「天は二物を与えず」という言葉を、私は知っている。
小学生の頃に国語の授業で習った。先生は黒板にその言葉を書いて、「一人の人間に、たくさんの才能が与えられるわけではない、という意味ですね」と言った。私は、そのとき笑った。だって。そんなの、嘘だから。
私は、勉強ができた。運動も、だいたい何でもできた。絵を描けば褒められた。歌えば褒められた。人前に立てば、拍手された。顔を見れば「可愛い」と言われた。何かを始めれば、すぐに「才能がある」と言われた。
だから、私はずっと、自分は恵まれているのだと思っていた。幸せなのだと、何も困ることなんてないのだと。少なくとも、周りの人はそう思っていた。私自身も、そう思おうとしていた。でも、一つだけ。どうしても手に入らないものがあった。
お姉ちゃんからの「すごいね」。それだけだった。
私には、一つ上の姉がいる。
遠野雪。私が世界で一番好きな人。そして、世界で一番、私から遠い人。
小さい頃。
私は、いつもお姉ちゃんの後ろを歩いていた。
「お姉ちゃん、待ってー!」
そう言うと、お姉ちゃんは必ず立ち止まってくれた。
「晴、遅いよ」
少し困ったような顔をして。でも、ちゃんと待っていてくれた。私は、その顔が好きだった。
学校から帰るときも。買い物に行くときも。公園で遊ぶときも。私はいつもお姉ちゃんの後ろにいた。お姉ちゃんが見ているものを見たかった。お姉ちゃんが好きなものを好きになりたかった。お姉ちゃんが笑うなら、私も笑いたかった。
私は、昔から物覚えが良かった。両親が教えてくれたことは、すぐに覚えた。数字も。文字も。歌も。 運動も。周りの大人たちは、いつも喜んだ。
「晴ちゃんは本当に賢いね」
「すごいね」
「この子は将来楽しみだ」
褒められるたびに、私は嬉しかった。
でも。嬉しいはずなのに。なぜか、お姉ちゃんの顔を見ると不安になった。お姉ちゃんは、笑っていた。
「すごいね、晴」
そう言って。頭を撫でてくれた。だから私は笑った。
「えへへ」
でも。その手が離れると。なぜか胸が痛かった。私は、褒められることが好きだった。でも。お姉ちゃんに褒められることは、もっと好きだった。
だから。私は頑張った。テストで一位を取れば、お姉ちゃんが喜んでくれると思った。運動会で一番になれば、すごいと言ってくれると思った。絵を描けば、見てくれると思った。ピアノを弾けば、聴いてくれると思った。何かをするたびに。私は、お姉ちゃんを探していた。
「お姉ちゃん、これ見て!」
「うん」
「どう?」
「すごいよ」
「ほんと?」
「ほんと」
その言葉だけで、一日中幸せだった。
だから。私は知らなかった。その「すごいよ」が。お姉ちゃんにとって、どれほど苦しい言葉だったのか。子どもの私は、何も知らなかった。ただ、お姉ちゃんが大好きだった。だから、真似をした。お姉ちゃんが読んでいる本を読んだ。お姉ちゃんが好きな音楽を聴いた。お姉ちゃんがやっていることなら、何でもやってみた。
すると。いつも褒められた。それが、いけなかったのかもしれない。
ある日。
お姉ちゃんが描いた絵を見つけた。私は、それを真似して描いた。自分では上手く描けたと思った。
「お姉ちゃん、見て!」
お姉ちゃんは、しばらく黙っていた。
「……上手だね」
「ほんと?」
「うん」
その声が、いつもより少し小さかった。私は気づかなかった。気づけなかった。
「じゃあ、こっちも描いてみる!」
そう言って、私は笑った。お姉ちゃんも笑った。
でも、今思えば。あれは、笑っていなかったのかもしれない。
私はずっと、お姉ちゃんのことを見ていた。でも、お姉ちゃんの気持ちは、見ていなかった。
中学生になった頃。
私は、少しずつ周りから特別扱いされるようになった。
「晴ちゃんって何でもできるよね」
「天才じゃん」
「羨ましい」
そんな言葉を聞くたびに。私は笑った。
「そんなことないよー」
本当は、嬉しかった。嬉しかったけれど。そのたびに、お姉ちゃんのことが頭に浮かんだ。お姉ちゃんは、どう思っているんだろう。
私は、怖くなった。
だから。なるべく、お姉ちゃんの前では普通にしようと思った。テストで一位を取っても。
「まあ、たまたまだよ」
運動で褒められても。
「日頃の努力が実った!」
絵を褒められても。
「全然だよー!」
そう言うようにした。でも、お姉ちゃんはいつも、
「すごいね」
と言った。
だから私は。もっと頑張った。いつか、お姉ちゃんが私を見て。
「晴が妹でよかった」
そう言ってくれる日が来ると思っていた。
でも、その日は来なかった。
中学三年生の冬。
お姉ちゃんが県外の高校を受験すると聞いた。
「……え?」
最初は意味が分からなかった。
「寮に入るの」
お姉ちゃんは、淡々と言った。
「どうして?」
「ここにいる必要がないから」
その言葉が妙に胸に残った。
「私がいるから?」
そう聞きたかった。でも、聞けなかった。怖かった。もし、
「そうだよ」
と言われたら。私はどうすればいいのか分からなかった。
「近くの高校じゃダメなの?」
「もう決めたから」
「……そっか」
笑った。笑わなければいけないと思った。
「頑張ってね、お姉ちゃん」
そう言った。
その日の夜。布団の中で、私は泣いた。お姉ちゃんがいなくなる。それだけで、世界がなくなるような気がした。私は、何でも持っている。そう言われてきた。
だけど、私には、お姉ちゃんしかいなかった。友達はいた。先生もいた。両親もいた。私を褒めてくれる人は、たくさんいた。
でも私が本当に欲しかったのは。お姉ちゃんからの「すごいね」だった。
春。
お姉ちゃんが家を出た。
「じゃあね」
私は笑った。
「また連絡するから」
「うん」
「ちゃんとご飯食べてね」
「分かってる」
「寮の人と仲良くしてね」
「晴」
「なに?」
「大丈夫だから」
そう言って、お姉ちゃんは薄く笑った。
私は笑い返した。
「うん」
車が遠ざかる。見えなくなるまで手を振った。そして。見えなくなった瞬間。私は泣いた。
それから。家が広くなった。お姉ちゃんがいないだけでこんなに静かになるんだと思った。
私は、何度もメッセージを送った。
『お姉ちゃん、元気?』
『今日ね、テストだった!』
『こっちは雨だよ』
『そっちはどう?』
短いけれど返事は来る。ちゃんと返してくれるだから私は安心した。まだお姉ちゃんと私は繋がっている。そう思っていた。
ある日。私は学校で友達に言われた。
「晴って、お姉ちゃんと仲いいの?」
「うん!」
「へえ」
「大好きだよ」
そう答えると、友達は笑った。
「いいなー。私はお姉と仲悪いから」
私は、その言葉が少し羨ましかった。仲が悪いということはまだ、相手を意識しているということだから。私はお姉ちゃんに嫌われることが怖かった。
だから、高校を決めるとき少しの恐怖があった。それでも私は、お姉ちゃんのいる学校を選んだ。
もちろん。家族には別の理由を言った。
「この学校、いいなと思って」
嘘ではない。本当の理由でもない。決めた理由は一つだった。
お姉ちゃんに会いたかった。
合格したとき。私は嬉しかった。これでまた、お姉ちゃんと一緒にいられる。そう思った。
入学式の日。
入試の結果が良かった私は新入生代表を任された。名前を呼ばれ、壇上に立った。
たくさんの人がいる。その中から私が探していたのは一人だけだった。
いた。私のお姉ちゃん。少し驚いた顔をしている。私は嬉しくなった。ちゃんと見てくれている。そう思った。
式が終わったあと私はお姉ちゃん探すために走った。
「お姉ちゃん!」
見つけると私は抱きついた。久しぶりだった。嬉しかった。本当に、本当に嬉しかった。
「えへへ! 来ちゃった!」
そう言ったとき。お姉ちゃんの顔が。一瞬だけ、凍った。お姉ちゃんは、
「……どうして」
と言った。
「だって、お姉ちゃんがいるんだもん」
胸が痛かった。でも、私は笑った。
「頑張ったんだよ~勉強!そしたら受かっちゃった!」
冗談交じりに言ったが、本当は必死だった。お姉ちゃんに会うために。お姉ちゃんと同じ場所に行くために。私は、ずっと頑張った。
でも、お姉ちゃんは。嬉しくなさそうだった。それでも私は。その理由を考えなかった、考えたくなかった。だって。やっと会えたんだから。
その日の放課後。
私は、お姉ちゃんの部活についていった。
「こんにちはー!」
お姉ちゃんが部室の扉を開ける。先輩達が振り返る。少し緊張した。
その気持ちを圧し殺して笑った。
「お姉ちゃんがいつもお世話になってます!」
そう言うとみんなが笑ってくれた。嬉しかった。お姉ちゃんの友達。お姉ちゃんの場所。お姉ちゃんが大切にしているもの。それを知りたかった。そこに私も入れたらいいと思った。
だから。
「ベース、やってみたいな」
と言った。
「お姉ちゃんがやってるんだよね?」
私は笑って、お姉ちゃんを見た。
「教えて?」
お姉ちゃんは少し黙ってから。ベースを渡してくれた。重かった。
「こう?」
弦を弾く。音が鳴る。みんなが笑った。
「おお」
「いいじゃん」
私は嬉しくなった。
「楽しい!」
そう言った。そのとき、お姉ちゃんは笑っていなかった。でも私はそれを見なかったことにした。
私はお姉ちゃんと一緒にやりたかった。だから練習した。寮でも、学校でも。時間があれば触った。すぐに弾けるようになった。周りの人は褒めてくれた。
「晴、センスあるね」
「覚えるの早すぎ」
「普通に上手いじゃん」
嬉しかった。だけどお姉ちゃんだけは何も言わなかった。私はそれが一番苦しかった。
もっと練習した。もっと上手くなればお姉ちゃんも褒めてくれると思った。
でも上手くなるほど。お姉ちゃんは遠くなった。
ある日。
お姉ちゃんが部室に来なかった。次の日も来なかった。
先輩が、
「雪、最近どうしたんだろうね」
と私は聞いてきた。私は笑って、
「忙しいんじゃないですか?」
と答えた。本当は不安でいっぱいだった。
お姉ちゃんにメッセージを送った。
『今日、帰り一緒に帰ろ!』
返事はなかった。
次の日。
『お姉ちゃん、怒ってる?』
返事はなかった。その日の夜。
『ごめんね』
とお姉ちゃんに送った。何に対して謝っているのか。自分でも分からなかった。ただ、謝らなければいけない気がした。私はお姉ちゃんを傷つけている。そのことだけは少しずつ分かってきた。だけど、お姉ちゃんがどうして傷ついているのか分からなかった。
私は何でもできる。そう言われてきた。だから人の気持ちも分かると思っていた。でもお姉ちゃんの気持ちだけは何一つ分からなかった。
お姉ちゃんがバンドの人と部活についてと話しているのを聞いてしまった。お姉ちゃんが部活を辞めると言っていた。
「……もう無理」
その言葉を聞いた瞬間。胸が冷たくなった。私が追い込んだ。そう思った。
部活を辞めてからのお姉ちゃんは私を避けるようになった。廊下で会っても目を逸らす。食堂でも席を離す。帰ろうと言っても、
「先に帰って」
と言われる。
私は嫌われたのだと思った。嫌だった、そう思いたくなかった。だから
「お姉ちゃん!」
「今日ね、部活で」
「一緒に帰ろ!」
返事がなくても。話しかけた。
私の行動が悪かったのか変な噂が広がっていった。最初は気づかなかった。
「遠野姉妹って血繋がってないらしいよ」
そんな話を聞いた。
「昔、雪がお姉ちゃんのこといじめてたんだって」
そんな話も。私は否定した。
「違うよ」
「お姉ちゃんはそんなことしないよ」
でも、誰も聞かなかった。人は自分が信じたい話を信じる。そしていつの間にかお姉ちゃんは悪者になっていた。
私は怖くなった。助けたかった。だけど私が何か言えば。余計にお姉ちゃんが傷つく気がした。だから何もできなかった。
それが一番いけなかった。お姉ちゃんが何かされている。そう気付いた時にはもう遅かった。
ある日。廊下の端で。お姉ちゃんを見かけた。制服が濡れていた。私は駆け寄ろうとした。
「お姉ちゃん!」
お姉ちゃんは私を見ると逃げた。
私はその場に立ち尽くした。
どうして、私から逃げるのお姉ちゃん。
その日の夜。
私は眠れなかった。何度もメッセージを打って消した。
『大丈夫?』
消す。
『何かあった?』
消す。
『私にできることある?』
消す。
最後に。
『お姉ちゃん、好きだよ』
と打った。でも送れなかった。怖かった、それすらお姉ちゃんを苦しめる気がした。そしてあの日が来た。
風の強い日だった。
私は寮の入口でお姉ちゃんを待っていた。
最近ずっと様子がおかしかったから、ちゃんと話そうと思っていた。逃げないで、ちゃんと話して。ちゃんと謝って。ちゃんと笑って。昔みたいに戻りたかった。だから待っていた。
そしてお姉ちゃんが帰ってきた。制服は濡れていた。髪も乱れていた。
「お姉ちゃん!」
駆け寄る。
「どうしたのその格好!? 濡れてるじゃん!」
私は本当に心配だった。手を伸ばした。その瞬間、
「……なんで」
お姉ちゃんの声がした。
「え?」
「なんで、晴なの……」
意味が分からなかった。
「お姉ちゃん?」
「なんで、あんたなの……!」
初めてだった。お姉ちゃんが私に向かって。そんな声を出したのは。
「私だって……」
お姉ちゃんの声が震える。
「私だって、頑張ってるのに……!」
胸が痛くなった。
「なんで、みんな褒めるのは晴ばっかりなの!?」
その瞬間、私は理解した。やっと、やっと少しだけお姉ちゃんが何に苦しんでいたのか。
「どうして誰も、私を見てくれないの!?」
私のせいだった。全部、私のせいだった。私はずっとお姉ちゃんの隣にいた。お姉ちゃんの真似をして、お姉ちゃんより上手くなって、お姉ちゃんが大切にした場所まで奪っていた。
「晴がいなければ……!」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。ああ、そうなんだ。私はお姉ちゃんにとって邪魔だったんだ。
「……ごめんなさい」
涙が出た。止まらなかった。
「ごめんなさい……」
何度謝っても足りなかった。
「私が悪いんだよね」
お姉ちゃんが何か言おうとした。でも私はもう聞けなかった。
「もう絶対に、お姉ちゃんの邪魔はしないから」
それだけ言って私は逃げた。お姉ちゃんからではない、自分自身から。私はただお姉ちゃんに「すごいね」と言ってほしかった。でも、もうその願いは叶わないのかもしれない。
部屋に戻って私は一人で泣いた。何時間も何度も。お姉ちゃんとの思い出を思い返した。
小さい頃、手を繋いで歩いたこと。一緒にアイスを食べたこと。雨の日に傘を忘れた私にお姉ちゃんが自分の傘を傾けてくれたこと。全部、全部大切だった。なのに私はその大切な人を傷つけていた。
私は何でもできると思っていた。でも大切な人を守ることだけはできなかった。
私は一つだけ決めた。お姉ちゃんの邪魔をしない。もうお姉ちゃんの前に現れない。私がいなくなればお姉ちゃんはまた笑えるかもしれない。軽音楽部のみんなとまた音楽ができるかもしれない。誰かと比べられることもなくなるかもしれない。私はそれでいいと思った。だってお姉ちゃんが笑えるなら。私はそれだけでよかった。
机の引き出しを開ける。中にあったカッターナイフを手に取った。これで、お姉ちゃんは自由になれる。そう思った。それなのに、どうしてだろう。手が、震えていた。怖いのかもしれない。死にたくないのかもしれない。それでも、頭の中にはお姉ちゃんの顔ばかりが浮かんでいた。
「……ごめんね、お姉ちゃん」
カッターナイフを首に当てて思いっきり、切り裂く。最後に見えたのは赤く染まる床だった。