同居人+1 作:CBR
長年生活をともにしていれば、何がどこにあるかという情報は自ずと入ってくる。
教会の寄付金が保管された金庫は神父の書斎、隠し棚の中にある。金庫を開けるには鍵が必要で、その鍵はテーブルの二番目の引き出しにある聖書の間にいつも挟んである。
問題は鍵ともう一つ、施錠に4桁のダイヤルを合わせる必要があることだ。
『彼』は金庫や鍵の場所こそ知っていたが、4桁の暗証番号までは知らなかった。
(母さんに急いでお金を届けなきゃ…)
母親はかなり切羽詰まった状況で、待てたとしても一週間が限界だという。それまでに義父が家を離れたタイミングで私室に忍び込み、金を盗らなければならない。
罪悪感はあった。彼の行動は自分を育ててくれた父親を裏切る行動であることも自覚している。
それでも彼は母の深い海のごとき愛に報いたかった。
『お前は間違っている』
自分に当時の記憶がなくとも、生まれた時からずっと一緒にいた存在。
ネモは暗証番号を調べる彼に協力せず、むしろ計画の中止を求めている。
思い返せば最近、はじめてのことばかりだ。
『あの女性は確かに私たちの母親だ…。魂が『そうである』と告げている。だが、きょう今まで、愛情をかけて育ててくれたのは神父様なんだぞ…!』
「……聖母マリアは子に無性の愛を捧げるんだ」
『だからその愛に報いたいと?』
「モーセの十戒にも『あなたの父と母を敬え』ってある。母さんは今困ってて、僕らの助けが必要なんだよ! なのにどうして君は協力してくれないんだ…ッ!!」
『…私にはわからない。途中で記憶を失っちまった身だが、それでも私は神父様を一人の父親として敬愛している。私たちの特殊な生まれを知った上で、普通の子と変わらぬ愛情を注いでくれているあの人を』
「特殊な生まれ? そりゃあ僕らは2人…じゃなくて、3つも人格があるけど……」
『……もっと時期を見て伝えるつもりだったが』
ネモは自分たちの出生の秘密について語る。同時に母親が犯罪者であったことも語った。
話を聞き終えた後、彼はしばし呆然とする。ただでさえ現状に精一杯な頭に爆弾が落とされたような状況だった。
「何だよそれ………何だよ、それ…」
『なあ…どちらの愛を優先すべきかなんて明白だろ?』
「………」
人間なのか疑わしい彼らを愛し続けてくれた義父。その愛情の深さを彼は実感した。
だが同時に、母親の愛情もより一層感じた。
出所した彼女は『異質な』息子にわざわざ会いにきた。里子に出した子どもの詳しい情報も教えられていなかっただろう。しかしそれでも探して、会いに来て、彼にサッカーシューズをくれた。
手にしっかりと伝わるその重み。自分の髪に触れた手の感触と、不思議な香水の匂い。
そして、海のような優しい微笑み。
「僕は母さんを救うんだ」
深いため息が聞こえた。ネモはいつもの冷静さはどこへやら髪を自分の手でぐしゃぐしゃにして、眉間に深い皺を作っている。
『ならせめて……せめて神父様に相談すべきだろ』
「こっそり会いに来た母さんのために、村の金を使ってくださいって?」
『違う、村の金じゃない。将来きっちりと返すからお義父さんの私財で協力してくれないかとか、もっとマシな方法はある』
「うちにそこまでの大金はないよ」
教会は村の中心的な立ち位置であり、色々と困った人々が神父を頼る場面も多い。その際に金銭的な援助が必要となれば、義父は出し惜しみしなかった。
だからこそ村人の神父への信頼は厚い。
彼が行動を起こせば、その信頼にもヒビが生じるだろう。
『私たちが村人全員から軽蔑されるだけじゃない。神父様まで後ろ指を差されることになる』
「でも母さんが僕に助けを求めたんだよ! 借金を払わなかったらギャングにどんな目に遭わされるかわからないのにッ!!」
『そうだ。私たちが金を用意しなければ母親は悲惨な目に遭うだろう。しかし神父様を裏切れば、彼の地位が失墜する。その上で義父を選べと私は言っている』
「君は実の母親が慰みものにされてもいいっていうのかよ!!」
『あの女はそもそも夜の仕事をやっている。見知らぬやつらに素っ裸だって見せてるはずさ』
「ッ……!?」
『高い腕時計もそうだ。それに出所したような身で1500万リラも払えるなら、夜の仕事に就いてると考えるのが妥当だ』
「……わかったよ」
下を向いた彼がポツリと呟く。顔は長い前髪に覆い隠され、うかがい知れない。
その言葉にネモは内心で安堵した。ようやく自分の言い分をわかってくれたのかと。
「お前は母さんが地獄に堕ちてもいいって言うんだな」
顔を上げた彼の片目が不自然に変わっている。瞳孔にかけて△のようなマークが傾いて浮かんでいる。
『…私も母親を大切にしたい気持ちはある。だがどちらかを選ばなければならない以上、義父を裏切ろうとする君の気持ちが分からないんだ。……わからないんだよ』
「もういいよ。お前の言葉なんて聞きたくない」
『待て、もっと冷静に考えてくれ…お願いだ。今の君は子どものように癇癪を起こしているだけだぞ』
「うるさいっっ!!!」
彼は息を荒げ、真っ赤な顔でネモを睨めつけた。無意識に投げつけようとした聖書が空中で止まる。この聖書は物心ついたかついていないかくらいのまだ幼い頃、義父が彼に渡したものだ。人から初めてもらったものなら、これかもしれない。
「僕はもうすぐ14歳だッ!! アルコールだってちょっとだけ飲んだことあるんだぞ!!!」
『私からすればまだ子どもだよ』
「うるさいうるさいうるさいッ!!!」
彼は聖書の代わりに枕やクッションを投げる。当然実体があるわけではないネモの体にその攻撃が当たることはない。
テーブルの小瓶をつかんだ彼はゼェハァと、目尻に涙を浮かべる。
心境は母親に「クソババア」とでもいうような、絶賛反抗期の気分である。
「ハァ……そうだよ。僕らの生い立ちが
感情が理性を奪う。カッとなった脳みそのまま、彼は言った。言ってしまった。
「君が悪魔なんじゃないの?」
ハハッ…と笑いをこぼした彼にネモは目を丸くし、唇を震わせ、空気に溶け込むようにその姿を消した。
「……ネモ?」
彼の問いかけに、言葉が返ってくることはなかった。
○
年頃の子どもなら親に反抗的な言葉の10個や100個は出るだろう。
彼は義父に対してそのような言葉は出なかったが、私だと時折「思春期だなあ」と思わせる口の悪さを発揮していた。
「う゛っ!!」
頭に厚みのある何かが衝突する。バサリと落ちたそれを手に取ると、見覚えのあるものだった。投げた犯人の手がシーツから出ている。
「なぜ聖書を投げたんだ?」
「いつまでもここに居座られると不愉快だ」
「………」
聖書を握る手に力がこもる。
彼に「悪魔だ」と言われた私は精神世界に引っ込んでいた。先ほどまで顔を埋めて床に体育館座りしていたところ、聖書が降ってきた形次第ある。
想像以上に私は傷ついてしまったらしい。彼に言われた内容もそうだが、悪意ある言葉をぶつけられたのもショックだった。
「私だって真剣に考えて提案したんだ。なのに彼は聞く耳を持たない。なぜぽっと出の母親より今まで育ててくれた義理の父を裏切れるんだ? 理解に苦しむ…」
彼女が息子を愛しているのは本当だろう。
だがその愛する息子に盗みを強要するその精神性は間違いなく『悪』であり、私たちに血縁関係や家族の情があるからといって、許されるべきものではない。
「借金も存外愛人のものかもしれんな」
「……ヒデェこと言いやがるぜ」
夜を生きる女の孤独を埋めるものは何か。金か? それとも酒か? あるいは──そうだな。慎重居士の言うとおり、男かもしれない。
仮に男のために息子に盗みをさせるなら、彼はその男以下ってことになる。
救えないな。
「仮にも自称†
溜飲を下げようと私の手は無意識にページをめくっていた。精神世界の割にはまるで本物のように一字一句間違いなく書かれている。
人間は忘れているだけで詳細な記憶が脳には保管されているというが、何度も見た聖書の内容がそうやって反映されているのだろうか。
「世界で最も信仰者が多い宗教がキリスト教だ」
次に多いのがイスラム教で、その次がヒンドゥー教である、と慎重居士は語る。そのくらいならまあ、私も知っている。
「こうした宗教は他国、あるいは他民族に流布する際にさまざまな方法を取ってきた」
「新規顧客は重要だろうからな」
「知っているか? その本に
「そうなのか? そこまでしっかり読んだことはないが…」
──いや、待て。だったらどうして夜では神の誕生した日だとクリスマスが祝われているんだ?
12月25日が正確な誕生日なんだったか。
「…もしやこの誕生日が布教の話に繋がってくるのか?」
「そうだ。キリスト教を広めるために、ローマの「太陽の誕生日」であった冬至──つまり12月25日に、救世主としてのキリストを当てはめたとされている」
「でも………だったら急になぜそんな話を?」
「……4桁だろう」
「ん? ────ああ!」
金庫のダイヤルは4桁だ。彼は候補として義父の誕生日や自分たちの誕生日、または神父に関連する数字かもしれないと聖書を手に取っていた。
聖職者であるなら、神の誕生日を金庫に設定している可能性は高い。………いや。……ん?
「お前、チュパチャを買った金…?」
「別に構わんだろう、オレが使っても」
やつは平然とした声色で「
確かにあの金は村民に使う金だが、そういう屁理屈が通ると思うなよ!!
──まあ、今回ばかりは仕方ない。教えてくれたのだし。
「考えれば比較的簡単に出てくる。あの小僧でも導き出せるだろう」
「……私が説得したところで彼はどうせ聞かない。君が説得してくれないか?」
「あの小僧にオレの言葉は届かない。というより、聞こえていない」
「じゃあ、このまま…」
「だが一つ止められる可能性はある」
私やこの男では彼から肉体を奪取することができない。
しかし
なるほどその手があったか、と思った束の間だ。
「オレは動く気はないが」
などと、やつは宣ってきやがった。サービス残業は嫌だって? 経済が急成長している今、馬車馬のように働かなくてどうする。
「オレの役割は肉体に危険が生じた場合に守ることだ。思春期のガキのお守りじゃあない」
「他人事みたいに言うな! 彼の問題は私や君の問題でもあるだろうッ!!」
「知るかっ」
慎重居士は吐き捨てるようにそう言い、(おそらく)こちらに背を向ける。
「お前らは何にもわかってねぇよ…」
私は彼のために動いている。だがこれは私のためでもある。
彼の行動は将来私たちに社会的な『死』を与えるだろう。捕まらなかったとして、あの小さな閉塞感漂う村で、頭に生卵をぶつけられるくらいだったらまだかわいいと思える制裁が加えられるかもしれない。
「社会的な『死』ってのは、時に実際に死ぬことよりも恐ろしいんだ」
不祥事を起こし、社会的に死んだ芸能人が追い詰められた先で自死を選ぶような。
私はそのような地獄を味わいたくない。彼が同居人でなければ他人事として片付けたが、そうはいかない。
同じ水槽の中で生きているのだ。ゆえに彼を止めなければならなかった。
たとえ────彼を害することになったとしても。
なぜなら私は、『
「ほぉ…それが貴様の覚悟か」
やつは興味深そうな声をこぼし、こちらを振り向く。その拍子に顔の一部がちらると見えた。
思わず唾を飲み込む。その目は彼が見せたあの不可思議な目と同じだった。あと前髪に緑色の……カビ? まだら? ……のようなものがある。
「おわっ!」
不意打ちで聖書の時のように何かが投げられる。キャッチしたそれは…。
「………何のつもりだ?」
「オレがここで目覚めた時、ぶっ倒れてた貴様が右手に握っていたものだ」
やつが投げてきたのは、一丁の銃だった。