Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方―   作:完結の陽炎

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第16話:暗号化する桂心の領土

学園祭という喧騒の残滓を背後に振り払い、誠は言葉を家路へと送り届けた。

夜の帳が下りる桂家の玄関先。

そこで待ち構えていたのは、妹・心による熱烈な勧誘だった。

 

「誠くん、寄ってって! 見せたいものがあるの!」

 

「オーケー。お邪魔するよ心ちゃん」

 

戸惑う言葉の視線をさらりといなし、誠はあえて心のテンションに同期してみせる。

案内された心の部屋。

そこで披露されたのは、彼女が執念で書き溜めてきた『ミミズ戦法』の習作群であった。

 

そこにはかつての無邪気な甘えはない。

誠という異端の知性に触発され、自律した個体へと脱皮し始めた。

一人の表現者の熱量が、紙面から溢れ出していた。

 

「どう! これ、すごいでしょ!!」

 

「……なるほど。なら、俺の最新のミミズメモも見せてあげるよ。ほら」

 

誠がポケットから取り出したメモ帳。

そこには、さらに鋭利に研ぎ澄まされた独自の速記が躍っていた。

 

「わあ、すごーい! これ、なんて読むの?」

 

心が指差した一節。

誠はそれを、確信に満ちた声で解読する。

 

「『心、誘う、部屋』という予測データだ」

 

「えーっ! 最初からわかってたの!?」

 

「俺が心ちゃんの立場なら、これだけの成果を出せば見てもらいたいし、何より自分を高めたいって思うからね」

 

それは論理的な帰結である。

不意打ちはリソースを無駄に消費する。

だから、あらかじめ『起きるべき事象』として定義しておく。

そうすれば、即座に最適解で返答できるからだ。

 

誠には、感情の揺らぎを排した『凪』の哲学が宿る。

心はその冷徹なまでの合理性。

それに圧倒されながらも、心にはわかる。

自分への深い理解と敬意が込められていることを。

 

「……誠くんって、やっぱり変。でも、世界で一番かっこいい『変』だね」

 

はにかむように笑う。

その様子をドアの隙間から見守る言葉。

胸の奥に切ない痛みを感じていた。

妹が、自分とは違うルートで誠の深淵へと手を伸ばそうとしている。

 

「でも誠くんって、40点でいいんだよね。心なんて、全教科で70点以上キープしないとダメなんだよ」

 

「赤点を取らなければ補習がないからね。だが、心ちゃんの場合はずいぶんと高い要求レベルだ」

 

桂家の期待値をノルマとして分析。

その脆弱性を突くハックを提案する。

 

「テスト単体65点。その代わり、この自発的な速記の成果を『課外研究』でプレゼンする。総合評価で帳尻を合わせる交渉だ」

 

「えー、細かいよ誠くん。たった5点だけ下がっても大して変わらないじゃん」

 

「この細かさこそが、搾取されないための盾になるんだよ。俺みたいな凡人はね、情報の穴を見つけ、裏口から攻め込む。そうしないと、すぐに大人たちの都合で削られてしまうからな」

 

誠は快活に笑い飛ばす。

その瞳には、一人の戦友に対して一切の妥協がない。

 

「そっか。真正面からぶつからずに、頭を使うだね。『心ルール』を認めさせる方が、ずっと面白そう」

 

心はミミズのように躍る筆跡を愛おしそうに見つめた。

誠との対話は教育ではない。

異なる言語を持つ知性同士が火花を散らす、対等な意見交換であった。

 

「心ちゃん。学校で『将来の夢』、書かされただろ?」

 

誠の問いに、心は少しだけ口を尖らせた。

机の引き出しから一枚のプリントを取り出す。

すると、そこに模範解答があった。

 

『将来の夢:お姉ちゃんのような立派な人になりたい』

 

「……これ、お姉ちゃんに気を遣って書いたの?」

 

「ううん。お父さんもお母さんも、そう書けば喜ぶから。でも、本当はね……」

 

ミミズ戦法のノートを、ぎゅっと胸に抱きしめる。

その沈黙の中に、彼女が自分自身の『核』を必死に守ろうとしている。

その意志を誠は読み取った。

 

「……心ちゃん。もし俺でよければ、ありのままの本音を、ミミズ文字で教えてくれないか?」

 

ノートの新しいページを開き、一本のペンを心に託す。

口頭を介さない、暗号による対話の再開。

心は迷うことなく、一気呵成にペンを走らせた。

 

そこには流麗な文字の羅列ではない。

激情が叩きつけられたような、歪な、しかし強固な意志の線が躍っていた。

誠はその暗号を、別の内容で注釈をしていく。

 

『私は、お姉ちゃんじゃない。お姉ちゃんになりたくない。私はお姉ちゃんとは違う私だから』

 

「……心の気持ち、誠くんにバレバレだね」

 

比べられ続けてきた歪な自意識。

心の反抗は、生存本能として極めて正常なことだ。

だからこそ伝えたいことがある。

 

「心ちゃん。今の俺の学校もそうだけど、悲しいことに『正直』だけでは生きられないんだ」

 

「……嘘、つくの?」

 

「嘘を悪いことだとするのは、管理する側の論理だよ。必要な嘘はある。誰も傷つけず、自分を守るための嘘だ」

 

何でも正直に言えばいいってものではない。

周りの環境がそれを阻害してしまう。

まさに嘘も方便なのだ。

 

「将来の夢のプリントには、そのまま嘘を書いておけばいい。大人たちを安心させるための『ダミーデータ』としてね。その代わり――」

 

心のノートを指差す。

これこそが重要で欠かせないことだと。

 

「このノートには、心ちゃんだけの真実を書き足していけばいい。誰にも解読できない暗号。それこそが、心ちゃんだけの譲れない領土になるから」

 

「……自分だけの、領土」

 

「そう。心ちゃん。ちょっと耳貸して」

 

言われるまま従う心。

すると誠が顔を寄せ、微かな小声で囁く。

 

「お姉ちゃん、そろそろヤキモチを焼く頃だよ。ミミズ文字が読めない悔しさで、今頃ムスッとしてるかもね」

 

心は目を丸くした。

その後、同じように誠の耳元で秘密を共有するように囁き返す。

 

「心が誠くんを独り占めしてるから?」

 

「正解。だから、もしお姉ちゃんに後で何か言われたら、こう伝えてあげなよ。『誠くんが、私のすごさを尊重してくれたの。お姉ちゃんは静かにドーンと構えておけって言ってたよ』ってさ」

 

あえて一人称を演技の『心』ではなく『私』と言い換えた。

その一言だけで、心は胸の内で打ち震えるほどの感動を覚える。

 

「ほんと、誠くんってすごい。……ねえ、もしお姉ちゃんに振られたら、『私』が彼女になってあげてもいいよ?」

 

「そいつは無理だ。心ちゃんだって、お姉ちゃんの『凄さ』は誰よりも知ってるだろ? その熱量、お姉ちゃんを追い越すためのエネルギーに使うといい。その方が、心ちゃんの未来は最大化されるはずだ」

 

誠は勝利のVサインを見せつけてから、部屋を後にした。

残された心は今回の学びを糧とする。

自分の中に芽生えた姉ではない自分。

その未知な可能性を、愛おしそうに高ぶらせていった。

 

一方、部屋を出て玄関で見送りをする言葉。

明らかに複雑な表情をしていた。

心が思い詰めていたことを姉として知らないはずもない。

そんな彼女のほっぺに誠はさり気なくキスをすると――。

 

「あっ……」

 

言葉の表情が思わず緩んでしまう。

肩肘を張ることなく。

ただあるがままでいいのだと。

誠の凪に揺られるかのように。

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