同居人+1 作:CBR
感想・お気に入りありがとうございます!
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」。
この言葉は古代ローマの詩人ユウェナリスの『風刺詩集』に由来する。身体が健康であれば、精神も健康であるという意味だ。
ただ本来の意味は(富や権力を祈るよりも)健やかな体に、健やかな精神が宿るよう神に祈るべきだ──という、謙虚な願いを説いたものらしい。
現代社会を生きていた身としては正鵠を射た発言だと身に染みて感じる。
よく寝て、食べ、遊ぶことこそ子どもの特権であり、『彼』の精神を健全に育ててくれるだろう。
そうとくれば体の主導は彼に託し、めいいっぱい遊ばせる。
最近は外でよく走るようになり、虫や鳥を追いかけてはすっ転んでけがをする。子どもの体は背の高い大人と違って重心が低く、歩くと体の左右の揺れも大きくなり転びやすくなる。私でさえ転びやすくなってしまうのだから、鈍臭い彼が生傷の絶えない生活になるのは致し方あるまい。
「これ、どんな虫なんだろう?」
『神父様に聞いてみたらどうかな』
「でも
『図鑑かあ』
彼は元気よく駆けて行き、途中ですっ転んで泣いた。大泣きはしなくなったのは成長か。
家をとっ散らかすと、神父の部屋からお目当ての昆虫図鑑を発見した。他にも魚の図が描かれた本もある。
彼は一度魚の図鑑をパラパラとめくり、「わぁ」と感嘆の声をこぼす。日本のように島国ということもあり、イタリアは魚が豊富だ。私も思わず食指がそそられる。
「ぼく、今度つりに行ってみたいなあ…」
『美味そう。あっ、この魚も美味そう!』
「………」
彼は眉を下げて困ったような表情で私を見た。君も腹が減ってきたのか? ならばぜひ寿司を食べにと言いたいところだが、今の時代のイタリアで寿司は一般的ではない。それどころか首都に行っても日本食を出すレストランは滅多なことじゃ見つからないだろう。
魚=「焼いて食べる」のが基本だ。刺身料理も食えないんだぜ? 情緒がおかしくなっちまうぜ本当。それ以外だったらどの料理も美味いし、さすがイタリアなだけある。最近大人になったら寿司職人になってもいい気がしてるんだ。一緒に
「ネモはジャッポーネに興味があるんだね」
『同じ船に乗った盟友の国だ。第一の故郷にさえ感じるよ』
私の言葉に彼は不思議そうに首を傾げる。小難しい話は学校に通うようになってから習おうな。
そのあと彼は思い出したように昆虫図鑑を開き、当該の虫を探していく。見つけると私に向かって「これなんて読むの?」と尋ねてきた。おじさんはね、赤ん坊のスペックのおかげでイタリア語を聞き取れるし話せるようにもなったけど、読み書きはまだてんでさっぱりなんだ。申し訳ない。
「じゃあ、義父さんにいっしょに教えてもらおうか!」
彼は今のところ、悪魔の面影なんて感じさせないほど健やかに育っている。
○
彼は自転車を練習するようになった。しかも補助輪なしの自転車だ。
というのも、もうそろそろ小学校に通うことになる彼は、三輪車を漕いでいたところ補助輪なしの子どもたちに揶揄われたのだ。「まだ三輪車に乗ってるなんてガキかよ!」と。
それで言ったら彼らも十分ガキなのだが、この発言に彼はプライドを傷つけられたらしい。その翌日から家の敷地で補助輪なしの自転車を練習し始めた。
だが何度やっても転んでしまう。見かねた神父が背を押して手伝ってくれたが、早々に神父がバテてしまった。
神父は私たちを引き取った時点でかなりの高齢だった。年齢でいったら孫と祖父くらいの差がある。
「ねぇ義父さん、コツを教えてよ!」
「そうさなあ…まずはペダルじゃあなく、足を地面に付けてみなさい」
「こう?」
神父は地面に足をつけた彼に、そのまま歩いて進むよう命じる。私が幼い頃自転車の練習をしていた時も、親から似たように教えられた覚えがある。その親の姿もだんだん忘れてきてしまったが。転生した影響だろう。
まあ過去に執着してもしょうがない。過去は過去で、私は今を生きているのだから。
『視線はそのまま遠くへ向けるんだ』
「う…うん」
『一連の感覚に慣れたらペダルに足をつけて、片足で思いっきり地面を蹴ってみろ』
「でっ、でも止まれなくなったらどうしよう!!」
『その時は、「すぐにでも乗るんだ!」ってブレーキの練習をしなかった自分の責任だ。血まみれになろうぜ』
「いやだぁ!!」
彼が叫んだ瞬間、一気に自分の体が重くなった。勝手に引っ込んで私に体の主導権を渡したようだ。
神父はため息を吐く私に目を丸くしてから微笑み、「ネモかい?」と言ってきたので頷く。
「アイツ、私にお手本を見せろとさ」
「あの子よりネモは器用だからすぐに乗れるだろう」
神父の発言を聞いた彼が反発している。「僕だってすぐに乗れるようになるよ!!」と。
私がこの体に感覚が染みつくまで──さながら自動車を運転するように──自転車に乗らないといけないのだろうか? ひとまずペダルを漕いで前進する。
自転車に乗るには久しぶりだったので最初は重心が安定しなかったが、すぐにすいすいと酸素を得た魚のように走り回った。
そのまましばらく漕いで体を彼に渡すと、意気揚々と漕ぎ出す。
「僕だって!」
バカにされないようにと強く地面を蹴り、ペダルに力を込める。そのままヴィネガー号は大きな躍進を果た────せず、派手な音を立てて転んだ。神父が慌てて駆け寄る。腕と足に大きなすり傷を作ってしまったようだ。
「っ……大丈夫、まだ乗れるから!」
目尻に涙を溜める君は、いつの間にか泣いても諦めない心を持つようになった。
これも成長か。精神年齢がおじさんの私はこんな瑣末なことで涙もろくなってしまった。
どうか、君の将来が健やかに続くことを祈ろう。
●
彼の名前は『×××』。サルディニア島で神父である義父のもとで育てられた。
本当の両親についてはまったく知らない。義父に聞いてみたこともあったが、「お前がもう少し大きくなってから話そう」の一点張りで聞けた試しがない。
養子に出されたくらいなのだから、両親には手放さざるを得なかったよっぽどの理由があるか、もしくは不慮の事故や病気で亡くなってしまったのだろう。そのくらいの想像は彼でも容易にできた。
顔も知らない両親への興味はあったが、自分から積極的に知ろうという感情は希薄だった。
どのみち彼の家族は義父と、もう一人の自分であるネモだけだ。
『ネモ・テルツォ』という少年は不思議な存在だった。少なくとも物心ついた時には存在し、自分が成長するにつれて鏡を見ているかのようにネモも成長した。
一つ確かなのは、ネモが
地面に映された影を見て、それが自分の影だと認識するように。
ネモは自分で、自分はネモ。
ただネモの方がよっぽど精神が成熟している上に、体のコントロールも上手い。教会に祈りに来る大人にまで「鈍臭い」と言われる彼とはまったく異なる。
互いの夢も違う。彼は「船乗りなんかいいかも!」と思っているのに対し、ネモは「お前もジャッポーネに行かないか」と誘うほど日本に憧れが強い。
日本については戦争をした時にイタリアと同盟国であったくらいのことや、サムライがいることしか知らない。
いや、サムライはもう絶滅したんだったか? ネモ曰く。
時は着々と進み、彼は小学校に入学した。小さい村にある、これまた小さな小学校は閉鎖的な空間で、人間同士が固まる。
鈍臭い彼はもっぱら嘲笑の的になった。自分が三輪車に乗れなかったことをバカにしてきた少年たちも同じクラスで、これ見よがしにバカにしてくる。
学ぶことに楽しさを見出していた彼は、すぐに学校へ行くことが憂鬱になった。暗い彼に養父は心配すれど、事情を知ると笑って返す。
「子どもの頃はよく喧嘩をするものだよ。お前は男なのに小心すぎるんだ。少しくらいやり返す度胸を持った方がいい」
「でも……」
「それでも、どうしてもという時は私が手を回そう」
神父である養父はこの村で影響力を持っている。その上でいじめっ子たちが彼をいじめるのは、どこまでいじめていいかラインを見極めているからだ。現に彼らはまだ、親からゲンコツを食らっていない。
『ちょっとお義父さんはいじめを甘く見過ぎだよ』
だが横で話を聞いていたネモは現代社会の常識を持っている。
いじめに対する捉え方をより重く見ていた。
『おっと、これじゃお義父さんに声が聞こえてないか……』
「変わる?」
『いや、いいよ。戦争を体験した者の価値観は平和を生きる若者の価値観と大きく異なるだろうし、その価値観を押し付けあってもしょうがない』
「でも学校には行かないといけないし…」
『というか私と話す時に声を出してしまう癖、直した方がいいぞ。お義父さんの前じゃなかったら、不思議ちゃんじゃなくて精神異常者だと思われる』
「すでに普通じゃないでしょ。僕と君がいる時点で」
ネモと話す彼に、神父はカップに口をつけながら微笑む。
一人の体に二つの精神。はじめは驚きこそしたが、すぐに慣れた。むしろ息子がもう一人増えたようで喜ばしくさえある。
聖職者の身からすると「悪魔が取り憑いた」と思うかもしれない。だがこの神父は戦争を体験している。人間を同じ人間が殺す地獄。
目に見えないものへの畏怖より、現実に映る地獄に恐怖を覚える。だからこそ神父は息子
「…分かった! ネモが解決してくれるんだね!」
それになんだかんだ、ネモは頼りになる。自転車乗りに付き合っていた頃のように。
まあ心配ないだろうと神父は考えた。翌日後悔することになったが。
●
翌日、ネモはいつもいじめてくる少年たちを学校裏に呼び出した。学校の裏手には森が広がっており、人気がない。木々がザザ…と揺れ木漏れ日が隙間からちらちらと降り注ぐ中、いじめっ子たちは呼び出された場所へと集まった。
「こっちだ! マヌケどもォ!!」
声は森の方から聞こえた。反射的に少年たちはそちらへ視線を向ける。
必然、彼らは後を追った。人数ではこちらに分があるし、
そう思った矢先、一人の足が何かに絡まりそのままぐグンと宙へ吊るされた。
「なっ、何だよこれ!」
「どうし………うわあっ!!」
お次は巧妙に葉っぱで隠されていた落とし穴に落ちる。かなり深いが抜け出せないほどではないと思ったのも束の間、力を込めた手がつるりと滑る。
「これは………油ァ!?」
「お前らバカじゃね……ぐべっ!!」
そして最後の一人は上から振り子のように降ってきた中くらいの木に金玉がクリンヒットし、白目を剥いて倒れた。その瞬間、パシャリと音が鳴る。
できあがった死屍累々にネモはほくそ笑みながら近づいた。気を失っていない少年二人は彼が手に持っているものに気づく。
「安心するといい。お前らの情けない写真も綺麗に撮ってあげるからね」
「やっ、やめろ! 俺たちをここから早く出せ!!」
「出たいなら自力で上がりな、油少年。ぶら下がっているお前の方はパンイチにさせて、その写真を隣の席の女の子の机に入れといてやる」
「それだけはやめてェェ!!!」
阿鼻叫喚の中、ネモはいい笑顔で言う。
「
パシャンと、シャッターが切られた。
●
時は昨晩に遡る。
ネモからいじめっ子たちのお仕置きプランを聞いていた彼はふと思った。
「ねえ、アイツらが僕たちに
そう言って笑った彼に、ネモの表情は強張る。
ネモに具体的なプランを聞かれた彼は首をひねり、「毒キノコを盛るとか?」と答えた。