同居人+1   作:CBR

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6話 この電話は、現在使われておりません。

 スマホが普及している現代社会から半世紀近く前の1975年当時はまだ、一般家庭に電話が普及していなかった。それはイタリアでも同様で、ミラノやローマの都市部ならともかくサルディニアのような田舎で電話を使うなら、人々は教会で借りる必要があった。

 教会とは単なる礼拝の場ではなく、地域社会のインフラの一部でもある。神父は行政の手続きや死亡届に出生届、病人の往診や自治体や病院との連携など、地域住民の生活に関わる公的な連絡窓口だった。

 

 電話自体は教会ではなく、教会に隣接する司祭館(神父の居住スペース)に設置されていた。

 仕事部屋にあるそれは西洋風のシックな造りのダイヤル式のもので、スマホを見慣れていたネモは興奮したものだった。「サザエさんでしか見たことねー造りだ!!」と。

 

 ダイヤルを回すとジーコジーコと独特な音が鳴る。回す時に指にかかる重さは勝手知らぬもので、ネモは歴史を感じた。

 ネモが触っていると『彼』も触りたがり、二人して遊んでいる間に神父に見つかり怒られることになった。

 

 

 

 

 

 †【ネモ・テルツォのいない憂鬱な日々】†

 

 

 僕にはもう一人の『僕』がいる。名前はネモ・テルツォ。

 博学でしっかり者だけど楽観的なところもあって、臆病な一面もある。

 

 例えば授業中に僕が勉強をしている時、ネモはえんぴつを握る僕の反対の手を使って図書館で借りた本を読んでいる。

 例えば僕が通学中に犬のクソを踏んでしまった時、「今日は『(ウン)』がついてるな」なんて言う。

 例えば僕がうっかり車に轢かれそうになった時、必死の形相で街灯にしがみつく。

 

 僕にとってネモ・テルツォは家族であり、歳が二回りも離れた兄の感覚に近い。たまに僕を義父さんと同じ眼差しで見つめてくる姿は兄というより父親だ。

 

 

 そして多分、ネモが何かを隠していることも知っていた。僕だけじゃなく義父さんやすべての人間に対して。

 秘密は公平性を保っているから、無理に知ろうという気持ちは起きなかった。ネモが話してくれるなら聞こうかなあ、って感じだ。

 彼が話したくないならそれでいいし、()()()()()()()()()()()()()()()

 極論彼が宇宙人や悪魔でもどうでもよかった。彼が『僕』(I am)であることに変わりはない。

 

 

 そんな彼は最近家出をしている。家の前でボロボロになって倒れていた僕を義父さんが発見したあの日から。

 

 隣町へアイスを買いに行った僕らは2日も家に帰っていなかった。心配になった義父さんは翌日、周囲の手も借りて捜索したけど見つけられなかったらしい。警察に連絡するしかないと考えた義父さんに、周囲は僕が鈍臭い子どもだからってもう少し様子を見たらどうかと話したそうだ。どこかで転んでそのまま気絶してるだけかもしれないって。

 義父さんは周りの反応を受けて、翌朝まで待つことにした。僕はちょうどそのギリギリのタイミングで帰ってきたことになる。

 

下手に警察に通報されずにすんだのは幸運だった。

 

 あの日何があったのか、実を言えばあまり思い出せない。

 ネモが「全種類のアイスを融合させて──」なんて、バカなことを言っていたのは覚えている。僕が頼んだのはチョコレートとバナナで、手が溶けたアイスで汚れてしまったからナソーネ(水飲み場)で洗ったんだ。

 それで、バス停で青い空を眺めた。上へ上へと体積を増していく雲は僕の心のようだった。ネモのように気楽に生きれればいいと思うけど、毎日いろいろなことで悩んでいる。

 本当の親のこととか、学校の成績とか、笑うとエクボができるアイス屋のお姉さんのこととか。

 

 それから飛行機雲ができて………僕はどうしたんだっけ?

 

「うーん…」

 

 思い出そうとしてもうまく思い出せない。忘れちゃあならない何か、重要なことがあった気がするのに。しかもそれがネモがいなくなった事に関連があると直感でわかるのに、まるで老人の物忘れのように痒いところに手が届かない。

 

 病院でネモのことを義父さんにも話したけど、首を傾げるばかりだった。その代わりに一冊の本を渡された。中は全部英語のようで、ページをパラパラと開いても内容はてんでさっぱりだった。

 

「義父さん、これは?」

 

「以前ネモが読みたがった本でね。ついこの間、アメリカに住む神学校時代の友人に送ってもらったんだ」

 

「へぇー…」

 

 タイトルは『S y b i l』で……『シビル』って読むのか?

 僕が知らないってことは、ネモが個人的にこっそり義父さんに頼んだんだろう。「プライバシーは大事だぞ」ってネモも言ってたし。特にベッドの下とか棚の内側に何かを隠すようになる年齢からは(それは具体的にいつからなのか聞いても、彼は教えてくれなかった)。

 

「私はお前たちの状態について調べたことがある。おそらく病気の一種の可能性があるらしい」

 

「ビョーキ?」

 

「一つの体に複数の精神が宿る病気だ。お前たちのことを見ていると、とても「病気」だとは思えないが……それで夜に調べていた時に偶然、ネモに見つかってしまってね」

 

 義父さんはネモが気分を害すと思ったけど、特に気にした様子もなく、逆にその病気を題材にした本があると知って欲しがったと。

 そんな経緯でこの『シビル』という本が僕の手に渡ることになった。

 

「あらかじめ言っておくと、この本は『シビル』という女性の複数に分かれた人格が一つになっていく話なんだ」

 

「えっ…」

 

「だからといって、私はお前たちを一つにしようという気はないよ。お前やネモは今の生活に何ら困ってはいないし、()()()()が私の息子なのだ」

 

「……うん」

 

 義父さんは僕の頭を優しく撫でた。僕が感じている寂しさを埋めようとしてくれているのだろう。

 

「ネモがいなくなった原因は……私にあったのかもしれないな。自分が消えるべきだと責めて…」

 

「ネモはいなくなったんじゃない。ちょっと家出してるんだよ」

 

「…ああ、そうだな」

 

 ネモはきっとすぐに戻ってくる。

 だって僕らはずっと一緒だったんだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 夏がやってきた。もうすぐ長い夏休みが始まる。ネモはまだ帰ってきていない。

 僕の体のはずなのに、ネモがいないとこの体は僕のものじゃないような気さえする。

 

 一人で遠出するのも禁止になってしまったから、アイス屋にも行けていない。

 どこかずっと上の空で、ぼんやりしていると耳鳴りがしてくる。虫取りも、サッカーもつまらない。

 

 僕はひとりだった。これが『独り』という感覚だった。

 ネモは友だちを作れって口うるさかったけど、彼がいたから友だちなんて要らないと思っていた。

 

 でも一人になった途端、教室の中の自分が異質な世界に迷い込んでしまった感覚に陥る。

 周囲のやつらは僕と同じ人間なんだろうか? 人間の皮をかぶっている怪物の可能性だってあるんじゃないのか?

 教室と廊下の間にあるレールが異界とこの世の境目なんだ。そこを超えたら僕はいつも異常な世界に迷い込んでしまう。

 

 学校に行くのが憂鬱になるのは久しぶりだった。唯一気持ちを紛らわすことができたのは家にいる時と、『シビル』を読んでいる時だった。

 義父さんが用意してくれた『英伊辞典』で英語をイタリア語に訳しながら少しずつ読み進めている。

 

自分(オレ)について理解を深める上で興味深い本である。

 

 1ページ読み進めるのに何日もかかるし、翻訳した内容が前後の文と合わないことなんてザルだから、僕が小学校を卒業する頃になっても読む終わっていないかもしれない。

 

「『シビル』も記憶が思い出せないのか……うわっ!」

 

 空白の記憶の間に、僕たちに何があったんだろう?

 本を見ながら廊下を歩いていたせいか、男の子たちとぶつかってしま……ゲッ! コイツいつぞやの僕をいじめた奴らの一人じゃあねぇか!

 

「どこよそ見して歩いてんだよッ、テメェ〜!」

 

「ご、ごめん…!!」

 

「本なんて読みながら歩いてっからだよ!!」

 

 読んでいた本が奪われて、窓の外へ向かって放り投げられる。慌てて窓を覗けば僕の本は放物線を描いて木の上に乗っかり、そのまま下へと落ちていった。早く取りに行かなきゃ。

 

「おいっ、まず俺に謝ってから行けよ!」

 

「よそ見してた僕が悪かった。──これでいいだろ? どいてよ」

 

「……ッ! お前×××のくせに生意気だぞッッ!!」

 

 向こうが僕の胸ぐらをつかんできた。僕は『(ネモ)』の本を取りに行かなくちゃならないのに、どうしてこいつは邪魔してくるんだろうか?

 やっぱりネモは甘かったんだよ。こいつらが僕たちに二度と口出しできないよう、徹底的に痛めつけてやるべきだった。

 

その考えも()()甘い。

 

 僕の胸ぐらをつかんでいた腕をつかみ返して壁に固定したら、英伊辞典を指先に向かって振り上げる。

 ネモが言っていた「タンスの角に小指をぶつけたら痛い」理論と同じだ。指先に思いきり衝撃が当たるとめちゃくちゃ痛い。僕もドアによくうっかり挟む。

 

 ゴンと音がして、指を抑えてうずくまったアイツを無視して外に向かった。辞典を見たけど少し凹みができてしまったくらいで大きな損傷はない。

 

「よかった! あったぞ…!」

 

 ネモの本も無事に回収できた。

 

 そのあと先生に呼び出されたけど、「ぶつかった拍子にアイツの手に辞典が落ちてしまった」って言ったら先生は呆れた様子でため息を吐いて、謝るように言った。

 

「あなたのその鈍臭さも困ったものだわ…」

 

「違うよ先生ッ! コイツはわざと俺の指にッ!!」

 

「い、痛かったよね。ごめんね…」

 

 本を投げ捨てられて衝動的になってしまったとはいえ、指に包帯を巻いた姿は痛々しくて「悪いことをしちゃったなあ」って罪悪感が湧いてくる。

 誰だって指を挟んだら痛いもんね。

 

 

「……な、なんなんだよッ、お前…」

 

 

 彼は顔をひきつらせて僕の方を見る。

 

「前々から思ってたよ。時折ぶつぶつと一人で話してたと思ったら、急に人が変わったみたいになってさ…」

 

「僕が『変なやつだ』って話だろ」

 

 こそこそと陰で話しているのなんて何度も聞いたことがある。先生たちですら「あの子は変だ」って話してたのを耳にしたことがあるくらいだ。

 

「ビョーキなんじゃねぇのかって、思ってた。でもお前違うよ、病気じゃない」

 

「ハ? 違う。僕のこれは──」

 

「お前にはさ」

 

 本を握る手に力がこもる。表紙や中の紙は少し土で汚れてしまって、はらっても綺麗に落ちなかった。

 アイツは鼻で笑うように、僕を()()()で見る。

 頭が悪かったり、容姿が醜かったり、行動が少し変だったり。平均より下の人間見下ろす時に向ける目だ。

 侮蔑して、腹の底で嘲笑する。

 僕の嫌いな目。

 

 

「悪魔が取り憑いてるんだよ!」

 

 

 教会の養子になったのは、親が僕が悪魔の子どもだと気づいたから捨てたんだって、アイツは続ける。

 

「それ以上の発言は、神父様や彼への侮辱とみなしますよ!」

 

「違う、コイツは悪魔だ!!」

 

「……ッ」

 

 耳鳴りがする。体に上手く力が入らなくなって、ぐにゃりとそのまま崩れ落ちる。

 僕は悪魔の子? だから本当の親は僕を捨てた?

 違う、そんなはずない。僕のこれは病気で、病気だったおかげでネモとずっと一緒だった。

 

 お前のその発言は義父さんと僕だけじゃない、ネモへの侮辱だ。

 

 許せない、許せない許せない、許せない──。

 

その感情は『殺意』というものだ。

 

 荒い息を吐く僕を、先生は支えるようにして立たせ、保健室に連れていく。

 耳鳴りはずっとやまずに、ベッドに横になっても続く。

 次第にそれは明確な音になり、頭の中で反響した。

 現実のものかとも思ったけれど、保健室に“それ”はない。あるとしたら職員室だ。

 

「ねぇネモ……君はさ」

 

 義父さんの部屋の電話で遊んでいる時に、将来的に電話が一般家庭に普及して、誰でも気軽に『繋がれる』時代が来るって言っていたね。

 僕もその通りだと思う。でもあの大きさの電話を持ち歩くのは不便だし、全員が持つようになったら僕は1秒ごとに地面をうごめく電話線に足が引っかかって転んでしまうよ。

 

 便利だけれど、不便でもあるだろう。詐欺も起こるだろうって君は言っていた。「もしもし、私私」って。よく分からない詐欺の仕方をしていた。

 

 

 ────お前は電話を取ったらきっと詐欺に遭うから、取っちゃあダメだぞ。

 

 

 ねぇネモ、電話が鳴ってるんだ。

 

 でも君が言うなら、この『電話』はきっと取っちゃいけないんだね。

 

 

 

 

 

『もしもし…………もしもし?』

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