同居人+1 作:CBR
「お前が朝帰りとはな…」
「ブハッ!」
牛乳のたっぷり入ったカプチーノがネモの口から勢いよく吐き出された。神父は「冗談だよ」と笑いながら布巾で濡れたテーブルを拭く。
「お前が友人の家に泊まるなんて久しぶりだったからね。楽しかったかい?」
「ああ、うん…タノシカッタヨ」
昨晩はドッピオが大人の階段を登った日だった。ネモは悪魔の男が暴力沙汰を起こさないように念を押しつつ、精神的に眠気がきたので眠りについた。
そして次の日の朝、ドナテラのホテルを後にして帰宅したわけである。とどのつまり、マジもんの朝帰りだった。ドッピオはまだ眠っているようで応答がなく、悪魔の男の方も同様である。
「しかし、お前たちももう少しで19歳になるのか…」
義父はカプチーノを飲みながら目を細める。引き取られた時は腕の中にすっぽりとおさまってしまうほどに小さかった赤ん坊が、今や彼の身長よりも大きくなった。
「私の髪もすっかり白くなってしまったよ」
「お義父さんは染めないんですか? 白髪だと余計に老けて見えるでしょう」
「いいんだよ、このままで。この白髪の一本一本に、これまで生きてきた私の喜怒哀楽がすべて詰まっているんだ」
「……そうですか」
ネモは自分の髪を手持ち無沙汰にいじる。赤毛とも呼べないその特徴的な髪の色。歳を取ったらこの髪も義父のように白くなるのだろうか?
いや──そもそも、随分と
「私も長生きしたいな…」
「ハハッ、
「笑い事で済まない例えですよ、それは…!!」
ネモは落下する飛行機を想像し、身震いした。今後飛行機に乗るたびに神に十字を切らなければならなくなるかもしれない。
「私はね、ネモ」
「何ですか?」
コトリとカップがテーブルに置かれる。義父は先ほどとは違う優しい笑みを浮かべて言った。
「お前たちが立派に成長してくれて、嬉しいよ」
窓から差し込んだ朝の陽光が義父の顔に当たる。
ネモは胸の内に、温かい本流を感じた。それは朝に飲むカプチーノよりも温かい。思わず鼻の下を指でこする。
「………」
「おや、遅れた反抗期かな?」
「……恥ずかしいんですよッ」
ネモの顔は真っ赤だった。
◯
今日は昼からドナテラレディとコスタ・ズメラルダに行く予定である。
寝坊したドッピオは昨晩の出来事を思い出しては、ぼーっと間抜けな面をさらしている。……あっ、一応言っておくが、彼がドナテラレディと一夜をともにしている間、私は精神世界でやつに嫌な顔をされながらトランプタワーを作っていた。なのでその一夜の仔細な情報は知らない。
(ちなみにやつを誘いババ抜きやポーカーをやったが、勝敗は五分だった)
「ハァ…僕、今人生の『絶頂』にいるのかもしれない」
『随分と長い絶頂タイムだな』
「人が有頂天の時に下世話な話はやめてよ!」
ドッピオは私から視線を外すと、本日の服を選び始めた。
それから昼になり、ディアボロの意識が浮上した。「結局子守唄は聞いたのかい?」と茶化し半分で聞くと、盛大な舌打ちを食らった。ディスコミュニケーションである。
「あっ、ドナテラ…」
「チャオ、ロレンツォ。今日も暑いわね」
ドッピオはドナテラの方を見ようとするが、チラリと見てはすぐに視線を逸らしてしまう。挙動不審なその態度に彼女は下からドッピオの顔を覗き込む。
「あら…顔真っ赤じゃない」
「そのっ…あ、う……」
どうも露出の多い彼女の肌を直視できないらしい。昨日触れたことを鮮明に思い出してしまうからだろうか?
しばし顔を覗き込むドナテラから背を向けていた彼は、とうとう白旗を上げて精神内に逃げ込んだ。
(コラァッ!!!)
『助けてよテルえもん*1〜〜!!』
(「ネモえもん」の語呂が悪いから「テルえもん」にしてるのか……じゃないッ、逃げるなここで!)
「…ねえ、どうしたの? 一人百面相してるけど」
心配げな表情を浮かべるドナテラレディは、体調が悪いなら…と話を持ち出す。このまま彼女を帰してしまうわけにはいかない。彼の恋路を成熟を越して、完熟させるためにも。
「そっ、その……昨日のことを思い出しちゃって」
「昨日の
『うわあああああああああっ!!!!!』
ドッピオがデカい声で発狂したせいで耳がキーンとした。根気で嫌な顔だけは浮かべないように──しかし、笑顔は引きつってしまった。
「ごめんなさい…嫌な気分にさせるつもりじゃなかったの」
「いや、嫌というかッ、全然嬉しいというか!!」
「…嬉しいの?」
「ゔっ……れしく…なくは、ない?」
「どっちよ」
ハァーと彼女はため息をついた。なぜ私がここまでドッピオの尻ぬぐいをしなくちゃならないのか。これは彼とドナテラのデートであって、私と彼女のデートではない。だというのに。
「えっと…じゃあ、行きましょうか」
ここまできたら仕方ない。
「………」
ドナテラレディは差し出された手をじっと見つめ、それから私の顔に視線を移した。昼の喧騒の中で、目をぱちぱちとさせる。それからフッと笑い私の手の上に自身の手を重ねた。
「自然にエスコートされたから、びっくりしちゃった」
「……練習してて!」
「イタリア男の教養として?」
「ええ!」
くすくすと慎ましい笑い声が聞こえる。私はドッピオらしい振る舞いにも気をつけにゃあならんのか。クソッ、わざと柱にぶつかると痛いぞ!
「もう、気をつけなさいよねぇ」
鼻血が出た顔にハンカチが押し当てられた。
ちょいと意地悪な面もあるが、根はいい子なのだろう。
鼻腔にはわずかに洗剤の香りがした。
●
旅行の思い出づくりにカメラは必須だろう。一人旅なら自分が被写体になる機会は少なくなってしまうが。
ドナテラは旅の節々で──例えば洒落た料理など──写真を撮った。カシャリと音が鳴った後、そこに記憶よりも鮮明なすがたが映し出される。
「僕のことは撮らないで」
彼女のレンズはこの旅で知り合った青年にも向いた。自分とさほど歳の変わらない『ロレンツォ・ヴァッリ』という名の彼。
ドナテラは撮影の拒否に首を傾げた。
「僕、撮られるのは苦手っていうか…嫌いなんだ」
「そうなの? 私は撮られるの好きだけど」
「…確かに。君って目立つのが好きそうなタイプかも」
「自己肯定感が高いのよ」
それで言ったら、ロレンツォは自己肯定感が低いのだろう。雰囲気もナードで、幼少期はいかにも『いじめられていました』な雰囲気がある。
「僕の顔ってそばかすもあるし、何より髪の分け目がひねくれてるし…」
「ふーん、自分の容姿に自信がないのね。…かわいい顔してると思うけど」
「それでも、撮られたくないんだよ」
誰にでも好き嫌いはある。ロレンツォは「君は多すぎるくらいだけど」と言ってきたので、彼女は唇をムッとさせた。
腹いせにカメラを向けたが、レンズの先の彼が困ったというか、眉を下げて本当に嫌がっていたので、カメラを下ろした。
その代わりに、ドナテラは自分の瞼をシャッター代わりにした。レンズが瞳だ。それで青年を映し、撮った。
そして自分の記憶の中で抱きしめた。
波の音。
訪れたエメラルド海岸の海の色は透き通っており、美しい。押しては引く波に自分の足を浸して、砂浜の上を歩いた。彼女の足跡はすぐに消されて無くなる。ロレンツォのも同様に。
「人は私たちしかいないわね」
「そうだな…わっ、と」
今日は何だか終始様子のおかしいロレンツォは、砂に足を取られて転んだ。その上にちょうど押し上げた波がかぶさり、浜辺に打ち上げられた魚のようになる。
「この天気と暑さならすぐ乾きそうだし大丈夫ね」
「ははは…」
彼女は透き通った海と、頭上に広がるサルディニアの青空を撮った。
そのままレンズの先をロレンツォに向けると、海を眺めていた瞳と目がぱっちりと合う。ドナテラはカメラを下ろした。
「大丈夫よ、あなたのことは撮らないから」
「………うん?」
「…? 妙な反応だけど、どうしたの?」
「いや……私は撮られるのが苦手だったか?」
「苦手じゃなかったの?」
「────いや、苦手だったな。失念していた」
「……?」
腑に落ちない反応だったが、ドナテラはそれ以上追求しなかった。何か相手のトラウマを刺激してしまったのかもしれないし。
「ドナテラ、カメラを貸して。ボクが撮ってあげるよ」
「上手に撮れるの?」
「君をコスタ・ズメラルダの人魚にして見せるさ」
ロレンツォはカメラを受け取り、真剣な表情でドナテラの前に立った。風の向きだとか、細かな位置だとかを計算し、数分経ってようやくカメラのシャッターを切る。
出来栄えはフィルムを現像してからでないとわからない。
「まあ、カメラマンの腕を信じるわ」
微笑んだ彼女の髪が風にさらわれた。ドナテラは体ごと風にさらわれて、数歩前に出てロレンツォの頬にキスをする。
ロレンツォの顔はポカンとした。文字どおりの「ポカン」。
「……本ッ当に、イタズラ好きなレディだ」
「レディ?」
「
ロレンツォはクソデカいため息をこぼした。そして「ひとつご教授しますけど」と言って、男は狼であることを教える。ドナテラは人魚ではなく、赤ずきんだったのだ。隙を見せたらそりゃあもう頭からガブッといかれちまうと。だから揶揄うのは程々にすべきである──と、云々かんぬん。
「別にいいんじゃない?」
「…なぜ?」
「だって…その相手が『食べられてもいい』って人だったら」
狼はこわい顔をして、またクソデカいため息をついた。
●
「………なるほど。そういうことだったか」
一方で男女の仲睦まじい様子を偶然目にした神父は、車の荷台で頭を押さえた。
先日の朝帰り。それはつまり、
「あっという間に大人になっていたんだな…」
微笑ましくもあり、何とも言えない気分でもある。
だがひとまずはその成長を喜ばしく思うことにした。
(そろそろ、あの子にも車を買ってやるか)