晴れ時々、雪   作:京極千景

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「天は二物を与えず」という言葉を、あなたは信じているだろうか。

私は、半分だけ信じている。

いや──正確には、信じたかった。

天は一人に多くを与えない。

だからこそ、人は何かを諦め、何かを選び、何かを大切にする。

そういう世界であってほしかった。

けれど、現実は違う。

天は、ときに気まぐれに、残酷なほどに偏る。

一人に、二つどころか、三つも四つも、平然と与える。

そして、何も持たない者のすぐ隣に、その「奇跡」を置く。

逃げ場のない場所に。

比較されるために。

思い知らされるために。

私は、それを知っている。

なぜなら──

その奇跡が、私の妹だからだ。

遠野雪。

それが私の名前だ。

どこにでもいる、普通の人間。

成績は中の上。運動は平均より少し下。顔立ちは、鏡を見るたびに「まあ、こんなものか」と納得できる程度。性格は明るいとは言えない。どちらかと言えば、静かで、目立たない。

「普通」という言葉を、これほど正確に体現している人間も珍しいと思う。

そして──

私には、一つ下の妹がいる。

遠野晴。

その名前を口にするだけで、なぜか胸の奥がわずかに軋む。

晴は、いわゆる“天才”だ。

いや、その言葉では足りない。

勉強は、特別な努力をしている様子もないのに常に一位。

スポーツは、初めて触れる競技でもすぐにコツを掴み、上位に食い込む。

芸術に至っては、ただ基本を教えただけで、人の心を動かす作品を平然と生み出す。

そして──容姿。

十人いれば、十人が振り返る。

誰もが「可愛い」と言う。疑いなく。

さらに性格は天真爛漫で、人懐っこく、どこか天然で。

そのすべてが、周囲の人間を惹きつける。

まるで、最初から“好かれるように設計された存在”みたいに。

私は、そんな晴の姉だった。

並んで歩けば、誰も姉妹だとは思わない。

それは、何度も経験してきたことだった。

「友達?」

そう聞かれるたびに、凛が少し困ったように笑うのを、私は知っている。

そして私は、その横で

「……姉です」

と答える。

その瞬間、相手の表情がほんのわずかに変わるのも、知っている。

驚き。戸惑い。そして、納得できないという気配。

その沈黙が、何よりも雄弁だった。

両親は、晴をよく見ていた。

それは、当然だと思う。

あれだけ優秀で、あれだけ目立つ存在を、見ないほうが不自然だ。

ただ──

その分、私は見られなかった。

比べられることはあっても、見られることはなかった。

「雪も晴を見習いなさい」

「本当に、誰に似たのかしら」

そんな言葉は、何度も聞いた。

責められているわけではない。

ただ、事実を述べられているだけ。

それが、余計に苦しかった。

幼い頃の私は、まだ諦めていなかった。

晴がやらないことをやればいい。

晴がまだ触れていない分野で、私が先に成果を出せばいい。

そう思って、いろんなことに手を出した。

絵を描いた。

ピアノを習った。

読書感想文に力を入れた。

けれど──

晴は、すぐにそれを始める。

そして、あっという間に私を追い抜く。

努力の量なんて関係なかった。

ただ、“出来てしまう”。

その現実が、何よりも残酷だった。

気づけば私は、何かに挑戦する前に、こう考えるようになっていた。

「どうせ、晴がやれば、私より上手くいく」

それは予測ではなく、確信だった。

そして確信は、やがて諦めに変わる。

諦めは、静かに心を侵食していく。

中学に入る頃には、私はすでに“競うこと”をやめていた。

努力は、無意味だと思った。

頑張っても、意味がない。

どうせ勝てない相手が、すぐ隣にいるのだから。

それでも、晴は変わらなかった。

「お姉ちゃん、これ見て!」

「今回のテストね、一位だったんだよ!」

「部活でね──」

嬉しそうに話しかけてくる。

その顔は、純粋だった。

悪意なんて、どこにもない。

だからこそ、苦しかった。

私は笑って相槌を打つ。

「すごいね」

そう言いながら、心の奥で何かが削れていく。

ある日、誰かが言った。

『お前の妹だったらこのくらい余裕だぞ』

別の日には、こんな声も聞いた。

『遠野さんって、晴ちゃんと全然似てないよね』

そして──

『雪も、もう少し頑張りなさい』

そのすべてが、少しずつ私を壊していった。

目に見えないひびが、確実に広がっていく。

ある日、ふと気づく。

「もういいや」

その一言で、何かが完全に終わった。

努力するのをやめた。

授業は、聞いているようで聞いていない。

テストは、そこそこ。

部活も、適当に。

怒られても、響かない。

期待されていないことを知っているから。

そんな私を見て、両親はさらに距離を取った。

関心がないのではなく、関わる価値がないと判断されたような、そんな静かな距離。

それが、かえって楽だった。

けれど晴だけは違った。

変わらず、私に話しかけてくる。

笑いかけてくる。

隣にいようとする。

そのたびに、私は思った。

どうして、そんな顔ができるの。

どうして、私の気持ちに気づかないの。

どうして──

逃げたくなった。

すべてから。

晴からも、この家からも、自分自身からも。

だから私は決めた。

県外の高校を受験する。

寮に入って、ここから離れる。

誰も私を知らない場所へ行く。

父は言った。

「雪の決めたことなら反対しない」

いつも通りの、感情の見えない声だった。

母は少しだけ迷った顔をしていたが、最後には頷いた。

そして──

晴は泣いた。

「なんでそんな遠くなの?」

「近くでいいじゃん……」

その声は、震えていた。

本気で、引き止めていた。

その時、私は思ってしまった。

──ああ、うるさい。

──全部、あんたのせいなのに。

その感情に気づいた瞬間、自分が嫌になった。

だから私は笑って言った。

「ごめんね、もう決めたから」

それ以上、言わせないように。

それ以上、自分が壊れないように。

数ヶ月後、私は美山高校に入学した。

そして──

初めて、“私だけの場所”を手に入れた。

 

寮の朝は、静かだった。

目覚ましが鳴る前に目が覚めることもあれば、ギリギリまで布団に潜っている日もある。誰に急かされることもなく、誰と比べられることもない。

ただ、同じ時間に起きて、同じ制服に袖を通して、同じ教室へ向かう。

その「当たり前」が、こんなにも穏やかなものだとは思わなかった。

ここには、遠野晴がいない。

それだけで、世界はこんなにも軽くなるのかと、最初は戸惑ったほどだった。

美山高校は、特別な学校ではない。

進学校でもなければ、スポーツの名門でもない。

けれど、どこか自由だった。

誰が何をしてもいい、というわけではない。

ただ、「何者であるか」を強制されない。

それだけで、私にとっては十分だった。

軽音楽部の見学に行ったのは、入学して三日目の放課後だった。

教室棟の端にある音楽室から、微かに音が漏れていた。

ギターの歪んだ音。ドラムのリズム。

それに重なる、誰かの歌声。

決して上手いわけではない。

むしろ、粗い。

けれど──

そこには確かに「熱」があった。

胸の奥が、わずかに震えた。

気づけば、私は扉の前に立っていた。

ノックをするか迷っていると、中から声が飛んできた。

「見学?」

振り返ると、先輩らしき短髪の女子が立っていた。

肩にはケースを背負っている。

「あ、はい……」

「入ればいいじゃん。うち、ゆるいから」

そう言って、彼女は扉を開けた。

その一歩が、私の世界を変えた。

部室の中は、思ったよりも狭かった。

アンプがいくつか並び、壁には過去の文化祭の写真が貼られている。

ケーブルが床を這い、少しだけ埃っぽい匂いがした。

けれど、不思議と嫌じゃなかった。

むしろ、落ち着く。

先程声をかけてきた先輩を見ていると、

「ベース、やってみる?」

とベース担当だった先輩が言った。

気づけば、私はベースを渡されていた。

重い。

思っていたよりも、ずっと。

ストラップを肩にかけると、体の中心に重さが落ちてくる。

「ここ押さえて、こう弾く」

言われるままに指を動かす。

──ボン

低く、鈍い音が鳴った。

たったそれだけのことだったのに、心が揺れた。

その瞬間、私は思った。

ああ、これなら。

これなら、晴がいない場所で、私だけの何かになれるかもしれない。

入部を決めるのに、時間はかからなかった。

それからの日々は、驚くほど速く、そして鮮やかだった。

授業が終われば部室に向かう。

楽器を持ち、音を出し、失敗して、笑う。

誰かと合わせて、ズレて、やり直して。

少しずつ、音が重なっていく。

バンドを組むことになった。

ギターの夏紀。ドラムの沙弥香。ボーカルの優子。

そして、ベースの私。

四人で音を合わせたとき、初めて「自分がここにいていい」と思えた。

誰かの“姉”ではなく。

誰かと比べられる存在でもなく。

ただの一人として。

もちろん、最初から上手くいったわけではない。

リズムがズレる。

音を外す。

指が追いつかない。

何度も止まって、何度もやり直した。

けれど、そのすべてが楽しかった。

「雪、今のいいじゃん!」

「そこ、もう一回やろ!」

そんな言葉を、初めて“自分”に向けられた気がした。

評価ではなく、期待でもなく。

ただ、同じ場所にいる人間としての言葉。

それが、こんなにも温かいものだとは知らなかった。

私は、気づかないうちに変わっていた。

授業も、ちゃんと聞くようになった。

テストも、それなりに頑張る。

部活が楽しいから、灰色の世界に色が付く。

 

十月、文化祭。

体育館のステージに立ったとき、足が少し震えた。

客席は暗くて、顔はよく見えない。

けれど、ざわめきが波のように広がっていた。

「準備はいい?」

沙弥香の声。

ドラムがカウントを刻む。

──音が、始まる。

その瞬間、すべてが消えた。

過去も、劣等感も、晴も。

何もかもが、音の中に溶けていく。

指が動く。

体がリズムに乗る。

呼吸が、音と一致する。

観客の反応が、波のように返ってくる。

そのすべてが、心地よかった。

曲が終わったとき、歓声が上がった。

大きくはない。

けれど、確かにそこにあった。

拍手が、私たちに向けられていた。

その瞬間、私は理解した。

ああ、これだ。

私が欲しかったものは。

「雪、最高だった!」

ステージを降りたあと、優子が笑った。

沙弥香も、夏紀も、同じように笑っていた。

その中に、私もいた。

誰かの影じゃない。

代わりでもない。

ここでは、私は私だった。

だから私は、初めて願った。

このまま、この時間が続けばいいと。

──けれど。

文化祭の写真を整理していたときだった。

部室の机に、スマートフォンが置かれていた。

メッセージの通知が鳴る。

送り主の名前が、目に入る。

『晴』

心臓が、ひとつ強く打った。

そこには、こう書かれていた。

『お姉ちゃん、元気?』

『ねえ、今なにしてるの?』

『やっぱり、会いたいな』

短い文面。

けれど、その奥にあるものを、私は感じ取ってしまった。

ただの寂しさではない。

それだけでは、ない。

画面を閉じた。

見なかったことにするように。

その日の夜、ふと考えた。

どうして晴は、あんなに私に執着するのだろう。

何もかも持っているはずなのに。

私なんて、いなくてもいいはずなのに。

その答えを、私はまだ知らない。

そして──

知ろうともしていなかった。

ただ一つ、確かなことがあった。

もし、あの場所に晴が来たら。

この「私だけの場所」は、壊れてしまう。

根拠はない。

けれど、それは予感ではなく、確信だった。

 

春は、静かに終わる。

気づかないうちに、少しずつ温度が変わっていくように。

それと同じで──

私の日常もまた、音もなく変わり始めていた。

二年生になった。

クラス替えがあり、顔ぶれが少し変わる。

けれど、生活の軸は変わらない。

部室へ行って仲間達と音を合わせて、笑って、帰る。

それだけで満たされていた。

あの日までは。

入学式。

在校生として体育館に並ぶ。

新入生代表の挨拶が始まる、とアナウンスが流れた。

何気なく前を見た、その瞬間。

呼吸が止まった。

壇上に立っていたのは──

晴だった。

一瞬、現実感が消えた。

目の前の光景が、遠くなる。

音が歪む。

けれど、晴の声だけは、はっきりと聞こえた。

堂々としていた。

落ち着いていて、よく通る声。

言葉の一つ一つが整っていて、淀みがない。

誰もが聞き入っているのが分かった。

ああ、やっぱり。

どこに行っても、こうなるんだ。

拍手が起きる。

大きな、称賛の音。

それを浴びながら、晴は一礼した。

その姿は、あまりにも“完成されていた”。

式が終わる。

ざわめきが広がる。

「すごくない?」「めっちゃ可愛い」「あの顔で頭いいとかヤバ」

そんな声が、あちこちから聞こえてくる。

逃げたかった。

けれど、足が動かなかった。

「お姉ちゃん!」

その声で、完全に現実に引き戻された。

振り向くと、晴がいた。

満面の笑みで、こちらに駆け寄ってくる。

何も変わっていない顔。

何も知らない顔。

「えへへ!来ちゃった!」

そう言って、当たり前のように抱きついてくる。

周囲の視線が、一斉にこちらに集まった。

「……どうして」

それしか言えなかった。

「だって、お姉ちゃんがいるんだもん」

あまりにも軽く、あまりにも自然に。

晴はそう言った。

その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。

いや、理解したくなかったのかもしれない。

「……なんで、ここなの」

 無意識に漏れた言葉だった。

 晴には聞こえていないようで、

「頑張ったんだよ~、勉強!そしたら受かっちゃった!」

と無邪気に笑う。

悪意なんて、やっぱりどこにもない。

けれど──

その“偶然”が、どれだけ残酷かを、凛は知らない。

「これからよろしくね、お姉ちゃん!」

その一言で、何かが決定的に変わった。

私の中で、静かに築き上げてきたもの。

守ってきた場所。

それが、音もなく軋み始めた。

その日の放課後。

部室に入ると、いつもと少し空気が違った。

「雪!」

優子が手を振る。

けれど、その表情には、どこか“別の色”が混ざっていた。

「ねえねえ、あの子ってさ」

夏紀が言いかけて、少しだけ言葉を選ぶ。

「……妹なんだよね?」

やっぱり。

そうなるよね。

「うん」

それだけ答える。

「やばくない?めっちゃ可愛かったし」

「しかも首席なんでしょう?」

「なんかもう、主人公じゃん」

笑いながら言う。

悪気はない。

ただの感想。

それでも、その一言一言が、胸に刺さる。

「今度、部室連れてきてよ」

沙弥香が何気なく言った。

「……やだ」

思ったよりも強い声が出た。

自分でも驚くくらいに。

一瞬、空気が止まる。

「あ、ごめんなさい……」

沙弥香がすぐに引いた。

気まずい沈黙が落ちる。

「……仲、あんまり良くないんだ」

取り繕うように言う。

半分は本当で、半分は嘘だった。

それ以上、誰も踏み込んでこなかった。

優しさだった。

だからこそ、余計に苦しかった。

数日後。

晴が、部室に来た。

「こんにちはー!」

扉を開けて、ひょこっと顔を出す。

その瞬間、空気が変わった。

「わ、ほんとに妹だ」

「似てる……?いや、でも」

「ていうか、可愛すぎない?」

視線が、すべて晴に集まる。

私は、その外側にいた。

「お姉ちゃんがいつもお世話になってます!」

ぺこりと頭を下げる。

完璧な挨拶。

完璧な笑顔。

「え、いい子じゃん……」

誰かが小さく呟く。

その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かがひび割れた。

晴は、そのまま部室に馴染んだ。

まるで最初からそこにいたかのように。

「ベース、やってみたいな」

ぽつりと、晴が言った。

嫌な予感がした。

「お姉ちゃんがやってるんだよね?」

そう言って、こちらを見る。

純粋な瞳。

逃げ場がなかった。

「……うん」

「教えて?」

断れなかった。

断る理由が、見つからなかった。

ベースを渡す。

あの日、私が初めて触ったのと同じように。

「こう?」

晴が弦を弾く。

──ボン

同じ音が鳴る。

けれど、その響きは、なぜか違って聞こえた。

数日後。

晴は、簡単なフレーズを弾けるようになっていた。

一週間後。

曲の一部を合わせられるようになっていた。

二週間後。

私よりも、上手くなっていた。

「え、やば……」

「普通に上手いじゃん」

「センスあるね」

その評価が、部室に満ちていく。

私は、そこでようやく理解した。

ああ、終わるんだ。

ここも。

この場所も。

この“私”も。

音を出すのが、怖くなった。

比較されるのが怖いのではない。

“同じ土俵に立つこと”そのものが、怖くなった。

「雪、ここさ」

優子が何かを言っている。

けれど、頭に入ってこない。

横で、晴が弾いている。

正確に。

楽しそうに。

その音が、私の居場所を削っていく。

私は、ベースを置いた。

「……ごめん、今日帰る」

それが、最初だった。

 

部室に行かない日が、増えていった。

最初は「たまたま」だった。

体調が悪いとか、課題があるとか。

自分でも納得できる理由を並べて、その場を離れた。

けれど、それはすぐに“習慣”に変わった。

放課後。

チャイムが鳴る。

皆が立ち上がり、それぞれの場所へ向かう。

その流れに乗らず、私は机に残る。

ノートを開く。

けれど、文字は頭に入らない。

行こうと思えば、行ける。

部室はすぐそこにある。

扉を開ければ、いつもの空間があるはずだ。

──でも、もう“いつもの”ではない。

頭の中に浮かぶのは、あの光景だった。

晴が笑っている。

皆がそれを囲んでいる。

その外側に、私がいる。

それを想像しただけで、足が動かなくなる。

「雪、最近来ないね」

ある日、夏紀に声をかけられた。

廊下でばったり会ったときだった。

「ちょっと、忙しくて」

自分でも驚くほど、自然に嘘が出た。

「そっか……」

夏紀は、それ以上何も言わなかった。

優しさだった。

でも、その優しさはどこか遠かった。

少しずつ、距離ができていく。

誰も悪くない。

けれど、確実に何かが変わっていく。

部活を辞める、と言ったのは、その数日後だった。

「え?」

「なんで?」

「急すぎない?」

当然の反応だった。

「ごめん、ちょっと合わなくて」

それらしい理由を口にする。

本当のことは、言えなかった。

「私は認めないわよ!」

「一緒にやろうよ」

「ベース、雪がいいって思ってるからさ」

その言葉が、胸に刺さる。

優しさは、時に残酷だ。

それでも私は、首を振った。

「……もう無理」

それ以上、何も言えなかった。

その日で、私は軽音楽部を辞めた。

音が、消えた。

放課後の時間が、空白になる。

何をしていいのか分からない。

図書室に行ってみる。

寮に早く帰ってみる。

けれど、どこにも居場所がない。

ただ時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。

晴は、変わらなかった。

「お姉ちゃん、一緒に帰ろ!」

「今日ね、こんなことあってね!」

「部活でね──」

以前と同じように、話しかけてくる。

距離を詰めてくる。

私は、それを避けた。

廊下で見かけたら、方向を変える。

寮では時間をずらす。

食堂でも、席を選ぶ。

徹底的に。

それでも、晴は諦めなかった。

「お姉ちゃん!」

呼ばれるたびに、胸がざわつく。

「なんで逃げるの?」

そう聞かれたこともあった。

答えられなかった。

答えてしまえば、全部壊れてしまう気がした。

だから私は、何も言わずに立ち去った。

その頃からだった。

周囲の視線が、少しずつ変わり始めたのは。

「ねえ、あの人さ」

「晴ちゃんのお姉ちゃんらしいよ」

「え、マジで?全然似てなくない?」

聞こえるように話される。

わざとらしい距離で。

慣れているはずだった。

こういう言葉には。

それでも、今回は違った。

ここは、“私が選んだ場所”だったから。

「紹介してよ」

男子にそう言われることも増えた。

「晴ちゃんと仲いいんでしょ?」

「……仲良くない」

そう答えると、ほとんどは引いた。

けれど、全員ではない。

「は?なんで?」

「もしかして、嫉妬?」

「ケチくさ」

笑い声。

軽い言葉。

そのすべてが、少しずつ積み重なっていく。

やがて、噂が広がった。

「遠野姉妹って、血繋がってないらしいよ」

「昔、妹いじめてたんだって」

どこから出たのか分からない話。

けれど、それは妙に“それっぽく”聞こえたのだろう。

人は、物語を好む。

特に、分かりやすい悪役がいる話を。

気づけば私は、その“役”に収まっていた。

最初は、小さな違和感だった。

机の中に入れていたはずのノートがない。

どこかに置き忘れたのかと思った。

けれど、放課後。

トイレのゴミ箱の中で見つけた。

切り刻まれていた。

何も考えられなかった。

ただ、破れた紙を見つめていた。

「……なんで」

声にならない声が漏れる。

背後で、笑い声がした気がした。

それが、始まりだった。

筆箱がなくなる。

教科書が消える。

体操服が見つからない。

日常の中の、小さな“穴”。

最初は偶然だと思おうとした。

次第に、それが“意図”だと分かる。

担任に相談した。

「そういうことは良くないな」

ホームルームで、形式的な注意があった。

それだけだった。

誰も、動かなかった。

そして──

状況は悪化した。

トイレに入る。

個室に入った瞬間、上から水が落ちてくる。

「うわっ……!」

冷たい水が、全身にかかる。

「アハハ!ごめんねぇ!」

「びちょびちょじゃーん」

「カワイソー」

上から聞こえる声。

笑い。

何も言い返せない。

放課後。

男子に呼び出される。

「ちょっと来て」

逆らえない空気。

人気のない場所。

「ねえさ、なんで紹介しないの?」

「自分がブスだから?」

笑いながら、近づいてくる。

肩を押される。

バランスを崩す。

「調子乗ってんじゃねえよ」

髪を掴まれる。

引っ張られる。

痛い。

でも、それ以上に。

何も感じなくなっていく自分が、怖かった。

日が経つごとに、世界の色が薄くなる。

音が遠くなる。

感情が鈍くなる。

ただ、時間だけが過ぎる。

寮に帰る。

制服が濡れている日もあれば、汚れている日もある。

鏡を見る。

そこにいるのは、誰だろうと思う。

遠野雪。

その名前が、少しずつ自分から剥がれていく。

代わりに貼り付けられるのは、別の名前。

「晴の姉」

それだけが、私の存在を説明する言葉になっていく。

──私は、誰だっけ。

その問いに、答えはなかった。

ただ一つだけ、はっきりしていた。

もう、戻れない。

 

風が強い日だった。

窓が、何度も軋む音を立てる。

空は曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。

その日も、いつもと同じだった。

いや──

正確には、「同じであること」に、もう耐えられなくなっていた。

朝、机の中は空だった。

教科書も、ノートも、何もない。

もう驚きもしない。

ただ、何も感じないだけだった。

授業中。

黒板の文字が、読めない。

見えているのに、意味が入ってこない。

笑い声が聞こえる。

誰のものかは分からない。

でも、自分に向けられている気がする。

休み時間。

席に座ったまま、動かない。

動けない。

放課後。

また、呼び出された。

「来て」

それだけで、体が勝手に動く。

人気のない場所。

何度も来た場所。

「さっさとしろよ」

押される。

壁に背中がぶつかる。

「ねえ、なんで紹介しないの?」

「ほんと意味わかんないんだけど」

もう、何度も聞いた言葉。

「……仲良くないから」

やっとのことで、声を出す。

「は?嘘でしょ」

「どうせ嫉妬でしょ」

笑い声。

「ほんとブスって可哀想だよね」

その一言が、やけに鮮明に響いた。

胸の奥で、何かが揺れる。

「……ちが」

言いかけた言葉は、最後まで出なかった。

頬に衝撃が走る。

叩かれたのだと、少し遅れて理解する。

「うざ」

視界が揺れる。

でも、不思議と涙は出なかった。

もう、出るものが残っていなかった。

そのまま、何も言わずにそこを離れた。

止められることもなかった。

価値がないからだ。

外に出ると、風が強くなっていた。

制服が揺れる。

濡れたままの袖が、肌に張り付いて気持ち悪い。

寮に向かう。

足取りは、重いはずなのに、どこか浮いているようだった。

頭の中は、静かだった。

何も考えていない。

いや、考えないようにしていたのかもしれない。

寮の入口に入ったときだった。

「お姉ちゃん!」

その声で、すべてが崩れた。

晴がいた。

いつものように、明るい顔で。

心配そうな目で。

「どうしたのその格好!?濡れてるじゃん!」

駆け寄ってくる。

手を伸ばしてくる。

その瞬間。

何かが、完全に壊れた。

「……なんで」

声が震える。

「え?」

晴が、立ち止まる。

「なんで、晴なの……」

自分でも、何を言っているのか分からなかった。

ただ、止まらなかった。

「なんで、あんたなの……!」

晴の目が、揺れる。

「私だって……」

喉が詰まる。

「私だって、頑張ってるのに……!」

言葉が、溢れる。

「なんで、みんな褒めるのは晴ばっかりなの!?」

胸の奥に押し込めていたものが、全部、外に出る。

「どうして誰も、私を見てくれないの!?」

晴が、何か言おうとする。

でも、止まらない。

「どうして……どうして、私を認めてくれないの……!」

視界が歪む。

「晴がいなければ……!」

その瞬間。

時間が、止まった。

言ってはいけない言葉だった。

分かっていた。

でも、もう遅かった。

「私は……私は……!」

その先は、言えなかった。

晴が、立ち尽くしていた。

目を見開いて。

何も言えずに。

やがて、涙がこぼれる。

ぽつり、ぽつりと。

「……ごめんなさい」

か細い声だった。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

繰り返す。

壊れたように。

違う。

違うのに。

「違う……!」

慌てて言葉を重ねる。

「そんなこと思ってない……!」

嘘だった。

何度も思った。

それでも、否定したかった。

「ただ、ちょっと……今日は……」

言い訳が、空しく崩れる。

「ごめんなさい、お姉ちゃん」

晴が、顔を上げる。

その目は、もうさっきまでのものではなかった。

何かを、決めた目だった。

「私が悪いんだよね」

違う。

「もう絶対に、お姉ちゃんの邪魔はしないから」

違う、違う、違う。

言葉が出ない。

は、そのまま立ち上がった。

「ごめんなさい」

最後にもう一度だけ言って。

走り去った。

手を伸ばすこともできなかった。

呼び止めることもできなかった。

ただ、その背中を見ていることしかできなかった。

静寂が落ちる。

風の音だけが響く。

その場に、一人取り残される。

「……何してるんだろ」

呟いた声は、驚くほど他人事だった。

胸の中が、空っぽだった。

怒りも、悲しみも、何もない。

ただ、決定的な何かが終わったことだけが分かる。

足が動いた。

どこへ向かっているのかも、分からないまま。

気づけば、階段を上っていた。

四階。

さらに上。

屋上の扉。

開かないはずのそれは、簡単に開いた。

強い風が吹き込む。

空は、暗かった。

フェンスに近づく。

手をかける。

冷たい金属の感触。

その向こうには、何もない。

下を見る。

遠い。

でも、不思議と怖くなかった。

「もう、いいや」

声に出した瞬間、すべてが軽くなった。

乗り越える。

風が、体を押す。

ほんの少し、バランスを崩す。

それで、十分だった。

体が、前に傾く。

落ちる。

何もかもが、遠ざかっていく。

最後に見えたのは、暗い空だった。




学生時代に書いたものを供養したく投稿しました。元々は5000文字くらいしかなかったのですが、AIすごいですね。
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