Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方―   作:完結の陽炎

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第8話:拒絶のリスト、凪の設計図

(進学なんて、無理に決まっている)

 

誠の頭の中に、大学や専門学校という選択肢は欠片も残っていなかった。

母が看護師。

どれほど自分の時間を、睡眠を、そして命を削ってきたのか。

それで学費や生活費を稼ぎ出しているのか。

 

事実を知った今。

削り取られた魂の結晶を、数年間のモラトリアムで費やすことなどできない。

誠の矜持が許さなかった。

 

経済的に困窮しているわけではない。

だが、その安定は母の自己犠牲で成り立っている。

そんな細い糸の上で綱渡りをするつもりはない。

 

(結局、動くしかないんだよな)

 

自分の『凪』を一時的に売り渡し、他者の歯車になること。

母がそうしているように、誰かのために自分の時間を切り刻むこと。

それをしなければ、何者でもない自分を維持するための居場所が作れない。

 

(きっと母さんは『家族のため』、なんて言うんだろうな)

 

かつての誠なら、薄っぺらな同情で済ませていた。

だが今はわかる

その背中は逃げ場のない『囚人の肖像』そのもの。

正社員になれば別の枠組みに嵌められ、組織の都合で搾取される。

ならば、非正規の労働で最低限の糧を得るべきか。

残りの時間をすべて自分の静寂に捧げるために。

 

そこには夢も希望もない。

あるのは、いかに自分を安売りせず、飢えずに生き抜く。

その生存のための冷徹な計算式だけだ。

 

(働くなら人間関係は避けて通れない)

 

泰介たちと波長を合わせることはできる。

だが、それはもはや意味をなさないノイズだ。

 

(どうせ泰介は、『進路なんてまだ先だ』と笑っているんだろうな)

 

今この瞬間を消費する。

その価値観を否定はしない。

かつての自分もそこにいたのだから。

だが、もうそれだけで人生を塗り潰すことはできない。

誠の生存本能が拒絶していた。

 

携帯を取り出し、アドレス帳をスクロールする。

指が止まったのは、清浦刹那の名前だった。

 

(学園祭の事務連絡用……あえて試してみるか)

 

社会という荒野を生き抜くためだ。

背に腹は代えられない。

他に頼れるほど硬質な思考を持つ相手が思い当たらなかった。

誠は余計な修飾語をすべて削ぎ落とし、一文だけを打ち込む。

 

『進路について話を聞いてみたい』

 

送信ボタンを押す。

それは誠なりの、虚飾を排した誠実さだった。

 

 

夜、清浦家のマンション。

枕元の携帯が震え、パジャマ姿の刹那がそれを手に取る。

画面に浮かぶ伊藤誠の三文字。

表情筋こそ動かなかったが、その瞳は微かに、しかし確実に揺れた。

 

(伊藤が、私に……?)

 

内容を確認し、彼女は深く呼気を吐き出す。

進路。

それは刹那にとっても焦眉の急だった。

主星である世界を失った自分という衛星。

次にどの軌道を描くべきか。

彼女もまた自らの人生という数式を解き直している最中だったのだ。

 

刹那の指が、迷いなく返信を刻む。

 

『いいよ。場所と時間を指定して』

 

簡潔な一文。

だがそこには、かつての委員長としての義務感ではない。

一人の人間として誠と対峙しようとする静かな覚悟が宿っていた。

 

 

放課後、西日の差し込む教室。

喧騒を失った空間は、ただの箱へと還元される。

誠の隣に、刹那が音もなく腰を下ろした。

 

「まず先に俺から……就職一択。家庭の事情もあって、進学はない」

 

退路を断った者の、乾いた響き。

刹那は瞬きもせず、まっすぐに誠を見つめた。

 

「……私も、進学はしないと思う。お母さんの手伝い――と、以前ならそう言ったかもしれない」

 

母の背中を追い、誰かの補助官であることを疑わなかった過去の自分。

彼女は今、その残像を自らの発言で切り捨てた。

 

「今は違うと?」

 

「うん。……自分探し中」

 

「そうか。清浦も……自分を見つめ直し中か」

 

誠の口から漏れたのは、同情でも皮肉でもない、深い共鳴だった。

それはどんな就職サイトの美辞麗句よりも、今の二人には切実に響く。

誠は図書館で、自分を削らせないための『防壁』を築こうとしている。

刹那は別の図書館で、誰かのためだった『公式』を解体しようとしている。

 

「伊藤は、なにかやりたいことある?」

 

刹那の問いは、世間が若者に強いるような残酷な夢の強要ではなかった。

ただ、彼の内側に小さな灯火があるのかを確認したい、純粋な問いだった。

 

「あったらとっくにやってるよ」

 

「ごもっとも」

 

刹那は小さく頷いた。

自分も同じだと。

これまでは世界の願望を自分の望みにすり替えて生きてきた。

内側を覗き込んでも、そこにあるのは誰かが描いた図面の残骸だけ。

 

「やりたくないことなら、山ほどあるけどな」

 

誠がポツリと付け加えた。

自分を削り取ろうとするもの。

自由を奪う既製品のパッケージ。

他者の都合で消費される労働。

図書館で書き連ねてきた『拒絶のリスト』は、黒々と、そして分厚くなっている。

 

「やりたくないことを、やらないための就職……か」

 

刹那が誠の思考をなぞるように呟く。

プラスを探すのではなく、搾取というマイナスを徹底的に排除した先に残る。

平坦で静かな土地。

そこを自分として守り抜く。

 

「……伊藤らしい」

 

刹那の唇に、氷が溶けるような微かな笑みが浮かんだ。

自分を曲げずに亡命を続ける男への、ささやかな敬意。

 

「清浦はどうなんだ。何か、見つかりそうか?」

 

「まだ。……でも、一方的に世話を焼いたり、都合よく使われるのには、もう疲れた。今は、この『空っぽの自分』に、少しずつ慣れていくところ」

 

誠は窓の外へ視線を逃がした。

向き合いすぎないことで、精神の均衡を保つ。

 

「少なくとも俺は、あの学園祭みたいに振り回されるのは二度と御免だ。あれで痛いほど思い知った」

 

「……私も。あんなに徹底して『誰かのため』に動いて、残ったのは、ひどい疲れと……自分が誰かわからなくなった感覚だけ」

 

それは絶望ではなかった。

光を失ったからこそ、彼女は初めて、他者の視線を気にせずに闇の中で息をすることができた。

 

「……伊藤、ごめん」

 

「なんで謝るんだよ?」

 

「学園祭で、委員代理を押し付けようとしたこと……」

 

「気にしてない……というより、どうでもいいことだよ」

 

終わったことで蒸し返しても無駄なこと。

ここで誠は自嘲気味に笑う。

 

「今思えば、ギャグかと言うほど色々なことあったな。清浦が動くなとメールで指示出したのに、俺が喉乾いて水飲みに行ったり、先生に引っ張られて手伝い強制があったり」

 

「休み時間、声かけようとしたのに、漏れそうだって伊藤が――」

 

「おいおい勘弁してくれよ。今そこで止めるなら笑い話で流すぞ、トイレだけに」

 

「はいはい。でも、それでわかった。伊藤はもう、あの頃の伊藤じゃない」

 

刹那の瞳には確信があった。

自らの失態すらもジョークとして制御できる。

その独立した個の輝きを目の当たりにしたから。

 

「そういう清浦こそ、頑張り過ぎたあの頃じゃないだろ。ならお互い様だ」

 

「……うん。お互い様、だね」

 

刹那は深く頷いた。

過去の失態も後悔も、今はもう遠い思い出の断片。

二人の間に流れる空気は、以前よりも軽く、そして冷ややかに澄み渡った。

 

夕闇が教室の隅々を侵食していく中。

二人は並んで座ったまま。

しばらくの間、言葉を介さずに、その静かな『凪』を分かち合った。

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