同居人+1 作:CBR
11月はちょうど雨季真っ盛りの時期だった。
雨は短時間で一気に降り、その後は青空が戻ることが多い。
今日は午後にスコールが降る予報で、あいにくの曇り空が続いていた。
「私はしばらく出かけてくるよ。その間に教会の掃除を頼む」
「わかった、神父様」
「………」
「…ああいや、オトウさん!」
「フフッ、無理に呼ばなくていいよ」
神父は黒のフェドラハットを目深にかぶり、鉛色の空の下を歩いていった。
その姿を見送った私は扉を開けて教会の中に入る。ギィと古い建物が奏でる重厚な音が響いた。
静寂で、どこか厳かな空気を肺に取り込む。
私が戻ったことを神父は『彼』のように喜んでいたが、記憶が無くなっていると知ると一転して暗い表情を浮かべた。
気楽に考えていた私も、さすがに自分を本当の我が子のように育ててくれた義父の記憶がないのは居た堪れなさがある。胸の内によぎるこれは罪悪感に似ていた。
(まあ、悩んでも仕方のないことか)
無くなってしまったというなら、また新しく父親と息子の関係を築いていけばいいだけだ。
今は任された掃除の任務をこなすとしよう。
教会が空いている時間は村の人々が訪れ祈祷をする。今日のように午後の天気が悪いと午前中に人々は訪れる。すると、雨季のぬかるんだ土で床が汚れるから掃除する必要が出てくる。
玄関マットは一応敷いてあるんだが、それでも100パーセント綺麗に泥を落とせるわけじゃない。
『今日の掃除当番は大変だね、ネモ』
「そーだな…」
泥は乾いちまうと床に張りついて、でかいモップで落としにくくなる。小さな箒でちまちま掃除するのはごめんだ。まめな掃除が大切だった。
掃除しているうちに雨が降り出し、礼拝堂にザァァと雨音が反響した。床はあらかた拭き終えたので、次は長椅子である。
(おっと、礼拝客か)
全身濡れ鼠な女性が中に入り、「もうサイアクよぉ…」と小言を漏らしている。
ここらでは見かけない顔だが観光客か? 近場にコスタ・ズメラルダがあるからその足で観光客が訪れることはたまにあるが…。
何にせよ、濡れたレディをそのまま放っておくのは騎士道精神に反する。それに風邪を引いてしまうかもしれないしな。
タオルを取ってくるとレディに渡し、それで拭くように言った。
「ありがとう、坊や。…あなたはこの教会でお手伝いをしているの?」
「色々と理由があり、神父の元で住んでいます」
「そう…」
うねるような黒い長髪が特徴的で、シワはないが、肌にティーンようなハリはない。
何か……何だろうか? 彼も感じているようだが、不思議な感覚がする。
「……私の顔をじっと見つめてどうしたの?」
「…? いや、不躾でしたね。レディに対して」
「私がレディ?」
直後、私の言葉がツボったらしく、海藻の女は腹を抱えて笑った。下品な笑い方のそれは高い天井によく響く。パンツ見えちゃいますよ。
「私ね、サルディニア出身なんだけど、久しぶりに戻ってきたのよ」
「そうですか…」
「まあちょっとした旅行みたいなものよ。プチ、プチ旅行」
女は笑って私にタオルを返す。そのついでに髪の分け目と髪色が変だと指摘された。
『僕らの髪は変じゃないよ! 生まれ持った天性のドリブルの才能が髪に現れてるだけさ!』
彼が音にしたら「プンスコ」か、「ぷりぷり」と怒っている。腕を組んで頬まで膨らませて。
「……レディの美しい髪もアレのようですね。ええと、何でしたっけ」
「何よ急に?」
「ほら、アレですよ。海で見かける…そう、アレだ!」
わざとらしく指をパチンと鳴らし、ウインク付きで笑顔を作る。
人のアイデンティティーを笑うのは失礼だと、この女性は親から教わらなかったのかな。
「海藻のようだ!」
レディはポカンとした後、顔を真っ赤にして唇をわなわなと震わせた。
「何よッ! 失礼なガキね!!」
「怒るってことは、あなたにとってその髪はコンプレックスってことだ。ボクも自分のこの髪はコンプレックスなんですよ」
私ではなく、彼がコンプレックスを抱いているがそこは誤差である。『彼』も
「……あんたも自分の髪がコンプレックスなの」
海藻女は私の生え際をじっと見つめ、それから深いため息を吐く。そして「失礼なこと言って悪かったわね」と謝った。
「あんた……いえ、あなた、雨が止むまでここにいて大丈夫かしら?」
「構いませんよ。神父様は村人の終油の秘跡*1で不在ですが…」
「…いない方が私としては都合が良かったわ」
神父の職は『死』を間近に感じる機会が多い。私がもし神父になったら目の前にある『死』を前にして、今際の信徒に安らぎを与えることなどできないだろう。
臭い物に蓋をするように、あるいはホラー映画で幽霊が出てきた瞬間に目をつむるように。
『
「──止んできたみたいね」
いつの間にか雨音が止まっていたらしい。ギィと扉の重たい音で現実に引き返された。
薄暗い室内に雨の匂いと白んだ光が入り込んでくる。
「止めてくれてありがとうね、坊や。あなた将来、きっといい神父になるわよ」
「私は神父になる気はないですよ」
「そうなの?」
「僕は将来『ファンタジスタ』のアントニョーニみたいなサッカー選手になるんだ!!」
「へ……へえ」
夢を熱く語る彼がつい出てきてしまったことで、レディは困惑の表情を浮かべた。
「ねえ、その………またいつかここに来てもいいかしら?」
「もちろんです。月曜以外なら基本的に毎日開いていますよ」
「じゃあ…またいつか会いに来るわね」
「それは──」
誰に、と投げかけた言葉は扉が閉まったことで届かなかった。
あの女性は神父に会いに来たのではないのは確かだ。ならその対象は私たち…ということになる。
(ネモが生意気なことを言ったから逆に気に入ったのかも!)
「おいおい、私はお前のために言い返してやったんだぞ…」
それにしても……あの胸のざわつきはいったい何だったのだろうか?
彼と互いに顔を見合わせ、首を傾げ合った。
『何だ? この感覚は………』
◯
あの女性が再び教会にやってきたのは3か月後のことだった。
ちょうど月曜で、学校から帰った『彼』がサッカーボール片手に外へ即Uターンしたタイミングで声をかけてきた。
「あっ、おばさん久しぶり!」
「久し………おっ、おば…!?」
彼の失言に向こうは口角を引くつかせる。私が「レディ」か「お姉さん」呼びを勧めると、彼は少し悩んで「やっぱりおばさんだよ…」と小声で話した。
「おばさんはまた故郷の空気を吸いにきたんですか?」
「………ハァー、今回はただの観光よ、観光」
「へぇ〜」
レディの手には紙袋がいくつかあり、徐にその一つを彼に差し出す。紙袋を受け取った彼は「?」と不思議そうな顔をしながら中身を確認した。
「……! これもしかしてサッカーシューズ!?」
「あんたのサイズ、それで合ってた?」
「え? えっと……このサイズじゃちょっと小さいかな」
「そう。だったらこれと…あとこっちもね」
レディは彼の手から紙袋を回収し、残りの紙袋を押し付けた。その行動の意図が分からぬ彼は紙袋を手にしたまま呆然と立ち尽くしている。
(多分プレゼントじゃないか?)
「なっ、何で僕に!?」
「何で、って言われると……そーねぇ」
彼の思わず飛び出た言葉が自分に向けられたものだと思ったレディは頬をかく。
その拍子に左腕に巻かれた腕時計が陽光を反射して煌めいた。
「……ジャジャーンッ、時期はずれのサンタさん! …みたいな?」
「お美しいレディはサンタさんだったんですか!?」
「あんた現金なガキでムカつくわねぇ〜〜」
「えへへ……でもありがとう! 僕すごく嬉しいよ!!」
頬を赤くしながら紙袋を抱きしめた彼に、頭をかいていたレディはもごもごと口を動かす。分かるぞ、彼の天真爛漫な笑顔は第三次世界大戦を止めるほどのパワーがあるよな。
『ンなわけないだろ』
君は石と棍棒でも振り回してろ。
『………貴様ッ、オレの声が聞こえながら無視しているのか!!』
彼は早速使い古した運動靴を脱ぎ、真新しいサッカー靴を履いた。
紐結びに苦戦していたため私が代わりにやろうと思ったが、その前に伸びてきた手が靴紐を結ぶ。
「あんた、周りから鈍臭いって言われるでしょ」
「………」
「そうブスくれないでよ。えっとぉー、私が何が言いたいかっていうと……あれよ」
「?」
「あんまり怪我しないように気をつけなさいよ」
レディの視線が向けられたのは短パンから覗く彼の足である。
「……あのっ、おばさんはどうして僕にこれをくれたんですか?」
「未来のサッカー選手に投資してみようかと思って」
「それだけ? …本当に?」
彼の瞳が揺らぐ。スーパーの中で迷子になってしまった子どものように。
不安定な感情が心の声となり、私にも伝わってくる。
「おばさんは、もしかして……」
彼が
私の意図を察した彼は、自分をしずかに見つめる瞳に汗を流す。次の言葉を何というべきか悩んでいる。そういう時の私だ。
「ボクのことが好きなんですか…?」
顔を恋する少女のように赤らめて言ってみせた私に、彼女の目が眼球からこぼれ落ちそうなほどに丸くなる。
直後、爆笑が起きた。
「あはははっ! もしかして私がしょんべん臭いガキに恋したとでも思ってるのォ!?」
「乳臭いかもしれませんね」
「あっははははっ!!!」
目に涙すら浮かべてひとしきり笑ったレディは、「はーおっかしい」と涙を拭う。
「私の恋愛対象になりたいんだったらあと二回りは年をとりな、坊や」
レディは荷物を抱え直し、腕時計の時刻を確認する。ここいらはど田舎ゆえにバスの本数も少ない。
「素敵な時計ですね。文字盤のその蒼いやつは宝石ですか?」
「ラピスラズリよ。この腕時計はそうね…私の誇りみたいなものかしら?」
「うわあ……怖っ」
「なんでそこでビビるのよ」
値段まで聞いたら無粋かと思ったのでそこまでは聞かなかった。──が、ありゃ相当高いぞ。
「じゃあ
「……はい、また」
私の完璧な紳士スマイルに対して、彼がお構いなしに手をブンブンと振る。
次会った時には海にでも誘ってみようか。サッカーは……相手がレディなんだからちょっと控えような。
『ちぇっ』
あのレディは近寄ったら逃げていく野良猫とか野良犬みたいなものなんだろう。
適切な距離感が必要だった。なぜ今まで会いに来なかったのかという疑問はあるが、向こうにも色々と事情があるのだ。
彼は分かっていないようだが、彼女からは香水とともに夜の匂いがした。
・腕時計
ピアジェ。