同居人+1 作:CBR
イタリアのリチェオの卒業試験(マトゥーリタ)は毎年6月中旬に行われる。
数日間にわたる筆記試験に、最後に待ち構える口頭試験。ドッピオはすでに気が重かった。
「イタリア文学と古典(ラテン語)と哲学は君に任せたよ…」
『ちっとは頑張れよ』
「僕は悪魔の数学で手いっぱいなんだよぉ…!!」
ドッピオの成績は極端に偏っており、生物がずば抜けているのに対して数学と物理が危うい。
本当によくこれで留年しなかったと思える有様だった。
「うう…ちゃんと卒業認定通るかな? うううっ…」
『まあ、これまでの積み重ねと最後の追い込み次第だな』
時期は4月。ジャッポーネだったら入学シーズンかあ、とネモは遠い異国に思いを馳せた。ついでに垂れかけた唾液を飲みこんだ。
それから時期は流れ、夏がきた。
卒業試験を終えた学生たちは長い夏期休暇の期間に入った。
ボロボロになりながらどうにか卒業できた『彼』もまた、重圧から解放され海の潮風を肺にたんと取り込む。その拍子に、煽られた風で前髪が後ろへ流れた。
────本当に大学へ進学しなくていいのか?
義父は惜しそうにそう言っていた。
ネモも将来を考えるなら大学に行くのは賢い選択肢だと語っていた。仮に船乗りを辞めても、大学の出なら転職先の選択肢が増えると。
ドッピオは正直これ以上勉強したくなかった。生物への関心はいまだに高いが、その探究心と地獄の数学を天秤にかけると後者に傾く。
それに大学ともなれば、
(──あれ? 何で僕、家を出ることにこんな危機感を抱いているんだ?)
ドッピオは首をひねったが、答えは出なかった。ネモが「首でも寝違えたのか?」と見当違いのことを言ってくる。
「そう言えば僕、ジャッポーネに行く時もドキドキして寝付けなかったなって…」
『そりゃあ寿司が私たちを待っていたからな』
「うーん…なんていうか、楽しみのドキドキでもあったけど………うーん?」
言語化するのがどうも難しい。よくよく考えたら、あれは強い不安もあったのかもしれない。
「もし飛行機が落下したらって、怖かったのかな?」
『空じゃあ逃げ道がないからな。きっとそうだぜ』
「海洋恐怖症とか、宇宙恐怖症みたいな? ってことは…僕は飛行機恐怖症?」
飛行機に乗っていた時はしかし、人生三度目のフライトで終始ワクワクしながら眼下に広がる雲の景色を眺めていた。
結局よぎったドッピオの疑問は解決しないまま終わる。
そして。
「好きなの、カエル?」
その女の瞳は、コスタ・ズメラルダのように美しいアクアブルーを宿していた。
●
「ハァ……」
ドナテラ・ウナという少女と遊び帰宅したドッピオは、ベッドに転がり物憂げな顔をしていた。
もうあからさまに「僕は彼女に首ったけです」という顔である。
「女の子一人で旅行してるってことはさ、やっぱり彼氏はいないよね…? だっているなら彼氏と一緒に旅行するはずだもんね……? しかもあんな可愛い女の子がさぁ…」
『お前の好みは何というか、わかりやすいな』
別れ際、恋愛経験ゼロのドッピオは決死の思いで告げた。「また明日会えないかな!?」──と。
それに「えー、どうしよっかな」と意地悪な表情を浮かべた彼女は、不安げな彼の表情を眺めてから笑顔を浮かべ、「いいわよ」と言った。
『私にはわかる。彼女とお前の相性はかなりいいよ』
「でも彼女、あと数日しかここに滞在しないんだよ…」
『ハートキャッチドッピオにならないとな』
「キューピッドネモォ…!!」
キューピッドネモは紳士ヅラの厚い男。その助けを求めたが、ネモは首を振り、「ありのままのお前で勝負しろ」と語る。
『ドナテラレディは情けないお前の姿を見ながら受け入れてくれた女性だ。変に取り繕うとかえって溝ができるかもしれない』
「何で君の方が先に彼女を呼び捨てにしてるんだよッ!!」
『怒るとこそこか…?』
ドッピオの緊急ミッション。【ドナテラ・ウナとの親交を深めろ!】がスタートする。
「あれ、意外。あなた香水なんてつけるのね?」
「う、うんっ…!!」
「ふーん、昨日はつけてなかったのに?」
「あっ、あはは…!」
ありのままで
ドナテラは彼女自身が「臭いのきつい男が嫌い」と語っている。そして、「美しくないものはみんな嫌い」とも。
彼女の感覚的に清潔感のない男はお断りであることが察せた。
ゆえにドッピオは朝から入念にシャワーを浴び、普段はつけない香水までつけた(ちなみにこの香水はネモの私物である)。
「もしかして、私に気を遣ってつけたの?」
「その……あんまり、よくなかった?」
「そうねぇ…」
ドナテラはドッピオの襟元に顔を近づけ、スンと匂いを嗅いだ。至近距離で異性ににおい嗅がれるという予期せぬシチュエーションに、彼の顔はタコさながらに茹であがる。
「石鹸とか、ハーブっぽい香りかしら……」
「この香水は、えっと………そ、そう! 『サンタ・マリア・ノヴェッラ』っていうんだよ!!」
「私、結構この匂い好きよ」
「ッ、ほ、本当!?」
「ええ。男の人ってさ、自分の体臭をごまかすためにむやみやたらに振りかけたりするじゃない? ああいうのって大概臭くなるから嫌いだけど…」
その人に合う適量。ドッピオは自分に合う香水の付け方を知っているようだった。
ドナテラから合格点をもらった彼は胸を撫でおろす。昨日ネモ講座を受けたかいがあった。
「じゃっ、エスコートお願いね」
「ま…任せてよ!」
差し出されたドナテラの手を握り返し、彼女の歩幅に合わせるようにしてドッピオは歩き出す。
「うげっ」
しかし早速柱にぶつかり、ドナテラにクスクス笑われることになった。
『青春の味や──…』
その間、ネモおじちゃんは若者たちの様子を眩しげに見つめていた。
◯
ドナテラのショッピングに付き合ったり、観光名所を訪れたり、二人はすっかりデートを満喫している。
私は時折おせっかい焼きのネモおじさんになりながら、ドッピオをさりげなくカバーした。
ドナテラは男の子に意地悪するのが好きなようで、ふいに腕を絡めたり、「炭酸水でもフランスの硬水じゃないと嫌って言ったでしょ?」と彼を翻弄している。
ドジなドッピオとは非常に相性がよく、何より彼ら自身がお互いに惹かれている。さながら磁石のSとN極のように。
もしかしたら、惹かれあった二人がこのまま結婚する未来もあるかもしれない。彼の恋愛がここまで上手くいっているのもはじめてだしな…。
ただその場合、遅かれ早かれ
まあ今はその心配をするには早いか。
「じゃ、じゃあまた明日…ウナ」
「………」
「ど、どうしたの?」
「私はあなたのこと名前で呼んでるのに、あなたは私のこと名前で呼んでくれないの?」
「あ、えっ、う…………ど、ドナテラ、さん…」
「何ィ? 声が小さくて聞こえなかったわ」
「ドッ、ドナテラ!!」
「ふふっ……やっと名前で呼んでくれた」
ドナテラレディが不意打ちとばかりに彼の頬にキスをした。途端に彼の首筋から朱に染まり、夕日なんて目じゃない赤さになる。
イタズラ成功と言わんばかりに小さく笑ったレディは一歩後退し、夕陽の色と溶け込んだ。
「私………明日は夕食にレストランでワインが飲みたいわ」
「う? うん…わかった、任せてよ!」
「本当にわかってる?」
「え?」
男女二人で夕食にワインを飲み、いいムードに包まれたその後は──わかるだろ? 私の方をチラ見するんじゃあない。こんなこと流石に言わせるな、恥ずかしい。
「サルディニアの夜って、暑いのかしら?」
節目がちにアクアブルーの瞳が地平線を見つめる。潮風が吹き、ドナテラの髪をさらった。
呆然とその姿を見つめていた彼は、口をハクハクと無意味に開閉させ、さらに顔の熱を上げる。
数秒の無言に、波の音。
ウミネコが隠し味にニャアニャア。
「…じゃあ、私ホテルに帰るわね」
ドナテラが背を向けて歩き出す。突っ立ったままのドッピオに私ができることは精神的な蹴りを入れてやることだ。
『
「わっ、急に何!? しかも声デカッ」
『好きならホテルまで送り届けてやれ! 1秒でも彼女の心と交流する時間を無駄にするなッ!!』
「わっ、わかった……」
『ただし送り狼にはなるなよッ!!!』
「わかってるよ!!!!!」
物事には順序ってモンがある。ドナテラレディが誘ったのは明日で、今日じゃあない。そこを間違えると一気に好感度が下がりかねない。
ドッピオは慌てた様子で駆け出し、途中石につまずきすっ転んだ。それに気づいたドナテラが呆れた様子で来た道を引き返し手を伸ばす。
「あなたって本当にそそっかしいんだから…」
「えへへ……あっ、ホテルまで送るよ! 女の子一人だと危ないかもしれないし…」
「……じゃあ、お願いしようかしら。ただし転んで私まで巻き込まないでよ?」
「気ヲツケマス…」
送り道も二人の会話は弾んだ。ホテルまでの道はあっという間で、「僕は帰るね」と言った彼にドナテラの肩から力が抜ける。
「おやすみ、ドナテラ」
「ええ…。おやすみなさい、ロレンツォ」
●
「〜♩」
バスルームから歌声が聞こえる。シャワーの水を止めた女は濡れた髪をタオルで拭い、バスローブを羽織った。
バスルームを出ると先ほどまで眠っていた目が二つ、開いていた。
「何の曲だ?」
「
「………」
「知らないの? この国のポップバンドの…」
男は気怠そうな様子で体を起こす。その体にまとっているのは下着一枚のみ。
先ほどの夜の暑さを思い出した女は、わざとらしい咳払いをしてベッドの縁に腰かける。あれは何とも
(…? 変だわ、雰囲気が別人みたい…)
シーツの中に隠れるロレンツォに彼女は体を近づける。眠れないなら子守歌でも歌おうかと。
「それとも、歌声が聞こえたら眠れない?」
「……おまえの歌声は」
「ええ」
「………悪くはなかった」
「あら、ありがとう。ねえ、私も一緒にシーツにくるまっていいかしら?」
彼女はズイズイとシーツを引っ張る。はじめシーツお化けは拒否を見せたが、彼女が譲らないと諦めた様子だった。
彼女はシーツの中に入り込み、顔だけ外へ出す。
少し開いた窓からは風が吹き込み、純白のカーテンを揺らしていた。
その、さらに頭上に広がるのはサルディニアの満点の星。
「……っている。傷つ…るつもりはな──」
「ボソボソ呟いてどうしたの? ひとり言?」
「…おまえには関係ない」
「………あなたって、肌を交わすと冷たくなるタイプだったのね。ちょっとガッカリ」
彼女は向こうが「あっ」と声を漏らす前にシーツを奪い取り、カタツムリのように丸くなった。
「おい、ふざけるんじゃあないッ、返せ…!」
「知ってる? 心理的に不安がある人って、丸くなって眠るんですって」
「………」
「子守唄はいらなかったのよね」
「……勝手にしろ」
夜。月の明かりがやさしく降り注ぐ中、窓辺から子守唄が流れてくる。
眠れない子どもたちは一度その歌を聞けば、あっという間に瞼が重くなるだろう。
それでも寝つきの悪い子どもは母の手であやさなければならない。
頭を撫でて、夜は怖くないと。
そうして目尻にキスをして、おやすみを告げよう。
「Buona notte」