Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方―   作:完結の陽炎

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第17話:洋上のアーキテクチャ

ラッシュの喧騒に巻き込まれない。

そのための戦略的な早朝通学。

それはすでに誠の生活習慣として根付いている。

 

雨の朝、桂家のガレージという中間領域。

そこで言葉から二食分の糧を受け取り、そこから榊野学園へ。

屋上扉前のレジャーシートは、外界のノイズを遮断した彼らの移動式要塞だ。

 

食後の静寂の中、言葉がその凪を優しく揺らした。

 

「誠くん、今度の休日なのですが」

 

「はい?」

 

「家のヨットがメンテナンスを終えて、港に戻ってきたばかりなんです。もし、誠くんのご都合さえよろしければ……」

 

「ナイスボート」

 

誠の口から、思考の検閲をすり抜けてそのフレーズが漏れた。

 

「え?」

 

言葉が不思議そうに首を傾げる。

誠は即座に脳内のキャッシュをクリアし、凪の表情を再構築した。

 

「いや、独り言。……学園の窓から見える景色には、少し飽きていたところだったから。遮るもののない水平線と、一定のリズムを刻む波の音。ヨットの上なら、地上の情報ノイズに干渉されず、頭の中をリフレッシュできそうだね」

 

「はい。そう言っていただけると、嬉しいです」

 

言葉の柔らかな微笑みの裏。

誠の脳裏に、刹那と共にデリートしたはずの不衛生な残像。

ほんの一瞬だけ明滅したのだ。

 

(――物理的な破壊による、システムの強制終了か)

 

あの時、刹那が忌々しそうに指した『ナイスボート』の光景。

欲望のままに浮気を繰り返し、ヒロインの一人に刺殺された主人公の知の海。

さらには生首となる終焉。

刹那が生存本能としての欠陥品と切り捨てた。

あり得たかもしれない未来の成れの果て。

 

もし誠があのゴミと同じ道を歩んでいたら。

今、隣で微笑む言葉の手に握られているのは。

ヨットへの招待状ではなく、自分を解体する刃だったかもしれない。

羊の皮を脱ぎ捨てた狼に、容赦のない居合。

実力を感じ取り、対話で回避できている今の現実。

誠は静かな安堵を覚えていた。

 

「誠くん?」

 

「ああ、何でもない。……その日は、何も考えずに海の上にいたいな。言葉と二人で」

 

「はい。私も、同じ気持ちです」

 

誠にとって、その航海は単なる行楽ではない。

偽物が流した返り血を、紺碧の海水で完全に洗い流す。

自らの知性を『クリーンインストール』するための儀式だ。

断じて人生のアンインストールではない。

 

 

翌週の土曜日。

誠と言葉は、真鶴のプライベートマリーナに立っていた。

そこに係留されていたのは、白磁のような輝きを放つ。

全長40フィートのセーリングクルーザー。

 

「行こうか、言葉。外部のノイズをクリーニングするために」

 

「はい。出港の手続きは済ませてあります」

 

二人はタラップを渡り、甲板へと足を踏み入れる。

ディーゼルエンジンの重低音が心臓の鼓動と同期。

ヨットは滑るように港を離れていった。

 

港の防波堤を越えた瞬間。

垂直な構造物が消えていく。

視界を占めるのは、水平線という巨大な一行のコード。

誠はデッキチェアに深く腰掛ける。

海風に吹かれながら、脳内の不要なログを次々とパージしていく。

 

「やっと二人っきりになれましたね、誠くん」

 

「確かに。あまり二人っきりになれる時って少ないよな」

 

「はい。学園だと周りの目がありますので」

 

「通学路の人目あるし。部屋だとこうした凄い景色を堪能できないから」

 

しばらくして言葉がキャビンから運んできた。

それは透明なクリスタルグラス。

揺れる琥珀色の液体は、午後の陽光を反射してデッキに複雑な幾何学模様を描き出す。

脳の活性化を促すブレンドなハーブティーだ。

 

「ありがとう言葉。ここには、本当に何もない。誰の視線も、誰の期待も」

 

誠はグラスを口にし、その清涼感で思考の輪郭を整える。

視界の端で、言葉がセーラーカラーのブラウスを風になびかせ、手すりに身を預けている。

その姿は、図書室で見る彼女よりもどこか野生の、しかし気高い狼の休息のように見えた。

 

「誠くん。私は、この海が好きです。ここでは、自分が『桂言葉』という記号から解放され、一人の生命として存在できている気がするから」

 

「俺も同じだ。学校の成績や、家系図の呪い、他人が勝手に貼っていくラベル。そんな押し付けられたデータが、この潮風に吹かれると、ただのノイズとして散っていくのが実感できる」

 

誠は言葉の隣で、同じ水平線を見つめた。

二人の間に、説明を必要とするものは何もない。

共有されているのは、互いの存在がそこにあるだけ。

 

「誠くん、もし……。もし、このまま水平線の向こう側まで行ってしまったら、私たちはどうなるのでしょうか」

 

言葉の問いは、逃避の誘いではない。

それは、既存の社会システムが及ばない場所。

二人の知性がどこまで純化されるか。

そんな知的な実験への問いかけだ。

 

「もしそうなれば、俺たちは新しい言語を作る必要があるだろうな。今の社会で使われている、手垢の付いた定義ではない、俺と言葉だけの新しいプロトコルだ」

 

「二人だけの……言語」

 

「ああ。誰にも解読できない、心ちゃんの暗号よりも深い場所にある、真実の響きだ」

 

言葉は、誠の腕にそっと自分の腕を絡めた。

厚手のコットンの感触越しに伝わる、誠の体温。

それは去年の冬。

絶望の淵で感じた冷たさとは対極にある、静かで力強い生存の証明。

 

(――ああ、これが私の求めていた『凪』)

 

言葉はうっとりと目を閉じ、誠の肩に頭を預ける。

この母なる海が全て呑み込み、塩の結晶へと変えてくれた。

今、ここにいるのは、自分の意志で自分を選び取った、真実の誠。

 

「誠くん。私を、離さないでくださいね」

 

「もとより、そんな予定はないよ」

 

誠の不器用な、しかし誠実極まる論理。

言葉はそれで十分だった。

二人の乗ったヨットは、夕刻の黄金色に染まる海原を。

新しい世界への設計図を描くように、静かに、しかし力強く進んでいった。

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