高慢令嬢は、毎晩毛布で反省会をしている 作:高校ジャージ10年目
王立アカデミーの演習場は、熱気と歓声に包まれていた。
年に一度の剣術大会。若き貴族たちが技を競うこの行事は、社交の場としても重要で、観覧席には色とりどりのドレスを纏った令嬢たちがひしめいている。
その最前列。ひときわ豪華な天幕の下に、セレフィーナ・ルクセリアは端然と座っていた。
背筋は完璧に伸び、扇を持つ指先は優雅に揃い、その双眸は演習場を見渡す冷たい光をたたえている。
隣の令嬢が「さすがセレフィーナ様…剣術大会すら処刑場の視察みたい」と震えているのも、無理はなかった。
(違うの。清々しいどころか、心臓が口から飛び出しそうなの)
セレフィーナは膝の上のハンカチを、指先に力を込めてぎゅっと握りつぶした。
(人が殴り合うのを見るのがそもそも怖い。今すぐ帰りたい。お布団の中でマリモみたいに丸まっていたい)
「お嬢様」リタが耳元で囁く。
「ハンカチが無惨なことになっております」
「…少し、獲物を待つ時間が長すぎたようですわ」
(獲物じゃない。婚約者よ。怪我しないでって祈ってるだけよ。リタ、今の発言、記録しないで)
そこへ、おずおずとした気配が近づいてきた。
エミリアだ。子鹿のように体を縮めながら、それでも瞳には不思議な光を宿して立っている。
「あの、セレフィーナ様…お隣、よろしいでしょうか」
(来たああああ! もちろんいいわよ! 一緒に応援しましょう! さあカモン!)
「…随分と図々しいことですわね。私の視界に入る許可を与えた覚えはありませんわ。勝手になさい」
(な ん で!! 「どうぞ」って言えばいいだけなのに!!)
しかしエミリアは「ありがとうございます…!」と嬉しそうに腰を下ろした。
セレフィーナは密かに眩暈を覚えながら、演習場へ視線を戻した。
ファンファーレが鳴り響き、アルベルトが入場した。
白銀の鎧。腰の剣の柄には、例のお守りが結ばれている。あの、「首を絞めろ」と呪詛を吐きながら渡した、夜な夜な指を針で刺しながら縫ったお守りが。
「アルベルト様、素敵ですわー!」
令嬢たちが黄色い声を上げる中、アルベルトは無表情に歩みを進め、最前列のセレフィーナの前でぴたりと足を止めた。
目が合った。
(王子! 頑張って! 「負けても私はあなたの味方よ」って、聖母のような慈愛に満ちた笑顔で伝えるのよセレフィーナ!)
精一杯の「親愛」を込めて、ゆっくりと口角を上げた。
つもりだった。
連日の寝不足と極度の緊張が重なり、その表情は「獲物の逃げ場を塞いだ捕食者の笑み」へと変換された。さらに、無意識に右手の扇をパサリと開く。ルクセリア公爵家において「交渉決裂」を意味する、あの動作で。
「…セレフィーナ様の扇って、まさか—」
「『一分以内に終わらせなければ失望する』という合図…?」
周囲がざわめく中、アルベルトはその「死の宣告」を受け取り、グッと顎を引いた。かつてないほど鋭い目で剣を抜く。
「…わかった、セレフィーナ。手加減なしで行けということだな」
(そうじゃない!! ただ扇を振って「頑張れー」ってやりたかっただけなの! 相手の人が泣きそうな顔してるじゃない!!)
試合が始まると、アルベルトの動きには迷いがなかった。
相手の防御をこじ開け、主導権を握る。しかし相手も実力者だった。
一瞬の隙を突き、剣先がアルベルトの肩当てを掠める。金属が擦れる嫌な音。体勢が微かに崩れた。
(殿下!)
セレフィーナは身を乗り出しそうになった。心臓が止まりかける。怪我は。痛みは。
貴族令嬢が試合中に立つのは無作法。叫ぶのは論外。
しかし「心配」と「焦燥」は喉の奥で圧縮され、最悪の形で爆発した。
静まり返った演習場に、鈴を転がすような、しかし極寒の冷気を帯びた声が響いた。
「…情けない」
観客席が、凍りついた。
(違う!! 「殿下ならもっとできるはず、負けないで!」って言いたかっただけなの! なんで私の語彙は『情けない』の四文字に収束するの!? 神様、今すぐ私の喉を工事して!!)
しかしアルベルトは、膝をつきかけた体勢から、信じられない速さで顔を上げた。
その瞳は—怒りでも絶望でもなく、何かに取り憑かれたような歓喜に満ちていた。
次の瞬間、彼は地面を蹴った。相手の剣を弾き飛ばし、喉元に切っ先を突きつける。
「勝者、アルベルト殿下!!」
爆発的な歓声の中、エミリアがぽつりと呟いた。
「…セレフィーナ様って、すごいです。あの一言で、殿下の目が変わりました。あんなふうに相手を信じられるの、私には」
セレフィーナは、真っ白になった頭で辛うじて答えた。
「…当然ですわ。私にできないことなど、この世にございませんの」
(嘘よ。今の私は足が震えて椅子から立ち上がることすらできないのよ。エミリア、お願いだからそのまま私をお家に連れて帰って)
表彰式を終えたアルベルトが、汗を拭いながら一直線に歩いてきた。
鎧を脱いだ服は運動で濡れ、肩が微かに上下している。いつもの完璧な王子という壁を越えた、一人の青年の気配があった。
「セレフィーナ。見ていてくれたか」
(ああ、よかった…本当によかった…怪我もなくて、勝てて…。お疲れ様って言いたい。頑張ったね、誇らしいって、頭を撫でてあげたいくらい…)
視界が微かに潤む。感情が昂り、鉄の仮面が剥がれそうになる。
今なら言える。昨夜、毛布の中で練習した、あの五文字。
(言うのよ。「おめでとうございます」—!)
深呼吸をして、震える唇を開いた。
「…及第点ですわ」
(あああああああああ!!!!!!)
及第点って何。及第点ってどこから来たの。練習では「おめでとうございます」だった。「おめでとう」は五文字。及第点も四文字。なぜ及第点が選ばれたの。私の口の中に住んでいる何かと、今すぐ真剣に話し合いが必要だわ。
アルベルトは一瞬、呆然とした。
そして—短く笑った。
社交界向けの作り物ではない。心底から込み上げてきたような、少し疲れ混じりの、素の笑顔で。
「…君の『及第点』は、どうやら私には最高の褒め言葉らしい。次は、君を『満点』と言わせるような戦いを見せよう」
彼はそう言って、踵を返した。
セレフィーナは石像のように固まったまま、その背中を見送った。
(…ずるい。あんな顔、反則じゃない…)
顔が熱い。心臓が、試合中よりも激しく脈打っている。
それは、これまで「恐怖」として処理してきたドキドキとは、明らかに種類が違うものだった。
その夜。
ルクセリア公爵邸の寝室で、毛布の塊が激しくのたうち回っていた。
「及第点! 私、及第点って言ったのよ! 優勝した婚約者に向かって! どんな採点官なの私は!!」
「お嬢様、ベッドのバネが悲鳴を上げています」
リタが淡々とカモミールティーを差し出す。
「本日の収穫です。殿下は自室に『及第点』と書いた額縁を飾ろうとして、周囲に止められたそうです」
「…そう」
「止めた者を一喝されたそうで、結局飾られたようです」
「王子もおバカなの!?」
セレフィーナは毛布から顔を出した。髪は乱れ、頬が赤く染まっている。
「…ねえ、リタ。殿下、最後、笑ってたわよね」
「はい」
「あんなふうに笑う人だったかしら」
「さあ。お嬢様の毒舌という名のスパイスが、殿下の…」
「続きは聞かなくていいわ」
セレフィーナは再び毛布に潜り込んだ。
(「おめでとう」が言えなかった…。でも、及第点って言った時の殿下の顔…かっこよかったなんて、絶対に認めないんだから…)
毛布の中で、昼間の笑顔がどうしても浮かんでくる。必死に押しつぶそうとするのに、浮かんでくる。
「本日の失言数、二件。過去最少タイを記録しました」
「…動揺しすぎて口が動かなかっただけよ」
「成長ですね」
「うるさい」
高慢令嬢の「反省会」は今夜から少しだけ、甘酸っぱい「後悔」へと形を変え始めた。