本人ですら解読不能という事実に直面。
心は初めて技術の挫折を知る。
楽しげに見える魔法の裏側には、強固な論理的基盤が必要である。
そのことを、彼女は肌で理解したのだ。
「ふーんだ。まだまだ、これからだもん」
しかし、心は折れなかった。
漢字を捨て、平仮名とカタカナを自分なりに変形。
ここから独自のストロークを試作する。
それは、誰にも暴かれない自分だけの秘密を構築するプロセス。
幼い独占欲と生存本能が、知的な萌芽となって芽吹いた瞬間だった。
「お姉ちゃん、これ読める?」
突きつけられたノート。
言葉は眉をひそめ、そこに躍る解読不能な線状の羅列を凝視する。
「なによ……。読めるわけないでしょ、こんなもの」
「そうだよね! えへへ!」
偉大な姉を出し抜いた。
無邪気な、しかし決定的な勝利宣言。
天賦の才を持ち、常に自分の先を行く姉。
その完璧な観測さえも振り切る聖域を手に入れてみせたのだ。
それは心の中に溜まっていたコンプレックスを、劇的に中和させる特効薬となった。
「誠くん。あの子、誠くんの真似をしてから、ずいぶん生意気になりました」
「俺は問いに対し、情報を開示しただけだよ」
言葉の複雑な視線に対し、誠は淡々と応じる。
心が興味を持ち、誠がそれを見せた。
解説を加え、あとは本人の自主性に委ねる。
誠が尊重しているのは、心という個体が自ら選んだ成長のベクトルそのものだ。
「本気で解読したいなら、刹那の演算能力を借りて『心専用の速記翻訳辞書』を作成させるのが最短ルートだ。コストは高いが、確実だぞ」
「……そこまでしなくていいです」
「心ちゃんのペースに引きずられないことだ。感情コストの安売りは、情報の濁りを招くからな」
心の知的好奇心が拡散のフェーズに入ったことを、誠は予見していた。
模倣は応用へと繋がり、やがて彼女は自分なりの題材を見つけてくる。
「心ちゃんがお姉ちゃんに頼らないのは、自分の負けを直視したくないからだろう。言うことを聞かないのも、上下関係への健全な反抗だ。彼女は、言葉の劣化コピーじゃないという意思を示しているんだよ」
誠は教えるのではない。
ただ『ヒント』を置いていく。
やるかやらないかは、彼女の自由。
そして、わからないことは正直に「わからない」と誠自身も口にしていた。
誠が見せているのは、全知全能の大人ではない。
不完全ながらも唯一の武器とする知。
泥臭く生き残りを賭け、足掻く一人の戦友としての背中だった。
幾日か過ぎ、心と対話する機会が訪れた際、誠はこう伝えている。
「心ちゃん。自分で作り上げたシステムを大切にすれば、学校や習い事でどれだけ退屈な『普通』を押し付けられても、それが心ちゃんの支えになる。俺はそうやって、この不毛なサバイバルゲームを生き抜いているんだ」
「……誠くんも、大変だね」
「まあね。俺は言葉や心ちゃんみたいに天賦の才があるわけじゃないからさ。当時の俺のスペックに比べれば、心ちゃんは羨ましいくらいの可能性を秘めているよ」
「そう? 誠くんって、心よりダメダメだったの?」
「通知表を見たことがあるだろ? 俺は平均より少し下。心ちゃんの平均より上の成績と比べたら、仮に心ちゃんが80点なら俺は半分の40点くらいだ」
「でも、誠くんっておバカに見えないよ。むしろ、心やお姉ちゃんより凄そうに見えるもん」
心は正直に思うがまま言う。
だからこそ誠も同じく向き合って答えた。
そこには年齢差なんて全く関係ない。
一人の人間としての敬意すら感じられるほどに。
「それは、学校から『押し付けられた勉強』と、自分で『選んで学んだ内容』の違いだよ。成績40点の俺が、心ちゃんたちと対等に話し合える。それは、学校の評価とは関係ないってことさ」
「それじゃあ、学校の勉強なんていらないってこと?」
「そうはいかないのが世の中の面倒なところでね。普通を求める社会は、俺たちを規格品として利用しようとする。サボれば怒られ、大人たちの力で押さえつけられる。だからこそ、頭を使うんだ」
「頭?」
「俺の場合、適当に手抜きをして、余ったリソースで本当にやりたいことに注ぐ。買った実用書にガリガリと書き込み、自分の知を手に入れる。なにしろ俺は物覚えが悪いから、こうして書かないと忘れてしまうんだよ」
誠は自分の欠点をさらけ出し、快活に笑い飛ばした。
心の瞳に、境遇を同じくする者への連帯感が宿る。
それから彼女の変化があった。
次第に我儘を言って、周囲を振り回すことをやめたのだ。
他人を変えるより、自分の内部を構築する方が遥かに確実。
それが効率的だということに気づいたから。
「誠くん。心が、最近遠くへ行ってしまったような気がします」
言葉がぽつりと漏らす。
妹が自分を必要としなくなった。
独自なミミズの世界へ潜り込んでいく。
その様子は、姉として喜ばしい反面、どこか寂しい空気を残す。
「いいと思うよ。全部ひっくるめての心ちゃんだ。言葉は言葉、心ちゃんは心ちゃん。情報の独立は、自立の第一歩だよ」
「はい……。お父さんも、こんな気持ちなのでしょうか」
「さあな。お父さんの深淵までは、俺の速記ミミズでも書き留められないよ」
誠は言葉の肩をそっと抱く。
桂家の静寂は、もはや抑圧によるものではない。
互いの領分を認め合い、異なる言語を持つ者同士が共存する。
そんな新しい形の平穏へと移行しつつあった。