Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方― 作:完結の陽炎
そこには、理屈を超えた本能の悪臭が漂っていた。
沢越止。
誠の父であり、無数の生を弄び、喰らい尽くしてきた性欲支配者の根源。
誠の妹である止(いたる)がその元で暮らしている。
それは抗いようのない血の契約のようなものだった。
いたるは、父を幼いながら嫌っている。
だが、最近のいたるは自主的に絵描きを始めた。
それは『画家」という自らの色彩を見出したから。
兄である誠の研ぎ澄まされた知性。
それに感化されたからに他ならない。
泥沼のような家庭環境にあろうとも、誠の『凪』はいたるにとって唯一の座標となった。
ある日、止を送り届けた誠。
言葉と共にその『怪物』と相対していった。
「父さん、狙うなら他を当たったほうがいいよ。その凄まじい性欲の本能があれば、『あ、こいつはヤバい』と一目で見抜けるはずだ」
誠は決して嘘を言っていない。
言葉の底知れない実力は本物だ。
ただ静かに。
そして冷徹に。
事実として突き付けた。
「手当たり次第に獲物を喰らうには、相応の嗅覚や触覚が優れていなければならない。そうでなければ、今の父さんの地位――医院長という立場を維持し続けることなんて不可能だ。性欲を満たすために立場を利用し、結果を出し続けてきた父さんなら、この人がどれだけ『地雷』な女か、わかるはずだよ」
「誠、随分なことを言うな」
止は、低く、愉悦を孕んだ声で応じた。
だが、誠の瞳に揺らぎは一切ない。
「褒めてるんだよ。だから忠告している。言葉に手を出すのは、父さんのキャリアにとっても生存本能にとっても『致命的なエラー』だ。これは俺の嫉妬のような低次元な感情じゃない。父さんからすれば、殺しの天使ドクツルタケという毒キノコに見えるんじゃないか?」
「……確かに。お前、マジでヤバい女を引いたな、まったく愚かな息子だ」
止の視線が言葉を射抜く。
だが、言葉は一歩も引かない。
ただ静謐な淵のような瞳でその怪物を見返していた。
「ちょっと手相見ただけで『契約完了』だった。束縛を何より嫌い、常に新鮮な獲物を求める父さんにとって、この濃厚すぎる一対一の結合は、死よりも忌むべき停滞に見えるはずだ」
「やれやれ。他にも女はいくらでもいるというのに。一人だけで満足できると本当に思ってるのか?」
「他の息子たちにも同じことを言っているのか? ま、俺は父さんみたいな『性欲の権化』じゃない。それは父さんの領分として譲るよ。過去をどうこう言うつもりもない。父さんは父さんの、俺は俺の、生き方をするだけだ。そこに善悪の評価を下すほど、俺は暇じゃないんだよ」
息子の意見は聞き流すのが、この男の常。
しかし、父の眼に映る言葉の存在だけは、あまりに異質だった。
(おいおい、なんだよこいつは……寒気がするぞ。どこの娘だ。俺の血を受け継ぐタイプとは、根底から違いすぎる)
沢越止は、自らの本能が発する強烈なアラートを無視できなかった。
目の前の少女・桂言葉は、喰らえる獲物などではない。
一度食らいつけば、その毒――あるいは純粋すぎる知の執着。
まさに自分そのものを内側から崩壊させかねない。
そんな『猛毒の聖域』が漂っていた。
(ヤバいな。こいつはヤバさが際立ちすぎる。まったくどうしようもねえぜ。こいつは関わるとろくなことにならねえ)
加えて、彼女の背後にある桂家。
その巨大な社会的資本。
軽はずみな接触は、自身の築き上げた地位を塵芥に変えるリスクがある。
「……」
言葉はあえて沈黙を選んだ。
その方が相手にとって不気味であり、威圧になることを知っていたからだ。
かつての彼女なら、その本能的な悪意に怯えて立ち竦んでいただろう。
だが今の彼女は、一人の『観測者』として怪物の深淵を冷徹に見つめ返していた。
「誠、もう二度と来るな。俺に火の粉かけるんじゃねえ」
「火の粉で済むほど、言葉は軽くないよ。あまりに重すぎて底なし沼でずぶずぶさ」
「だから巻き込むな。俺には関係ねえ」
父が力強く扉をしめて拒絶。
それを合意と受け取り、言葉と帰り道を歩く。
怪物の棲家を後にする二人の背中。
血脈という名の呪縛さえも不合理な古いデータとして処理。
そのまま上書きしていくような、確かな強さに満ちていた。
しばらくして、あの本能の悪臭が届かない距離まで離れた。
そこで誠が静かに口を開いた。
「言葉、ごめん。……化け物みたいな言い方をしてしまって」
自分の大切な人を、あえて『猛毒』や『地雷』と呼び、父の性欲を牽制したことへの、誠なりの痛み。
しかし、言葉は穏やかな微笑みを浮かべて首を振った。
「いいえ。誠くんが私のために、あのように振る舞って守ってくれたこと、よくわかっていますから。だから私も、誠くんが意図した通りの『私』を演じました。不気味に見えましたか?」
「いや、最高に頼もしかったよ」
誠は安堵したように、夜の空気を深く吸い込んだ。
「父さんもバカじゃない。言葉の持つ本当の凄みを、ヤバい存在として手を出させないようにした。自分には支配できない存在がいると分かれば、あの人はもう二度とこちらに関わってこない。そんな暇があるなら、もっと簡単に喰える『他』を当たるのが父さんだからね」
誠の瞳には、かつてあったような父親への恐怖や嫌悪は、もう残っていなかった。
そこにあるのは、ただの「生態系の分析結果」のみ。
「帰りましょう、誠くん。私たちの『凪』の場所へ」
言葉の手が、誠の腕にそっと添えられる。
呪われた血の源流を非効率なノイズとして切り捨てた二人。
冷ややかな夜の街を、自分たちの足取りで進んでいった。