同居人+1 作:CBR
地中海の日射は強烈に降り注ぎ、すべてを白く飲み込むようである。
白や赤みがかったレンガ造りの輪郭を浮かび上がらせる頭上と眼下には、見る者の心を吸い込む一面の蒼い景色が広がる。
潮風に混じって漂う香りはどこかスパイシーで、シエスタ(昼休憩)の時間になると人々の喧騒に隠れていた蝉のジリジリとした声が静かな街に響き始め、時折ヤギの鳴き声も聞こえる。
約3か月にも及ぶ長い夏休みの間で彼は10歳になり、ついでに本の方も読破してしまった。
やたらめったらな翻訳の仕方だったが、それでも大まかな内容は把握できた。
夏休みが明けると彼はイタリアの小学校で最高学年になる5年生になった。
が、しかし、ネモはまだ家出をしている。
「クソッ…」
彼は地面に寝転がり悪態をつく。
殴られた腹がズクズクと痛み、手を伸ばしてつかんだ本は踏みつけられたせいでボロボロになっていた。
彼は破られ、散らばったページを拾い集める。
以前いじめっ子グループの少年の指をケガさせたことで相当根に持たれてしまったようで、こうして嫌がらせを受けるようになった。
(ネモがいたら、少なくとも今の状況にはならなかったんだろうな…)
苛立ちや虚しさ、孤独が彼の内側を満たしている。
楽しく送るべき人生とは真逆の日常。
彼は地面を強く握りしめ、深いため息をついた。
◯
「なあ、一つ提案があるんだがな」
「急にどうしたの、義父さん?」
義父さん曰く、今年の
修養会というのは神父にとってのリフレッシュ休暇みたいなもので、目的としては信仰の深まりや霊的なリフレッシュ? を意図している。
行われる場所は修道院や黙想の家だ。
「今年はローマの方に向かう予定でな」
「そっか…」
神父というのは生涯独身であることが原則として決められている。養子を持つことも基本は禁止されていて、義父さんが僕を育てているのはかなりイレギュラーなことだった。
「毎年行く時はネモがいたから、お前たちを家に残しておくことができたんだが…」
「僕はもう小学5年生だよ!? 家事だってできるさ!」
「私がいない間にお前が料理をして火事でも起こしたらと思うと……」
義父さんはフラフラとして頭に手を当てる。少し芝居くさい演技だった。
ただ僕を本当に心配しているのは伝わってくる。
「本来は子どもを同伴させることはできないが、還俗した元司祭の方がお前を泊まらせて良いとおっしゃってな」
「義父さんとは別々に泊まるってこと?」
「そうなる。しかし私がいる修道院とその方の家は近いから、万が一があればすぐに会える」
「うーん、ローマかあ…」
ローマには遠足で行ったことがあった。終始ネモがうるさかったのは記憶に新しい。「生ローマッ、生ローマだぜ!!」って子どもたちの中の誰よりも興奮していた。
「僕はやっぱり家にい──」
「いいのか?」
「えっ?」
「実はな、ローマにジャッポーネのレストランができたらしいんだ。そこに三人分の予約を取ったんだが……」
「行く!!!」
叫んだ僕に、義父さんは「決まりだな」と笑った。
ジャッポーネのレストランなら、ネモが食べたがっていた『スシ』があるかもしれない!
『………米の上に生魚を乗せた料理だと…!?』
いろいろ心配だけれど、ジャッポーネの人間がスシを日常的に食べているってことは、口に入れても大丈夫なんだろう。
『衛生面的にこう……何かまずいだろうッ!』
それにスシが目の前に出たら、ネモが家出から帰ってくるかもしれない。そしたら三人でスシを………あれ、
僕は思わず義父さんの方を見た。
「義父さんはさっき、三人分って…」
「お前と私とネモで三人……何かおかしいところがあったかな?」
義父さんは微笑んでいる。別に頼むなら二人でもよかったはずなんだ。ただ義父さんは二人分じゃあなく、三人分で予約した。
「……ありがとう、義父さん」
ネモ、帰ってこないと、僕が君の分まで食べてしまうからね。
『オレの分はないのか…?』
◯
サルディニアから本島のローマまでは飛行機で1時間と少し。僕にとっては人生初のフライトで、乗っている時はずっと気持ちがソワソワして落ち着かなかった。
そして着いたらそこからまたバスで数時間ほど移動し、到着したのはローマから数十キロほど離れた街である。
「どうした? 随分と微妙な顔をしているが」
「…そうだね。義父さんはローマ
「ハハハ! 神父流叙述トリックだ」
『「何だそりゃ」』
僕はまんまと神父流叙述トリックにハマり、自分が住む村とそこまで変わらないんじゃないかって思うほどの小さな田舎街へと着いた。
早速義父さんに連れられて、数日お世話になる老夫婦の元へあいさつに向かった。
義父さんが言っていた「還俗」というのは、元々神父を務めていた者がその職を辞め、一般の信者になることだ。その場合、還俗した者は結婚することができる。
僕は──多分、いや、僕たちが義父さんの養子になった裏には、次代の神父のお勤めを任せたかった意図があるんじゃないかと思う。教会の手伝いも小さい頃からよく任されていたし、イレギュラーで養子を認めるくらいなら口実として考えられる理由としても妥当だ。
でも義父さんは「自分がなりたいものになればいい」と考えている。ネモも「一生独身は嫌だ」って言っていた。
神父になったらきっと一生女の子と手を繋げないんだ。それは嫌だな…。
「すっ、数日間の間ですが、よ…よよ、よろしくお願いします!」
「ああ、よろしくね」
「ふふ……なんだか孫ができたみたいだわ」
「彼はなかなか鈍臭いところがありまして…何かご迷惑をおかけしたらすぐにおっしゃってください」
義父さんはそう言った後、二人にもう一度頭を下げて教会の方に向かった。
おばさんは早速家に招いて僕が泊まる部屋を案内してくれた。中には子ども用と思しきベッドがあり、机や椅子もある。壁や柱には細かい傷もあった。
「もしかしておばさんたちの子どもの部屋だったんですか?」
「えっ? ……え、ええ、そうよ。私たちの子どもがここに住んでいたの」
おばさんは曖昧な笑みを返し、「お茶を持ってくる」と言って部屋を後にした。
僕は持ってきた荷物を置き、ベッドに横になる。
太陽の香りがして、窓から差し込む日差しが顔にかかった。
寝転がった拍子に宙を舞ったほこりが光を反射して輝く。それを手でつかむと、空気を泳ぐようにほこりが逃げていく。
胸が少しドキドキしていて落ち着かない。義父さんから離れて一人で暮らすのも、誰かの家に泊まるのもはじめてだ(修学旅行とかは除いて)。
「…うん、きっと大丈夫さ」
それに今は確かに僕の人生は彩られている。新品のサッカーシューズを買ってもらった子どものようにワクワクとしている。
『普通客人が来るなら、もう少ししっかり掃除をすべきじゃないのか?』
◯
朝起きたら顔を洗って、朝食を作っていたおばさんに何か手伝うことはないか尋ねる。
おばさんは少し考え込んで、庭の草花に水をあげるよう頼んだ。
「ジョウロはガレージのすぐ側にある水道のところにあるから、そこで水を汲んでお花に水をあげてちょうだい」
「僕に任せ……うわっ!」
「あらあら!」
張り切りながら正面を向こうとした瞬間、ドアに顔をぶつけてしまった。おばさんが火を止めて、慌てて駆けつける。幸い少し鼻と額が赤くなったくらいで問題なかった。
「本当にドジっ子ちゃんなのねぇ…」
「えへへ…」
気を取り直して外に出て、ガレージのジョウロに水を入れて草花に水をあげた。花壇は思ったより広く、何回も往復してようやく水をあげ終えた。
ちょうど葉についた丸い水滴が朝の日を浴びて宝石のように輝いている。この花は日頃から、めいいっぱいおばさんの愛情を受けているんだろう。
家に戻って水やりの報告をしようと思ったら、おじさんが起きてきていてテーブルに腰かけて新聞を読んでいた。
僕に気づくと「おはよう」と挨拶する。僕も頭を下げて返した。
それから手を洗い、三人で食卓を囲んだ。
リビングの隅にはいくつもの写真が飾ってあり、二人の子どもと思われる制服を着た青年の写真もあった。おじさんもおばさんも青年と映る姿は今よりうんと若くて、皺も少ない。
写真の他にはいくつものバッジ? のようなものも飾られている。あのバッジはもしかしてあの青年が取ったものなのかもしれない。僕は賞状すら一度ももらったことがないのにな…。
「そういえば、お父さんはこれから教会に行くのだけれど、あなたも一緒に行く?」
「義父さんがいる修道院の隣にある教会?」
「そうですよ」
「行く! ……じゃなくて、行きます!」
お世話になる人たちだから、敬語は大切だ(ネモ流指導)。
そして、僕は杖をつくおじさんの後に続いて30分ほど歩いた。
小ぢんまりとした街の割に教会はそこそこ大きく、この街もかつては発展していた街なのかもしれない。
礼拝堂にはポツポツと人がいた。
「おじさんはよく祈祷に来るんですか?」
「日曜以外は毎日来ているよ」
「へぇ〜……ん?」
ほとんど毎日来るなんて、おじさんは相当熱心な信徒だ。
ただおかしい。カトリックを信仰する者たちにとって、その『日曜』が一週間の中で一番重要な日だ。
僕もいくら面倒くさがっても、日曜のミサには必ず参加する。
「不思議そうな顔をしているな」
「……おじさんなりの、何かこだわりがあるのかなって?」
「こだわり……と言われれば、そうかもしれない。私にとって日曜は、『空から飛行機が落っこちた』日なんだ」
「空から飛行機が落っこちた日?」
「元々神父だった私が言うのもなんだが、神を信仰するか否かはその人間の自由だ」
「…じゃあもしかして、おじさんは神を信じていないんですか?」
「いや、信仰しているさ。その上で日曜は妻と二人で過ごすことにしているんだよ」
「ふーん……」
話しているうちに祈祷は終わり、教会を出た。来た道を戻りながら、僕はゆっくりと歩くおじさんの後に続く。
その背中が妙に寂しげで、不思議だった。
「おじさんは自分の子どものことをどう思ってるの?」
なぜ自分の口からそんな言葉が出たのか、僕自身イマイチわからない。
でも、何となく聞いてみたかった。神父を辞めて家族を持つことを選んだこの人に、親の姿を強く感じたから。
「…愛しているよ」
「それは……血のつながった実の息子だから?」
「……君の境遇は預かる前に聞いている。あの神父──彼もまた、君に分け隔てない愛情を与えているはずだ」
「うん、義父さんは本当に偉大な人だよ。でも……だからこそ、僕の両親は
「………そうだな」
「もし手紙の一つでも、愛情の一片でも見せていたなら、その証拠を義父さんが今まで見せない理由にはならないから」
僕は両親に愛されていないんじゃないかって。
望まれて生まれた子どもじゃないんじゃないかって。
じゃあそんな僕は、『可哀想な』子どもなのか?
「私は神ではないから、君と君の両親のことはわからない。彼からも君の過去のことを聞かされていない。しかし一つ言えることはある」
おじさんは振り返り、僕の瞳を見つめる。
「神はすべての人間を平等に、そして無条件に愛しているのだよ」
辛い時は神に縋ればよいと、おじさんは語る。
僕が辛い時に話を聞いてもらいたいのは神じゃなくて、ネモなんだけどな。
そもそも神なんて本当にいるかわからないのに。
(……神を信じていれば、ネモも戻ってくるの?)
頼んでも、ネモはまだ戻って来ないのにさ。
『取れ……電話を取るのだ』
ああまた、耳鳴りがする。
・モブ老夫婦
おじいさんは最近足腰が悪くなってきたので、嫁に迷惑がかかる前に老人ホームに入ろうか検討中。
息子はいない。