高慢令嬢は、毎晩毛布で反省会をしている   作:高校ジャージ10年目

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聖女が現れた。

 

 ルクセリア公爵邸の朝は、絶望の味で始まった。

 

セレフィーナは、毛布の繭の中から顔を出すことすら拒否していた。

 

「…リタ。もう一度言って。私の聞き間違いであってほしいから」

 

「承知いたしました。アルベルト殿下は昨夜、お嬢様が授けた『及第点』という言葉を金色の額縁に入れ、自室の最も目立つ場所に飾られたそうです。職人を呼び、直筆の筆跡を忠実に再現させたとのこと。殿下は『これでいつでも己を律することができる』と大変満足げなご様子でした」

 

「あああああああああああああ!!!」

 

毛布が激しく波打つ。

 

及第点。昨日の、あの、心臓が口から飛び出しそうだった剣術大会で、一世一代の「おめでとう」を言い損ねて出力された、あの四文字。

 

それが今や、王子の部屋のインテリアになっている。

 

「なんで額縁…! なんで王子の部屋に私の失言が常設されてるのよ! あの人、将来の国王なのよ!? 臣下に『これは何ですか』って聞かれたらどう答えるつもりなの!?」

 

「『婚約者からの愛の鞭である』と、誇らしげに答えられるでしょうね。既にお城では、お嬢様の『及第点』は、高みを目指す者への至高の祝福であるという噂が広まっております。殿下の側近たちも『自分たちも及第点を頂けるよう精進せねば』と息巻いているとか」

 

「深くない!! 全く深くないわよ!! 私の言葉を額縁に入れないで! 崇拝しないで! 誰かあの部屋に強盗に入って、あの額縁だけ盗んでちょうだい!!」

 

「無茶を仰らないでください。さて、お嬢様。絶望の時間は終了です。本日は隣国より聖女ソフィア様がいらっしゃいます。殿下の幼馴染だそうですから、公爵令嬢として完璧な対応を」

 

(…幼馴染。聖女。ソフィア様)

 

セレフィーナは、ようやく毛布から這い出た。

 

心臓の奥が、昨日とは違う理由で、ちくりと痛んだ。

 

 

午後の交流会。王宮のサロンは、芳醇な紅茶の香りと、着飾った貴族たちの社交辞令で満たされていた。

 

その中心に、彼女はいた。

 

聖女ソフィア。

 

流れるような金髪、慈愛に満ちた柔らかな微笑。彼女が笑うだけで、周囲に目に見えない光が差しているような錯覚さえ覚える。

 

そして、その隣にはアルベルトがいた。

 

いつもはセレフィーナの毒舌に戦々恐々としている(と彼女は思っている)彼が、今はリラックスした様子でソフィアと談笑している。

 

(…別に。政略結婚だもの。彼が誰と仲良くしようと、私には関係ありませんわ)

 

セレフィーナは扇を握りしめた。

 

指先が冷たくなっている。胸のあたりが、得体の知れないモヤモヤとしたもので満たされていく。まるで、発酵に失敗した樽の中を見ているような、不快なざわつき。

 

「あなたがセレフィーナ様ね! アルベルトからたくさん聞いてますわ!」

 

ソフィアが、一点の曇りもない笑顔でこちらへ歩み寄ってきた。

 

(アルベルトから…? 何を? 私の失言集? 額縁に飾るほど頭がおかしい婚約者の話?)

 

「『婚約者はいつも私を正しい方向へ導いてくれる。彼女の言葉は、暗闇を照らす雷光のようだ』って、本当に嬉しそうに話してくれました。素敵な関係ですわね!」

 

(導いてない! 全部交通事故よ! 王子、外で私の変な噂を流さないで!!)

 

焦った。何か言わなければ。

 

隣国からの賓客。外交問題。公爵令嬢として、最高に歓迎していることを示さなければ。

 

(「はるばる、よくいらっしゃいました」…よし、言える。今度こそ、練習通りに!)

 

「…聖女とは名ばかり。あなたの光は、照らすというより周囲の目を眩ませるだけですわね」

 

(またやったあああああ!! 最悪よ! 嫌味どころか、聖女の存在意義を真っ向から否定しちゃった!! なんで! なんで私の口はこんなに好戦的なの!?)

 

会場が静まり返る。

 

アルベルトですら「セレフィーナ…」と息を呑む。

 

しかし、ソフィアは違った。

 

彼女は驚いたように目を見開いた後、その瞳を熱狂的なまでの感動で潤ませたのだ。

 

「『目を眩ませる光』…そう、あまりに強い光は、本質を隠し、人々を盲目にさせる…。私は己の力を過信し、無意識に傲慢になっていたのかもしれませんわ…。セレフィーナ様、なんて深く、宗教的な警告…! あなた様は、神の代弁者なのですか…!?」

 

「は?」

 

(違う!! ただの失言よ!! 解釈が宗教の域に入ってるわよソフィア様!!)

 

ソフィアは、セレフィーナの手を両手で握りしめた。

 

「セレフィーナ様って、アルベルトのこと、本当に好きなんですね」

 

「っ—! な、何を」

 

「だってあのお守り。アルベルト、宝物のように見せてくれたんです。一針一針、誰かへの思いがこもっている刺繍って、私、聖女ですからすぐわかるんですよ。あんなに熱い祈りが込められた刺繍、私は初めて見ましたわ」

 

セレフィーナは、顔から火が出るかと思った。

 

何も言えない。言い返せない。

 

沈黙を誤魔化すために、バサリと扇を開いて顔の半分を隠す。

 

「その扇の開き方…! まるで傷つきやすい御心を守る盾のよう…! ああ、なんて気高いの…!」

 

(扇をただ開いただけよ!! 盾じゃないわよ!!)

 

 

休憩中。人目のない廊下のテラスで、セレフィーナは一人、深くため息をついた。

 

手元のハンカチを、無意識に折っては広げ、広げては折っている。

 

「…あの。セレフィーナ様、大丈夫ですか」

 

そっと声をかけてきたのは、エミリアだった。

 

彼女は、以前のように怯えてはいなかった。心配そうに、セレフィーナの顔を覗き込んでいる。

 

「何が」

 

「さっきから、ハンカチを折りたたんだり広げたりしてます。三十回くらい」

 

(見られてた!!)

 

「…心配は無用ですわ。私は、次の言葉を選んでいただけですの」

 

「…殿下の部屋の額縁のこと。クラスで笑っている人もいました。でも…」

 

エミリアは、少しだけ勇気を出したように言葉を続けた。

 

「私は、あれってすごく純粋だと思うんです。『この人の言葉を大事にしたい』って。殿下にとって、セレフィーナ様の言葉は、たとえ厳しくても、何よりの宝物なんだなって」

 

セレフィーナは、固まった。

 

扇を握る指先が、微かに震える。

 

(エミリア…。そういう見方も、できるのね)

 

いつもなら、ここですかさず「不敬ですわ」とか「浅はかですわね」とか、頼んでもいない事故発言が飛び出してくるはずだった。

 

しかし、今は不思議と、言葉が出てこない。

 

喉の奥に、言葉ではない温かい塊が詰まっているような感覚。

 

セレフィーナは、ゆっくりと扇を開き、自分の顔を隠した。

 

「…あなたは、お人好しが過ぎますわ」

 

(ありがとう。それだけは、今、素直に思ってるわ)

 

エミリアが、小さく笑った。

 

それは、昨日までの「怯える信者」の笑顔ではなく、初めて対等な友人に向けられるような、柔らかいものだった。

 

セレフィーナは思った。

 

私の言葉は、いつも事故ばかり。

 

でも、こうして黙っていれば…伝わることもあるのだろうか。

 

 

 

その夜。公爵邸の寝室では、やはり毛布の塊が静かに、しかし激しく震えていた。

 

「…ざわざわした。胸が。あれは嫉妬なの? 私が? 聖女様に?」

 

「お嬢様、本日のハンカチ折りたたみ回数は三十七回でした」

 

リタが、冷めたカモミールティーをテーブルに置く。

 

「数えてたの!?」

 

「経験則です。だいたいこのくらいの回数のときは、お嬢様が己の醜い感情…失礼、繊細な感情と向き合っているときですので」

 

「言わなくていいわよ!!」

 

セレフィーナは、毛布の中に深く潜り込んだ。

 

暗闇の中で、アルベルトがソフィアに向けていた笑顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。

 

(嫉妬なんて。だって私はただ、政略結婚の相手として、彼を…)

 

(…殿下の笑顔が、あの人に向いてたのが、嫌だっただけ)

 

(嫉妬じゃないわ。所有権の問題よ。婚約者なんだから当然の…)

 

(…いいえ。嫉妬だわ)

 

(…………嫉妬だったわ)

 

毛布の中が、静かになった。

 

セレフィーナは、今夜初めて、その感情に名前をつけた。

 

そして、その名前を認めた瞬間、あまりの気恥ずかしさに、毛布の中で丸まって悶絶した。

 

「お嬢様。本日の失言数、二件。過去最少タイに並びました」

 

「…動揺しすぎて、口が動かなかっただけよ」

 

「お嬢様が黙っているとき。それは、お嬢様が一番正直なときですね」

 

「…うるさい」

 

セレフィーナ・ルクセリアは今夜、生まれて初めて「嫉妬」という感情を覚えた。

 

そして翌朝には、全力でその感情を忘れることにした。

 

だが、彼女はまだ知らない。

 

彼女が「目を眩ませる光」と呼んだ聖女ソフィアが、自室で「セレフィーナ様、尊い…」と、新たな経典を書き始めようとしていることを。

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