Isolated Days―搾取された先にある誠の生き方―   作:完結の陽炎

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第9話:溶けない氷の兄妹

誠の手元には、幼い妹・止(いたる)の柔らかな温もりが残っている。

母が夜勤で不在の間、家庭を切り盛りし、妹の世話を焼く。

それは誠にとって嫌な役回りではなかった。

むしろ、欺瞞と理不尽に満ちた外の世界に比べれば、

無邪気に自分を慕う妹の存在は、

砂漠に落ちた一滴の水のように、彼の乾いた心を潤していた。

 

(俺では、母さんの代わりなんて務まらないけどな)

 

父の元へ帰ることを激しく拒む止。

そのたび、「お兄ちゃんの子どもになって、ずっと一緒にいたいの」と泣きじゃくる。

その小さな震えを感じるたび、誠の胸は締め付けられた。

父親という記号を拒絶し、血の繋がった兄という細い糸に縋るしかない儚い魂。

その切実さを思えば、突き放すことなど到底できはしない。

 

だが、それと同時に、誠の脳裏には冷徹な構造の分析が浮かび上がる。

 

(これは本来、俺が独りで背負う重荷ではないはずだ)

 

止の人生という巨大な責任を、兄である自分が丸ごと引き受けることは不可能だ。

もし、止の寂しさという空洞をすべて埋めようとすれば、

それは誠自身の時間、自由、そしてようやく手に入れた『凪』のすべてを生贄にしなければならない。

かつて刹那が西園寺世界のために自分を摩耗させたのと、まったく同じ悲劇の構図だ。

 

(止は家族として大切だ。……だが、それは自分を大切にできてこそ、初めて成立することじゃないか)

 

自分が壊れれば、止を抱き留める腕そのものが折れてしまう。

誠は、ノートの余白に自戒を込めて書き記した。

 

『大切にすることと、依存させることは違う』

 

止を愛しているからこそ、彼女の足から歩くための筋肉を奪ってはならない。

そして、そのために自分の人生を供物にしてはならない。

それは冷酷さではなく、二人が共倒れにならないための、誠実な生存戦略だ。

 

眠りについた止の頭を撫でながら、誠は改めて自分の足元を見つめる。

守りたいものがある。

だからこそ、自分という個をより強固に、より冷徹に確立しなければならない。

 

家族という甘い拘束から、精神だけは静かに亡命する。

止という小さな命を守り抜くために。

誠は最も困難で、最も尊い境界線を引くことを選んだ。

 

 

ある休日の昼下がり。

止に読み聞かせをねだられた誠。

そこで即興の物語を語り始めた。

 

「むかしむかし、あるところに、とてもそそっかしいお兄ちゃんがいました」

 

学園祭での失敗を自虐的な寓話に作り替える。

みんなの期待に応えようと、必死に働いて、頑張って、

その熱で最後には、アイスクリームのように溶けて消えてしまう男の話だ。

 

「いたる、アイスすき。でも、おにいちゃ、とけちゃだめぇ」

 

「そうだな。だから止。このお話のお兄ちゃんみたいにならないよう、カチカチの氷になって、自分を守ろうな」

 

「まもる?」

 

ああ。嫌なことをハッキリ『嫌だ』と言えるのが、本当の勇者なんだよ」

 

我慢の果てに自分が崩壊した経験。

それを止には決して繰り返させない。

同時になんでも思い通りになるほど、この世界は甘くないことも。

 

「止。将来、大きくなったら何がしたい? 何になりたいかじゃなくて、止が何をしたいかを教えてくれないか」

 

世間が押し付ける職業(ラベル)の問いではない。

誠は、止の魂が根源的に求める衝動を問いかけた。

 

「あのねあのね、止、たくさんおえかきするの。おすなであそぶの。ほん、よんでほしいの」

 

溢れ出したのは、生命力に満ちた創造と享受の言葉だった。

お絵描き、砂遊び、読書。

それらは誰に見せるためのものでも、誰かに評価されるためのものでもない。

 

誠はノートの端に、止の言葉を濾過したキーワードを並べる。

 

『表現、造形、探究』

 

他者の顔色を伺い、愛想笑いを浮かべて消費される労働とは無縁の領域。

自分の手で形を作り、あるいは言葉を誰かに届ける。

そうした『創作的』な営みの可能性がそこにはあった。

 

(創作か。俺にやれることがあるとすれば……料理か?)

 

止のために台所に立つ時間。

誠の数少ない取り柄がそこにある。

自分の中に眠っていた新たな選択肢に、彼は自力で辿り着いた。

 

 

止が眠った後、誠はネットで検索をかける。

打ち込んだ言葉は『調理補助』。

あえて調理師ではなく補助を選ぶ。

責任の重圧で自分が壊れないラインを、冷徹に見据えた。

 

(沈まずに、浮いて、流れる。……それでいい)

 

かつての自分を苦しめた『流されやすさ』という特性。

誰かの欲望に身を任せ、破滅を招く弱さの象徴だった。

それを、誠は今、再定義する。

進路という荒野において、一つの場所に固執しない。

搾取の網をすり抜けるための『流動性』へと昇華させるのだ。

 

そして、最も忌むべき『浮気性』という血。

一つの対象に誠実になれず、次から次へと目移りする不実な父の遺伝子。

誠はそれを、知的な『多動性』として捉え直した。

 

(人に対して浮気をするのは、ただの浪費。だけど、知識や技術に対して浮気をし続けるのは、多彩な好奇心による防衛だ)

 

図書館で多種多様な本につまみ読みの浮気をする。

多くの技術を浅く広く獲得するために。

そうして、いつでも別の領域へ身を翻すことができる。

システムに自分を最適化させない。

自由を担保するための出口を常に確保する。

 

(父さんみたいなことは絶対にしない。……俺は俺だ)

 

そこにはもはや、湿っぽい自己嫌悪はなかった。

誠はノートに、これまでになく力強い筆致で書き加えた。

 

『執着しない。常に複数の出口を持つ。好奇心を分散させる。一点集中の搾取を回避する』

 

一つの職務を全うすること。

石の上にも三年耐えること。

そうした美徳を盾に搾取を続ける社会への、静かなる逆襲。

軽やかに、しかし確かな意志を持って、次の場所へと流れ続けるため。

血の重力を逆手に取り、

誠は今、知的な浮力を用いて、新たな高みへと踏み出した。

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