Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
学園祭という喧騒の残滓を背後に振り払い、誠は言葉を家路へと送り届けた。
夜の帳が下りる桂家の玄関先。
そこで待ち構えていたのは、妹・心による熱烈な勧誘だった。
「誠くん、寄ってって! 見せたいものがあるの!」
「オーケー。お邪魔するよ心ちゃん」
戸惑う言葉の視線をさらりといなし、誠はあえて心のテンションに同期してみせる。
案内された心の部屋。
そこで披露されたのは、彼女が執念で書き溜めてきた『ミミズ戦法』の習作群であった。
そこにはかつての無邪気な甘えはない。
誠という異端の知性に触発され、自律した個体へと脱皮し始めた。
一人の表現者の熱量が、紙面から溢れ出していた。
「どう! これ、すごいでしょ!!」
「……なるほど。なら、俺の最新のミミズメモも見せてあげるよ。ほら」
誠がポケットから取り出したメモ帳。
そこには、さらに鋭利に研ぎ澄まされた独自の速記が躍っていた。
「わあ、すごーい! これ、なんて読むの?」
心が指差した一節。
誠はそれを、確信に満ちた声で解読する。
「『心、誘う、部屋』という予測データだ」
「えーっ! 最初からわかってたの!?」
「俺が心ちゃんの立場なら、これだけの成果を出せば見てもらいたいし、何より自分を高めたいって思うからね」
それは論理的な帰結である。
不意打ちはリソースを無駄に消費する。
だから、あらかじめ『起きるべき事象』として定義しておく。
そうすれば、即座に最適解で返答できるからだ。
誠には、感情の揺らぎを排した『凪』の哲学が宿る。
心はその冷徹なまでの合理性。
それに圧倒されながらも、心にはわかる。
自分への深い理解と敬意が込められていることを。
「……誠くんって、やっぱり変。でも、世界で一番かっこいい『変』だね」
はにかむように笑う。
その様子をドアの隙間から見守る言葉。
胸の奥に切ない痛みを感じていた。
妹が、自分とは違うルートで誠の深淵へと手を伸ばそうとしている。
「でも誠くんって、40点でいいんだよね。心なんて、全教科で70点以上キープしないとダメなんだよ」
「赤点を取らなければ補習がないからね。だが、心ちゃんの場合はずいぶんと高い要求レベルだ」
桂家の期待値をノルマとして分析。
その脆弱性を突くハックを提案する。
「テスト単体65点。その代わり、この自発的な速記の成果を『課外研究』でプレゼンする。総合評価で帳尻を合わせる交渉だ」
「えー、細かいよ誠くん。たった5点だけ下がっても大して変わらないじゃん」
「この細かさこそが、搾取されないための盾になるんだよ。俺みたいな凡人はね、情報の穴を見つけ、裏口から攻め込む。そうしないと、すぐに大人たちの都合で削られてしまうからな」
誠は快活に笑い飛ばす。
その瞳には、一人の戦友に対して一切の妥協がない。
「そっか。真正面からぶつからずに、頭を使うだね。『心ルール』を認めさせる方が、ずっと面白そう」
心はミミズのように躍る筆跡を愛おしそうに見つめた。
誠との対話は教育ではない。
異なる言語を持つ知性同士が火花を散らす、対等な意見交換であった。
「心ちゃん。学校で『将来の夢』、書かされただろ?」
誠の問いに、心は少しだけ口を尖らせた。
机の引き出しから一枚のプリントを取り出す。
すると、そこに模範解答があった。
『将来の夢:お姉ちゃんのような立派な人になりたい』
「……これ、お姉ちゃんに気を遣って書いたの?」
「ううん。お父さんもお母さんも、そう書けば喜ぶから。でも、本当はね……」
ミミズ戦法のノートを、ぎゅっと胸に抱きしめる。
その沈黙の中に、彼女が自分自身の『核』を必死に守ろうとしている。
その意志を誠は読み取った。
「……心ちゃん。もし俺でよければ、ありのままの本音を、ミミズ文字で教えてくれないか?」
ノートの新しいページを開き、一本のペンを心に託す。
口頭を介さない、暗号による対話の再開。
心は迷うことなく、一気呵成にペンを走らせた。
そこには流麗な文字の羅列ではない。
激情が叩きつけられたような、歪な、しかし強固な意志の線が躍っていた。
誠はその暗号を、別の内容で注釈をしていく。
『私は、お姉ちゃんじゃない。お姉ちゃんになりたくない。私はお姉ちゃんとは違う私だから』
「……心の気持ち、誠くんにバレバレだね」
比べられ続けてきた歪な自意識。
心の反抗は、生存本能として極めて正常なことだ。
だからこそ伝えたいことがある。
「心ちゃん。今の俺の学校もそうだけど、悲しいことに『正直』だけでは生きられないんだ」
「……嘘、つくの?」
「嘘を悪いことだとするのは、管理する側の論理だよ。必要な嘘はある。誰も傷つけず、自分を守るための嘘だ」
何でも正直に言えばいいってものではない。
周りの環境がそれを阻害してしまう。
まさに嘘も方便なのだ。
「将来の夢のプリントには、そのまま嘘を書いておけばいい。大人たちを安心させるための『ダミーデータ』としてね。その代わり――」
心のノートを指差す。
これこそが重要で欠かせないことだと。
「このノートには、心ちゃんだけの真実を書き足していけばいい。誰にも解読できない暗号。それこそが、心ちゃんだけの譲れない領土になるから」
「……自分だけの、領土」
「そう。心ちゃん。ちょっと耳貸して」
言われるまま従う心。
すると誠が顔を寄せ、微かな小声で囁く。
「お姉ちゃん、そろそろヤキモチを焼く頃だよ。ミミズ文字が読めない悔しさで、今頃ムスッとしてるかもね」
心は目を丸くした。
その後、同じように誠の耳元で秘密を共有するように囁き返す。
「心が誠くんを独り占めしてるから?」
「正解。だから、もしお姉ちゃんに後で何か言われたら、こう伝えてあげなよ。『誠くんが、私のすごさを尊重してくれたの。お姉ちゃんは静かにドーンと構えておけって言ってたよ』ってさ」
あえて一人称を演技の『心』ではなく『私』と言い換えた。
その一言だけで、心は胸の内で打ち震えるほどの感動を覚える。
「ほんと、誠くんってすごい。……ねえ、もしお姉ちゃんに振られたら、『私』が彼女になってあげてもいいよ?」
「そいつは無理だ。心ちゃんだって、お姉ちゃんの『凄さ』は誰よりも知ってるだろ? その熱量、お姉ちゃんを追い越すためのエネルギーに使うといい。その方が、心ちゃんの未来は最大化されるはずだ」
誠は勝利のVサインを見せつけてから、部屋を後にした。
残された心は今回の学びを糧とする。
自分の中に芽生えた姉ではない自分。
その未知な可能性を、愛おしそうに高ぶらせていった。
一方、部屋を出て玄関で見送りをする言葉。
明らかに複雑な表情をしていた。
心が思い詰めていたことを姉として知らないはずもない。
そんな彼女のほっぺに誠はさり気なくキスをすると――。
「あっ……」
言葉の表情が思わず緩んでしまう。
肩肘を張ることなく。
ただあるがままでいいのだと。
誠の凪に揺られるかのように。