Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
ラッシュの喧騒に巻き込まれない。
そのための戦略的な早朝通学。
それはすでに誠の生活習慣として根付いている。
雨の朝、桂家のガレージという中間領域。
そこで言葉から二食分の糧を受け取り、そこから榊野学園へ。
屋上扉前のレジャーシートは、外界のノイズを遮断した彼らの移動式要塞だ。
食後の静寂の中、言葉がその凪を優しく揺らした。
「誠くん、今度の休日なのですが」
「はい?」
「家のヨットがメンテナンスを終えて、港に戻ってきたばかりなんです。もし、誠くんのご都合さえよろしければ……」
「ナイスボート」
誠の口から、思考の検閲をすり抜けてそのフレーズが漏れた。
「え?」
言葉が不思議そうに首を傾げる。
誠は即座に脳内のキャッシュをクリアし、凪の表情を再構築した。
「いや、独り言。……学園の窓から見える景色には、少し飽きていたところだったから。遮るもののない水平線と、一定のリズムを刻む波の音。ヨットの上なら、地上の情報ノイズに干渉されず、頭の中をリフレッシュできそうだね」
「はい。そう言っていただけると、嬉しいです」
言葉の柔らかな微笑みの裏。
誠の脳裏に、刹那と共にデリートしたはずの不衛生な残像。
ほんの一瞬だけ明滅したのだ。
(――物理的な破壊による、システムの強制終了か)
あの時、刹那が忌々しそうに指した『ナイスボート』の光景。
欲望のままに浮気を繰り返し、ヒロインの一人に刺殺された主人公の知の海。
さらには生首となる終焉。
刹那が生存本能としての欠陥品と切り捨てた。
あり得たかもしれない未来の成れの果て。
もし誠があのゴミと同じ道を歩んでいたら。
今、隣で微笑む言葉の手に握られているのは。
ヨットへの招待状ではなく、自分を解体する刃だったかもしれない。
羊の皮を脱ぎ捨てた狼に、容赦のない居合。
実力を感じ取り、対話で回避できている今の現実。
誠は静かな安堵を覚えていた。
「誠くん?」
「ああ、何でもない。……その日は、何も考えずに海の上にいたいな。言葉と二人で」
「はい。私も、同じ気持ちです」
誠にとって、その航海は単なる行楽ではない。
偽物が流した返り血を、紺碧の海水で完全に洗い流す。
自らの知性を『クリーンインストール』するための儀式だ。
断じて人生のアンインストールではない。
翌週の土曜日。
誠と言葉は、真鶴のプライベートマリーナに立っていた。
そこに係留されていたのは、白磁のような輝きを放つ。
全長40フィートのセーリングクルーザー。
「行こうか、言葉。外部のノイズをクリーニングするために」
「はい。出港の手続きは済ませてあります」
二人はタラップを渡り、甲板へと足を踏み入れる。
ディーゼルエンジンの重低音が心臓の鼓動と同期。
ヨットは滑るように港を離れていった。
港の防波堤を越えた瞬間。
垂直な構造物が消えていく。
視界を占めるのは、水平線という巨大な一行のコード。
誠はデッキチェアに深く腰掛ける。
海風に吹かれながら、脳内の不要なログを次々とパージしていく。
「やっと二人っきりになれましたね、誠くん」
「確かに。あまり二人っきりになれる時って少ないよな」
「はい。学園だと周りの目がありますので」
「通学路の人目あるし。部屋だとこうした凄い景色を堪能できないから」
しばらくして言葉がキャビンから運んできた。
それは透明なクリスタルグラス。
揺れる琥珀色の液体は、午後の陽光を反射してデッキに複雑な幾何学模様を描き出す。
脳の活性化を促すブレンドなハーブティーだ。
「ありがとう言葉。ここには、本当に何もない。誰の視線も、誰の期待も」
誠はグラスを口にし、その清涼感で思考の輪郭を整える。
視界の端で、言葉がセーラーカラーのブラウスを風になびかせ、手すりに身を預けている。
その姿は、図書室で見る彼女よりもどこか野生の、しかし気高い狼の休息のように見えた。
「誠くん。私は、この海が好きです。ここでは、自分が『桂言葉』という記号から解放され、一人の生命として存在できている気がするから」
「俺も同じだ。学校の成績や、家系図の呪い、他人が勝手に貼っていくラベル。そんな押し付けられたデータが、この潮風に吹かれると、ただのノイズとして散っていくのが実感できる」
誠は言葉の隣で、同じ水平線を見つめた。
二人の間に、説明を必要とするものは何もない。
共有されているのは、互いの存在がそこにあるだけ。
「誠くん、もし……。もし、このまま水平線の向こう側まで行ってしまったら、私たちはどうなるのでしょうか」
言葉の問いは、逃避の誘いではない。
それは、既存の社会システムが及ばない場所。
二人の知性がどこまで純化されるか。
そんな知的な実験への問いかけだ。
「もしそうなれば、俺たちは新しい言語を作る必要があるだろうな。今の社会で使われている、手垢の付いた定義ではない、俺と言葉だけの新しいプロトコルだ」
「二人だけの……言語」
「ああ。誰にも解読できない、心ちゃんの暗号よりも深い場所にある、真実の響きだ」
言葉は、誠の腕にそっと自分の腕を絡めた。
厚手のコットンの感触越しに伝わる、誠の体温。
それは去年の冬。
絶望の淵で感じた冷たさとは対極にある、静かで力強い生存の証明。
(――ああ、これが私の求めていた『凪』)
言葉はうっとりと目を閉じ、誠の肩に頭を預ける。
この母なる海が全て呑み込み、塩の結晶へと変えてくれた。
今、ここにいるのは、自分の意志で自分を選び取った、真実の誠。
「誠くん。私を、離さないでくださいね」
「もとより、そんな予定はないよ」
誠の不器用な、しかし誠実極まる論理。
言葉はそれで十分だった。
二人の乗ったヨットは、夕刻の黄金色に染まる海原を。
新しい世界への設計図を描くように、静かに、しかし力強く進んでいった。