高慢令嬢は、毎晩毛布で反省会をしている 作:高校ジャージ10年目
王立アカデミーの卒業記念パーティー。それは、数多の貴族子女にとって青春の幕引きであり、新たな社交界への門出である。
大ホールの天井に吊るされたクリスタル・シャンデリアは、魔法の光を浴びて無数の虹を床に振り撒いていた。芳醇な花の香りと、最高級の香水の香りが混じり合い、会場には独特の熱気が立ち込めている。
その熱気の中心にいるのは、今夜、正式に王太子アルベルトとの婚約が発表されることになっているセレフィーナ・ルクセリアだった。
「…リタ。鏡を見なさい。今日の私は、一点の曇りもない完璧な公爵令嬢に見えるかしら?」
「はい、お嬢様。外見だけは、神々が総力を挙げて造形したかのように完璧です。ただ、その握りしめた扇が悲鳴を上げています。心拍数も、先ほどから全力疾走中の軍馬並みですが、大丈夫ですか?」
セレフィーナは、重厚なドレスの胸元をそっと押さえた。
内心は、およそ「完璧」とは程遠いパニック状態にあった。
(おおお落ち着くのよ、セレフィーナ。今日こそ、今日という日こそ、私の人生を縛り続けてきた『出力バグ』に打ち勝つのよ。アルベルト殿下があれほど真っ直ぐな愛を注いでくれたのだから、私はそれに応えなければならない。今日、この場で、『愛しています』とだけ言えばいいの。たった六文字よ。これまでの罵倒の語彙力に比べれば、あまりにも短い、奇跡の六文字…!)
しかし、彼女の脳内にある「高慢フィルター」は、主人の緊張に比例してかつてないほどのパニック状態に入っていた。処理速度が上がりすぎて、もはや善意と悪意の境界線が火花を散らしてショート寸前である。
会場の隅で呼吸を整えていたセレフィーナに、一人の令嬢が近づいてきた。
完璧な所作、冷徹なまでに知的な瞳。クラリス・ド・マルクである。彼女は手にしたグラスを軽く傾け、セレフィーナをじっと見つめた。
「セレフィーナ様。ついに、逃げ場のない夜が来ましたわね」
「…ふん。逃げ場? 心外ですわ。私にあるのは、王家へと続く輝かしいレッドカーペットだけですわよ」
(嘘よクラリス! 今すぐこのカーペットを丸めて、その中に隠れて実家に帰りたいくらいよ!)
クラリスは、セレフィーナの震える指先を、扇の陰からそっと見つめた。彼女はこれまでの数々の事件を経て、確信に近い疑念を抱いていた。この稀代の高慢令嬢は、もしかすると、世界で一番不器用なだけなのではないか、と。
「あなたのその言葉。今夜、大勢の貴賓の前で、本当に殿下を愛していると…そう告げる勇気がありますの? それとも、最後までその『鉄の仮面』に守られ、真実を隠し通すおつもり?」
セレフィーナは、クラリスの瞳に宿る「期待」のようなものに気づいた。彼女は敵としてではなく、一人の理解者として自分を試している。
「…見ていなさいな、クラリス。ルクセリアの女が、土壇場で愛に背を向けることなどありませんわ」
(そうなのよクラリス! 私は今夜、バグごと自分を投げ出す覚悟よ! 見ていて、私の最高の『愛しています』を!)
楽団の演奏が静かに止まり、会場に緊張が走った。
ホール中央の壇上に、国王陛下と王妃殿下、そして銀髪を月光のように輝かせたアルベルトが姿を現した。
「皆、聞いてくれ。今夜、私はこの素晴らしい学び舎の卒業と共に、私の生涯を共にする伴侶を皆に紹介したい」
アルベルトの声は、広大なホールに深く、心地よく響き渡った。彼は迷いのない足取りでセレフィーナの元へ歩み寄り、その手を取った。
「ルクセリア公爵令嬢、セレフィーナ。君こそが、私の苦難を共に分かち合い、私の心を誰よりも強く揺さぶった女性だ。…私は、君を愛している。改めて問おう。君は俺と共に、この国の未来を歩んでくれるか?」
会場から、溜息のような歓声が漏れる。
セレフィーナの視界は、込み上げる涙で白く霞んでいた。
これまでの日々。
「泥水を啜りなさい」と言いながら絆創膏を貼ったあの日。
「道連れにしてやる」と言いながら彼を崖から引き揚げたあの日。
彼はいつだって、私の最悪な言葉の奥にある、震えるような善意を見つけ出してくれた。
(愛しています、アルベルト殿下。あなただけが、私の不器用な魂を救ってくれた。私は一生、あなたのそばで、あなたを守り、支え続けると誓います。私の心臓は、あなたのために動いているのですわ…!)
全細胞が、愛を叫んでいた。
セレフィーナは、溢れる想いを口にした。
だが、極限まで圧縮された「純粋な愛」のエネルギーは、彼女の喉にある「出力バグ回路」を完全に溶融させ、人類がこれまで目にしたことのないレベルの「暗黒物質」へと変異した。
「…当然ですわ。これほど使い勝手の良い『所有物』を、他の誰かに譲るはずがありませんもの」
会場が、凍りついた。
だが、バグは止まらない。一度決壊したダムのように、呪詛が愛の濁流となって溢れ出す。
「…いい機会ですわ。ここで全世界に宣戦布告して差し上げます! アルベルト、今日この時から、貴様の人生を完膚なきまでに叩き潰し、逃げ場のない絶望の果てまで私が常時監視して差し上げますわ! 息の根が止まるその最期の瞬間まで、私の呪縛から一歩たりとも逃れられると思わないことですわね!!」
完全なる静寂。
国王陛下は持っていたワイングラスを落とし、王妃殿下は扇で顔を覆って卒倒しかけ、列席した貴族たちは「暗殺予告か!?」「国家転覆の合図か!?」と武器に手をかけようとした。
(あああああああ!! 違う! 違うのよ!! 『一生そばにいたい』って言いたいだけなのに、なんで、常時監視とか言っちゃったの!? 完全にストーカーの宣戦布告だわ、これ死刑よ、明日には地下牢行きよ私!!)
「…素晴らしい。なんという…なんという深淵なる独占欲!!」
その沈黙を破ったのは、ソフィアの恍惚とした叫びだった。
「愛の最終形態は破壊であり、支配!! 経典『セレフィーナ伝』最終章にふさわしい、聖なる宣戦布告ですわ!! ああ、世界が…世界が彼女の愛で焼き尽くされる…!」
しかし、当のアルベルトは動かなかった。
彼は真っ赤な顔をして立ち尽くし、やがて、その肩を大きく震わせ始めた。
「…く、ふふ…ははははははは!!」
アルベルトが、爆笑した。
王族としての仮面をかなぐり捨て、腹を抱えて笑い転げた。
「参ったな…! さすがはセレフィーナだ。これほどまでに凄絶で、これほどまでに熱烈な求婚を、俺は一生忘れないよ。…受けて立とうじゃないか、セレフィーナ。俺の人生、君に徹底的に叩き潰してもらうのを、心から楽しみにしているよ」
(…えっ!?)
アルベルトは、呆然とするセレフィーナを強引に抱き寄せ、震える彼女をその広い胸の中に閉じ込めた。
「…今の、世界で一番素敵な『愛してる』だったよ。俺を地獄の果てまで監視してくれるんだろう? 光栄だ。君の呪縛なら、喜んで一生囚われよう」
深夜。ルクセリア公爵邸のセレフィーナの寝室。
パーティーから戻った彼女は、ドレスを脱ぎ捨て、リタに手伝われてナイトドレスに着替えた。
いつもなら、この瞬間から「地獄の反省会」が始まるはずだった。
だが、今夜のセレフィーナは、静かに窓辺に座っていた。
「…リタ」
「はい、お嬢様。本日の失言数、もはや国家予算並みの天文学的数字により計測不能です。不敬罪でいつ憲兵が来てもおかしくありませんが、なぜか殿下からは『明日の朝食も楽しみだ』というメッセージが届いております」
「…そうね。私、あんなに酷いことを言ったのに。あんなに世界を恐怖に陥れたはずなのに。…不思議ね、リタ。胸が、あの日のお弁当を食べてもらった時よりも、ずっと温かいの」
セレフィーナは、自らの指先を見つめた。
もう、言葉の事故を恐れて震える必要はない。
どんなにバグまみれの言葉を吐き出したとしても、それを「愛」として受け取ってくれる人が、この世界にたった一人、確実に存在することを知ったから。
セレフィーナは、ベッドの上に丁寧に畳まれていた「反省会用」の厚手の毛布を手に取った。
そして、それをクローゼットの奥へと、静かに、感謝を込めて片付けた。
「…リタ。明日の手紙、なんて書こうかしら」
「また『奈落の果てで待て』とでも書くのですか?」
「いいえ、もっと酷いわよ。『逃げ出そうとしたら、首輪を付けて檻に閉じ込めますわ』…にするつもりよ」
「『死ぬまで離さないで、愛しています』の正常出力ですね。承知いたしました」
セレフィーナは、月明かりの下で微笑んだ。
その笑顔には、もう「高慢」な毒など一滴も混じっていなかった。
彼女はゆっくりと、毛布を被ることなく、柔らかな布団に身を沈めた。
この日セレフィーナは初めて毛布反省会をしなかった。