「天は二物を与えず」という言葉を、あなたは信じているだろうか。私は、この言葉を全く信じていない。この言葉は「天は一人の人間に、それほど多くの長所を与えることはしない。」という意味の言葉だ。
しかし、天は、ときに気まぐれに、残酷なほどに偏る。一人に、二つどころか、三つも四つも、平然と与える。そして、何も持たない者のすぐ隣に、その「奇跡」を置く。逃げ場のない場所に。比較されるために。思い知らされるために。私は、それを知っている。なぜなら──その奇跡が、私の妹だからだ。
遠野雪。それが私の名前だ。どこにでもいる、普通の人間。成績は中の上。運動は平均より少し下。顔立ちは、鏡を見るたびに「まあ、こんなものか」と納得できる程度。性格は明るいとは言えない。どちらかと言えば、静かで、目立たない。どこにでもいる平凡な小市民だ。そして──私には、一つ下の妹がいる。
遠野晴。その名前を口にするだけで、なぜか胸の奥がわずかに軋む。晴は、いわゆる“天才”だ。いや、その言葉では足りない。
勉強は、特別な努力をしている様子もないのに常に一位。スポーツは、初めて触れる競技でもすぐにコツを掴み、上位に食い込む。芸術に至っては、ただ基本を教えただけで、人の心を動かす作品を平然と生み出す。
そして──容姿。十人いれば、十人が振り返る。誰もが「可愛い」と言う。疑いなく。さらに性格は天真爛漫で、人懐っこく、どこか天然で。そのすべてが、周囲の人間を惹きつける。まるで、最初から“好かれるように設計された存在”みたいに。私は、そんな晴の姉だった。
晴と並んで歩くと誰も姉妹だとは思わない。それは、何度も経験してきたことだった。
「友達?」
そう聞かれるたびに、凛が少し困ったように笑うのを、私は知っている。そして私は、その横で
「……姉です」
と答える。
その瞬間、相手の表情がほんのわずかに変わるのも、知っている。驚き。戸惑い。そして、納得できないという気配。その沈黙が、何よりも雄弁だった。
両親は、晴をよく見ていた。
それは、当然だと思う。あれだけ優秀で、あれだけ目立つ存在を、見ないほうが不自然だ。
ただ──その分、私は見られなかった。比べられることはあっても、見られることはなかった。
「雪も晴を見習いなさい」
「本当に、誰に似たのかしら」
そんな言葉は、何度も聞いた。責められているわけではない。ただ、事実を述べられているだけ。それが、余計に苦しかった。幼い頃の私は、まだ諦めていなかった。晴がやらないことをやればいい。晴がまだ触れていない分野で、私が先に成果を出せばいい。そう思って、いろんなことに手を出した。絵を描いた。ピアノを習った。読書感想文に力を入れた。
けれど──晴は、すぐにそれを始める。そして、あっという間に私を追い抜く。努力の量なんて関係なかった。ただ、“出来てしまう”。その現実が、何よりも残酷だった。気づけば私は、何かに挑戦する前に、こう考えるようになっていた。
「どうせ、晴がやれば、私より上手くいく」
それは予測ではなく、確信だった。そして確信は、やがて諦めに変わる。諦めは、静かに心を侵食していく。中学に入る頃には、私はすでに“競うこと”をやめていた。努力は、無意味だと思った。頑張っても、意味がない。どうせ勝てない相手が、すぐ隣にいるのだから。
それでも、晴は変わらなかった。
「お姉ちゃん、これ見て!」
「今回のテストね、一位だったんだよ!」
「部活でね──」
嬉しそうに話しかけてくる。その顔は、純粋だった。悪意なんて、どこにもない。だからこそ、苦しかった。私は笑って相槌を打つ。
「すごいね」
そう言いながら、心の奥で何かが削れていく。
ある日、誰かが言った。
「お前の妹だったらこのくらい余裕だぞ」
別の日には、こんな声も聞いた。
「遠野さんって、晴ちゃんと全然似てないよね」
そして──
「雪も、もう少し頑張りなさい」
そのすべてが、少しずつ私を壊していった。目に見えないひびが、確実に広がっていく。ある日、ふと気づく。
「もういいや」
その一言で、何かが完全に終わった。努力するのをやめた。授業は、聞いているようで聞いていない。テストは、そこそこ。部活も、適当に。怒られても、響かない。期待されていないことを知っているから。
そんな私を見て、両親はさらに距離を取った。関心がないのではなく、関わる価値がないと判断されたような、そんな静かな距離。それが、かえって楽だった。
けれど晴だけは違った。変わらず、私に話しかけてくる。笑いかけてくる。隣にいようとする。そのたびに、私は思った。どうして、そんな顔ができるの。どうして、私の気持ちに気づかないの。どうして──
逃げたくなった。すべてから。晴からも、この家からも、自分自身からも。だから私は決めた。県外の高校を受験する。寮に入って、ここから離れる。誰も私を知らない場所へ行く。
父にこのことを話すと、
「雪の決めたことなら反対しない」
いつも通りの、感情の見えない声だった。母は少しだけ迷った顔をしていたが、最後には頷いた。
そして──晴は泣いた。
「なんでそんな遠くなの?」
「近くでいいじゃん……」
その声は、震えていた。本気で、引き止めていた。その時、私は思ってしまった。──ああ、うるさい。──全部、あんたのせいなのに。その感情に気づいた瞬間、自分が嫌になった。だから私は笑って言った。
「ごめんね、もう決めたから」
それ以上、言わせないように。それ以上、自分が壊れないように。
数ヶ月後、私は美山高校に入学した。そして初めて、“私だけの場所”を手に入れた。
寮の朝は、静かだった。目覚ましが鳴る前に目が覚めることもあれば、ギリギリまで布団に潜っている日もある。誰に急かされることもなく、誰と比べられることもない。ただ、同じ時間に起きて、同じ制服に袖を通して、同じ教室へ向かう。その「当たり前」が、こんなにも穏やかなものだとは思わなかった。ここには、遠野晴がいない。それだけで、世界はこんなにも軽くなるのかと、最初は戸惑ったほどだった。
花柳高校は、特別な学校ではない。進学校でもなければ、スポーツの名門でもない。けれど、どこか自由だった。誰が何をしてもいい、というわけではないが、何かを強制されることもなかった。それだけで、私にとっては十分だった。
軽音楽部の見学に行ったのは、入学して三日目の放課後だった。教室棟の端にある音楽室から、微かに音が漏れていた。ギターの歪んだ音。ドラムのリズム。それに重なる、誰かの歌声。決して上手いわけではない。むしろ、粗い。
けれど──そこには確かに「熱」があった。胸の奥が、わずかに震えた。気づけば、私は扉の前に立っていた。ノックをするか迷っていると、中から声が飛んできた。
「見学?」
振り返ると、先輩らしき短髪の女子が立っていた。肩にはケースを背負っている。
「あ、はい……」
「入ればいいじゃん。うち、ゆるいから」
そう言って、彼女は扉を開けた。その一歩が、私の世界を変えた。部室の中は、思ったよりも狭かった。アンプがいくつか並び、壁には過去の文化祭の写真が貼られている。ケーブルが床を這い、少しだけ埃っぽい匂いがした。けれど、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、落ち着く。
先程声をかけてきた先輩を見ていると、
「ベース、やってみる?」
とベース担当だった先輩が言った。気づけば、私はベースを渡されていた。重い。思っていたよりも、ずっと。ストラップを肩にかけると、体の中心に重さが落ちてくる。
「ここ押さえて、こう弾く」
言われるままに指を動かす。──ボン、と低く、鈍い音が鳴った。たったそれだけのことだったのに、心が揺れた。
その瞬間、私は思った。ああ、これなら。これなら、晴がいない場所で、私だけの何かになれるかもしれない。
入部を決めるのに、時間はかからなかった。それからの日々は、驚くほど速く、そして鮮やかだった。授業が終われば部室に向かう。楽器を持ち、音を出し、失敗して、笑う。誰かと合わせて、ズレて、やり直して。少しずつ、音が重なっていく。
バンドを組むことになった。ギターの夏希。ドラムの紅蘭。ボーカルの優子。そして、ベースの私。
四人で音を合わせたとき、初めて「自分がここにいていい」と思えた。誰かの“姉”ではなく。誰かと比べられる存在でもなく。ただの一人として。もちろん、最初から上手くいったわけではない。リズムがズレる。音を外す。指が追いつかない。何度も止まって、何度もやり直した。けれど、そのすべてが楽しかった。
「雪、今のいいじゃん!」
「そこ、もう一回やろ!」
そんな言葉を、初めて“自分”に向けられた気がした。評価ではなく、期待でもなく。ただ、同じ場所にいる人間としての言葉。それが、こんなにも温かいものだとは知らなかった。
私は、気づかないうちに変わっていた。授業も、ちゃんと聞くようになった。テストも、それなりに頑張る。部活が楽しいから、灰色の世界に色が付く。
十月、文化祭。
体育館のステージに立ったとき、足が少し震えた。客席は暗くて、顔はよく見えない。けれど、ざわめきが波のように広がっていた。
「準備はいい?」
紅蘭の声。ドラムがカウントを刻む。──音が、始まる。その瞬間、すべてが消えた。過去も、劣等感も、晴も。何もかもが、音の中に溶けていく。指が動く。体がリズムに乗る。呼吸が、音と一致する。観客の反応が、波のように返ってくる。そのすべてが、心地よかった。
曲が終わったとき、歓声が上がった。大きくはない。けれど、確かにそこにあった。拍手が、私たちに向けられていた。その瞬間、私は理解した。ああ、これだ。私が欲しかったものは。
「雪、最高だった!」
ステージを降りたあと、優子が笑った。紅蘭も、夏希も、同じように笑っていた。その中に、私もいた。誰かの影じゃない。代わりでもない。ここでは、私は私だった。だから私は、初めて願った。
このまま、この時間が続けばいいと。
──けれど。文化祭の写真を整理していたときだった。部室の机に、スマートフォンが置かれていた。メッセージの通知が鳴る。送り主の名前が、目に入る。
『晴』
心臓が、酷く唸った。そこには、こう書かれていた。
『お姉ちゃん、元気?』
『ねえ、今なにしてるの?』
『やっぱり、会いたいな』
短い文面。けれど、その奥にあるものを、私は感じ取ってしまった。ただの寂しさではない。それだけでは、ない。画面を閉じた。見なかったことにするように。
その日の夜、ふと考えた。どうして晴は、あんなに私に執着するのだろう。何もかも持っているはずなのに。私なんて、いなくてもいいはずなのに。その答えを、私はまだ知らない。そして──知ろうともしていなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。もし、あの場所に晴が来たら。この「私だけの場所」は、壊れてしまう。根拠はない。けれど、それは予感ではなく、確信だった。
春は、静かに終わる。気づかないうちに、少しずつ温度が変わっていくように。それと同じで──私の日常もまた、音もなく変わり始めていた。
二年生になった。クラス替えがあり、顔ぶれが少し変わる。けれど、生活の軸は変わらない。部室へ行って仲間達と音を合わせて、笑って、帰る。それだけで満たされていた。あの日までは。
入学式。在校生として体育館に並ぶ。新入生代表の挨拶が始まる、とアナウンスが流れた。何気なく前を見た、その瞬間。呼吸が止まった。壇上に立っていたのは──晴だった。
一瞬、現実感が消えた。目の前の光景が、遠くなる。音が歪む。けれど、晴の声だけは、はっきりと聞こえた。堂々としていた。落ち着いていて、よく通る声。言葉の一つ一つが整っていて、淀みがない。誰もが聞き入っているのが分かった。ああ、やっぱり。どこに行っても、こうなるんだ。
拍手が起きる。大きな、称賛の音。それを浴びながら、晴は一礼した。その姿は、あまりにも“完成されていた”。式が終わる。ざわめきが広がる。
「すごくない?」
「めっちゃ可愛い」
「あの顔で頭いいとかヤバ」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。逃げたかった。けれど、足が動かなかった。
「お姉ちゃん!」
その声で、完全に現実に引き戻された。振り向くと、晴がいた。満面の笑みで、こちらに駆け寄ってくる。何も変わっていない顔。何も知らない顔。
「えへへ!来ちゃった!」
そう言って、当たり前のように抱きついてくる。周囲の視線が、一斉にこちらに集まった。
「……どうして」
それしか言えなかった。
「だって、お姉ちゃんがいるんだもん」
あまりにも軽く、あまりにも自然に。晴はそう言った。その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。
「……なんで、ここなの」
無意識に漏れた言葉だった。晴には聞こえていないようで、
「頑張ったんだよ~、勉強!そしたら受かっちゃった!」
と無邪気に笑う。悪意なんて、やっぱりどこにもない。
けれど──その“偶然”が、どれだけ残酷かを、凛は知らない。
「これからよろしくね、お姉ちゃん!」
その一言で、何かが決定的に変わった。私の中で、静かに築き上げてきたもの。守ってきた場所。それが、音もなく軋み始めた。
その日の放課後。部室に入ると、いつもと少し空気が違った。
「雪!」
優子が手を振る。けれど、その表情には、どこか“別の色”が混ざっていた。
「ねえねえ、あの子ってさ」
夏希が言いかけて、少しだけ言葉を選ぶ。
「……妹なんだよね?」
やっぱり。そうなるよね。
「うん」
それだけ答える。
「やばくない?めっちゃ可愛かったし」
「しかも首席なんでしょう?」
「なんかもう、主人公じゃん」
笑いながら言う。悪気はない。ただの感想。それでも、その一言一言が、胸に刺さる。
「今度、部室連れてきてよ」
紅蘭が何気なく言った。
「……やだ」
思ったよりも強い声が出た。自分でも驚くくらいに。一瞬、空気が止まる。
「あ、ごめんなさい……」
紅蘭がすぐに引いた。気まずい沈黙が落ちる。
「……仲、あんまり良くないんだ」
取り繕うように言う。半分は本当で、半分は嘘だった。それ以上、誰も踏み込んでこなかった。優しさだった。だからこそ、余計に苦しかった。
数日後。
晴が、部室に来た。
「こんにちはー!」
扉を開けて、ひょこっと顔を出す。その瞬間、空気が変わった。
「わ、ほんとに妹だ」
「似てる……?いや、でも」
「ていうか、可愛すぎない?」
視線が、すべて晴に集まる。私は、その外側にいた。
「お姉ちゃんがいつもお世話になってます!」
ぺこりと頭を下げる。完璧な挨拶。完璧な笑顔。
「え、めっちゃいい子……」
誰かが小さく呟く。その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かがひび割れた。
晴は、そのまま部室に馴染んだ。まるで最初からそこにいたかのように。
「ベース、やってみたいな」
ぽつりと、晴が言った。嫌な予感がした。
「お姉ちゃんがやってるんだよね?」
そう言って、こちらを見る。純粋な瞳。逃げ場がなかった。
「……うん」
「教えて?」
断れなかった。断る理由が、見つからなかった。ベースを渡す。
あの日、私が初めて触ったのと同じように。
「こう?」
晴が弦を弾く。──ボン
同じ音が鳴る。けれど、その響きは、なぜか違って聞こえた。
数日後。晴は、簡単なフレーズを弾けるようになっていた。
一週間後。曲の一部を合わせられるようになっていた。
二週間後。私よりも、上手くなっていた。
「え、やば……」
「普通に上手いじゃん」
「センスあるね」
その評価が、部室に満ちていく。私は、そこでようやく理解した。ああ、終わるんだ。ここも。この場所も。この“私”も。
音を出すのが、怖くなった。比較されるのが怖いのではない。“同じ土俵に立つこと”そのものが、怖くなった。
「雪、ここさ」
優子が何かを言っている。けれど、頭に入ってこない。横で、晴が弾いている。正確に。楽しそうに。その音が、私の居場所を削っていく。私は、ベースを置いた。
「……ごめん、今日帰る」
それが、最初だった。
部室に行かない日が、増えていった。
最初は「たまたま」だった。体調が悪いとか、課題があるとか。自分でも納得できる理由を並べて、その場を離れた。けれど、それはすぐに“習慣”に変わった。
放課後。チャイムが鳴る。皆が立ち上がり、それぞれの場所へ向かう。その流れに乗らず、私は机に残る。ノートを開く。けれど、文字は頭に入らない。行こうと思えば、行ける。部室はすぐそこにある。扉を開ければ、いつもの空間があるはずだ。
──でも、もう“いつもの”ではない。頭の中に浮かぶのは、あの光景だった。晴が笑っている。
皆がそれを囲んでいる。その外側に、私がいる。それを想像しただけで、足が動かなくなる。
「雪、最近来ないね」
ある日、夏希に声をかけられた。廊下でばったり会ったときだった。
「ちょっと、忙しくて」
自分でも驚くほど、自然に嘘が出た。
「そっか……」
夏希は、それ以上何も言わなかった。優しさだった。でも、その優しさはどこか遠かった。少しずつ、距離ができていく。誰も悪くない。けれど、確実に何かが変わっていく。部活を辞める、と言ったのは、その数日後だった。
「え?」
「なんで?」
「急すぎない?」
当然の反応だった。
「ごめん、ちょっと合わなくて」
それらしい理由を口にする。本当のことは、言えなかった。
「私は認めないわよ!」
「まだ、一緒にやりたい」
「ベース、雪がいいって思ってるからさ」
その言葉が、胸に刺さる。優しさは、時に残酷だ。それでも私は、首を振った。
「……もう無理」
それ以上、何も言えなかった。その日で、私は軽音楽部を辞めた。
音が、消えた。
放課後の時間が、空白になる。
何をしていいのか分からない。図書室に行ってみる。寮に早く帰ってみる。けれど、どこにも居場所がない。ただ時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。晴は、変わらなかった。
「お姉ちゃん、一緒に帰ろ!」
「今日ね、こんなことあってね!」
「部活でね──」
以前と同じように、話しかけてくる。距離を詰めてくる。
私は、それを避けた。廊下で見かけたら、方向を変える。寮では時間をずらす。食堂でも、席を選ぶ。徹底的に。
それでも、晴は諦めなかった。
「お姉ちゃん!」
呼ばれるたびに、胸がざわつく。
「なんで逃げるの?」
そう聞かれたこともあった。答えられなかった。答えてしまえば、全部壊れてしまう気がした。だから私は、何も言わずに立ち去った。その頃からだった。周囲の視線が、少しずつ変わり始めたのは。
「ねえ、あの人さ」
「晴ちゃんのお姉ちゃんらしいよ」
「え、マジで?全然似てなくない?」
聞こえるように話される。わざとらしい距離で。慣れているはずだった。こういう言葉には。それでも、今回は違った。ここは、“私が選んだ場所”だったから。
「紹介してよ」
男子にそう言われることも増えた。
「晴ちゃんと仲いいんでしょ?」
「……仲良くない」
そう答えると、ほとんどは引いた。けれど、全員ではない。
「は?なんで?」
「もしかして、嫉妬?」
「ケチくさ」
笑い声。軽い言葉。そのすべてが、少しずつ積み重なっていく。
やがて、噂が広がった。
「遠野姉妹って、血繋がってないらしいよ」
「昔、妹いじめてたんだって」
どこから出たのか分からない話。けれど、それは妙に“それっぽく”聞こえたのだろう。人は、物語を好む。特に、分かりやすい悪役がいる話を。気づけば私は、その“役”に収まっていた。
最初は、小さな違和感だった。机の中に入れていたはずのノートがない。どこかに置き忘れたのかと思った。
けれど、放課後。トイレのゴミ箱の中で見つけた。切り刻まれていた。何も考えられなかった。ただ、破れた紙を見つめていた。
「……なんで」
声にならない声が漏れる。背後で、笑い声がした気がした。
それが、始まりだった。筆箱がなくなる。教科書が消える。体操服が見つからない。日常の中の、小さな“違和感”。最初は偶然だと思おうとした。次第に、それが“意図”だと分かる。
担任に相談した。
「そういうことは良くないな」
ホームルームで、形式的な注意があった。それだけだった。誰も、動かなかった。
そして──状況は悪化した。
トイレに入る。個室に入った瞬間、上から水が落ちてくる。
「うわっ……!」
冷たい水が、全身にかかる。
「アハハ!ごめんねぇ!」
「びちょびちょじゃーん」
「カワイソー」
外から聞こえる声。笑い。何も言い返せない。
放課後。男子と女子のグループに呼び出される。
「ちょっと来て」
逆らえない空気。人気のない場所。
「ねえさ、なんで紹介しないの?」
「自分がブスだから?」
笑いながら、近づいてくる。肩を押される。バランスを崩す。
「調子乗ってんじゃねえよ」
髪を掴まれる。引っ張られる。痛い。でも、それ以上に。何も感じなくなっていく自分が、怖かった。
日が経つごとに、世界の色が薄くなる。音が遠くなる。感情が鈍くなる。ただ、時間だけが過ぎる。寮に帰る。制服が濡れている日もあれば、汚れている日もある。鏡を見る。そこにいるのは、誰だろうと思う。
遠野雪。その名前が、少しずつ自分から剥がれていく。代わりに貼り付けられるのは、別の名前。
「晴の姉」
それだけが、私の存在を説明する言葉になっていく。
──私は、誰だっけ。
その問いに、答えはなかった。ただ一つだけ、はっきりしていた。もう、戻れない。
風が強い日だった。窓が、何度も軋む音を立てる。空は曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。
その日も、いつもと同じだった。
いや──正確には、「同じであること」に、もう耐えられなくなっていた。
朝、机の中は空だった。教科書も、ノートも、何もない。もう驚きもしない。ただ、何も感じないだけだった。授業中。黒板の文字が、読めない。見えているのに、意味が入ってこない。笑い声が聞こえる。誰のものかは分からない。でも、自分に向けられている気がする。
休み時間。席に座ったまま、動かない。動けない。
放課後。また、呼び出された。
「来て」
それだけで、体が勝手に動く。人気のない場所。何度も来た場所。
「さっさとしろよ」
押される。壁に背中がぶつかる。
「ねえ、なんで紹介しないの?」
「ほんと意味わかんないんだけど」
もう、何度も聞いた言葉。
「……仲良くないから」
やっとのことで、声を出す。
「は?嘘でしょ」
「どうせ嫉妬でしょ」
笑い声。
「ほんとブスって可哀想だよね」
その一言が、やけに鮮明に響いた。胸の奥で、何かが揺れる。
「……ちが」
言いかけた言葉は、最後まで出なかった。頬に衝撃が走る。叩かれたのだと、少し遅れて理解する。
「うざ」
視界が揺れる。でも、不思議と涙は出なかった。もう、出るものが残っていなかった。そのまま、何も言わずにそこを離れた。止められることもなかった。価値がないからだ。
外に出ると、風が強くなっていた。制服が揺れる。濡れたままの袖が、肌に張り付いて気持ち悪い。寮に向かう。足取りは、重いはずなのに、どこか浮いているようだった。頭の中は、静かだった。何も考えていない。いや、考えないようにしていたのかもしれない。
寮の入口に入ったときだった。
「お姉ちゃん!」
その声で、すべてが崩れた。晴がいた。いつものように、可愛い顔で。心配そうな目で。
「どうしたのその格好!?濡れてるじゃん!」
駆け寄ってくる。手を伸ばしてくる。
その瞬間。何かが、完全に壊れた。
「……なんで」
声が震える。
「え?」
晴が、立ち止まる。
「なんで、晴なの……」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。ただ、止まらなかった。
「なんで、あんたなの……!」
晴の目が、揺れる。
「私だって……」
喉が詰まる。
「私だって、頑張ってるのに……!」
言葉が、溢れる。
「なんで、みんな褒めるのは晴ばっかりなの!?」
胸の奥に押し込めていたものが、全部、外に出る。
「どうして誰も、私を見てくれないの!?」
晴が、何か言おうとする。でも、止まらない。
「どうして……どうして、私を認めてくれないの……!」
視界が歪む。
「晴がいなければ……!」
その瞬間。時間が、止まった。言ってはいけない言葉だった。分かっていた。でも、もう遅かった。
「私は……私は……!」
その先は、言えなかった。晴が、立ち尽くしていた。目を見開いて。何も言えずに。やがて、涙がこぼれる。ぽつり、ぽつりと。
「……ごめんなさい」
か細い声だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
繰り返す。壊れたように。違う。違うのに。
「違う……!」
慌てて言葉を重ねる。
「そんなこと思ってない……!」
嘘だった。何度も思った。それでも、否定したかった。
「ただ、ちょっと……今日は……」
言い訳が、空しく崩れる。
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
晴が、顔を上げる。その目は、もうさっきまでのものではなかった。何かを、決めた目だった。
「私が悪いんだよね」
違う。
「もう絶対に、お姉ちゃんの邪魔はしないから」
違う、違う、違う。言葉が出ない。晴は、そのまま立ち上がった。
「ごめんなさい」
最後にもう一度だけ言って。走り去った。手を伸ばすこともできなかった。呼び止めることもできなかった。ただ、その背中を見ていることしかできなかった。
静寂が落ちる。風の音だけが響く。その場に、一人取り残される。
「……何してるんだろ」
呟いた声は、驚くほど他人事だった。胸の中が、空っぽだった。怒りも、悲しみも、何もない。
ただ、決定的な何かが終わったことだけが分かる。足が動いた。どこへ向かっているのかも、分からないまま。
気づけば、階段を上っていた。四階。さらに上。屋上の扉。開かないはずのそれは、簡単に開いた。
強い風が吹き込む。空は、暗かった。フェンスに近づく。手をかける。冷たい金属の感触。その向こうには、何もない。
下を見る。遠い。でも、不思議と怖くなかった。
「もう、いいや」
声に出した瞬間、すべてが軽くなった。乗り越える。風が、体を押す。ほんの少し、バランスを崩す。それで、十分だった。体が、前に傾く。
落ちる。何もかもが、遠ざかっていく。
最後に見えたのは、暗い空だった。