高慢令嬢は、毎晩毛布で反省会をしている   作:高校ジャージ10年目

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ライバル登場!?

 ルクセリア公爵家の避暑地、エメラルド湖畔に佇む白亜の別荘。

 

夏の日差しは都会の熱気を忘れさせるほどに涼やかで、窓から吹き込む風には森の香りが混じっている。

 

 セレフィーナ・ルクセリアは、テラスの藤椅子に深く腰掛け、冷えた果実水を口に含んだ。

 今日の彼女は、いつもの隙のない縦ロールではなく、緩く編み下ろした髪に、軽やかなリネンのドレスを纏っている。

 

 (最高だわ。アカデミーの課題も、社交界の陰口も、ここではただの幻。令嬢の仮面も、今日は七割くらいに落として……のんびり、ゆったり。ああ、心が洗濯されていくようだわ……)

 

 「セレフィーナ様、隣の別荘に……クラリス様がいらっしゃるみたいです」

 

 「…ぶふっ!?」

 

 優雅に飲んでいた果実水が、品位を失った音を立てて逆流した。

 エミリアが慌ててハンカチを差し出す。

 

 「お、お隣? あの、他人の一挙手一投足をすべて哲学的命題にすり替える、あのクラリス・ド・マルク令嬢が?」

 

 「はい。先ほどリタさんに聞いたところ、ご挨拶に来られるとか。それと、王家の避暑地もこの近くだそうで…アルベルト殿下もご一緒だそうです」

 

 セレフィーナは天を仰いだ。

 洗濯されて真っ白だったはずの心が、一瞬でどす黒い雲に覆われていく。

 

 (油断した。この夏は、油断したらいけなかったんだわ。七割に落とした仮面の隙間に、あの方たちが全力で突進してくるなんて!)

 

 「…お嬢様。慌ててドレスを着替えようとしても間に合いません。足音が聞こえてまいりました」

 

 リタの声と同時に、庭の向こうから見覚えのある銀髪の青年が姿を現した。

 

 (最悪だわ。今日の私は、鎧(ドレス)も盾(仮面)も半分しか装備していないのに!)

 

 アルベルトはセレフィーナの姿を見ると、一瞬だけ足を止め、目を丸くした。

 

 「…セレフィーナ」

 

 「…殿下。不躾に人の庭へ踏み込むなんて、王族の教育を疑いますわ」

 

 (訳:こんな格好のときに見ないで! 恥ずかしくて死にそうなの!)

 

 アルベルトは怒るどころか、どこか呆然とした様子で彼女を見つめていた。

 

 「…君がそんな格好をするんだな。似合っている」

 

 「…っ!」

 

 セレフィーナは固まった。

 いつもなら「皮肉ですわね」とか「私の美しさに言葉もありませんの?」とか、ろくでもない迎撃ミサイルが出るはずだった。

 

 しかし、今日の彼女は「油断」していた。

 

 「…そうですわ。似合って当然ですわ。当たり前のことをわざわざ…ありがとうございます」

 

 「…え?」

 

 「…え?」

 

 セレフィーナも、アルベルトも、後ろで控えていたリタも、全員がフリーズした。

 

 (「ありがとうございます」が出た!! 事故なしで、そのまま出た!! 初めて素直にお礼が言えたじゃないの私!!)

 

 アルベルトの顔が、見たこともないほど緩んだ。

 彼は口元を抑え、少し照れたように視線を逸らす。

 

 「…そうか。なら、良かった」

 

 その温かい空気を切り裂くように、鋭い声が響いた。

 

 「あら、アルベルト殿下。こちらにいらしたのですね」

 

 クラリス・ド・マルク。

 完璧に整えられたドレス。隙のない歩法。そして、すべてを見透かそうとする深い双眸。

 

 彼女はセレフィーナの隣に立つと、流れるような動作でカーテシーをした。

 

 「セレフィーナ様。殿下との特別な夏を邪魔してしまったかしら。…あら、その装い。なるほど、あえて『無防備』を演出することで、殿下の庇護欲を刺激するという高度な計略…深い、深いですわ」

 

 「計略じゃありませんわよ! これはただの部屋着……いえ、避暑地用の装いですわ!」

 

 (この令嬢、相変わらず言葉の変換機能がバグってるわね! 私に似てるけれど方向性が真逆だわ!)

 

 クラリスはアルベルトに対し、正確で非の打ち所のない社交辞令を繰り出し始めた。

 一語一句が、意図した通りに。一寸の狂いもなく。

 

 セレフィーナは、それを見つめるしかなかった。

 

 (…正確だわ。クラリスの言葉は、ちゃんとアルベルト殿下に届いている。私のように事故を起こして、罵倒や呪詛に化けることもなく。あんなふうに言葉を扱えたら、どんなに楽かしら…)

 

 「…セレフィーナ様、殿下と過ごす夏はいかがですの? やはり、婚約者として特別な時間を過ごされているのでしょう?」

 

 クラリスの問い。

 セレフィーナは胸の奥がチクリとするのを感じながら、口を開いた。

 

 「…特別も何も。殿下は私にとって、監視対象ですわ」

 

 (違う!! 「かけがえのない大切な人」って言いたかったのに! なんで監視対象!? 夏休みまで公務の続きみたいじゃない!)

 

 クラリスが目を細める。

 

 (…監視対象。愛や恋ではなく、存在そのものを注視し続けるという宣言。あの方はそんな言葉まで使う。…計算か。それとも…)

 

 アルベルトは苦笑しながら、しかしどこか嬉しそうに言った。

 

 「監視されているなら、粗相のないようにしなければな」

 

 「…勝手になさるがいいですわ!」

 

 クラリスは帰り際、セレフィーナだけに聞こえる小声で耳打ちした。

 

 「…セレフィーナ様、一つだけ聞いてもいいですか」

 

 「…何?」

 

 「…あなたの目が、たまに、ひどく素直に見えることがあります。まるで、その言葉のすべてが『嘘』であるかのように。…あれは、何ですの?」

 

 セレフィーナは言葉を失った。

 クラリスは答えを待たず、優雅に去っていった。

 

 夕暮れ。

 湖面が赤く染まり、水鳥の声だけが静寂の中に響いている。

 

 エミリアは先に別荘へ戻り、湖畔にはセレフィーナとアルベルトの二人だけが残されていた。

 

 (何か言わなければ。でも何を。クラリスの言葉は正確に届く。私の言葉は全部事故を起こす。それでも……なぜ、この人は私の隣から離れないのかしら)

 

 「君は、夏が好きか?」

 

 不意の問いに、セレフィーナの高慢フィルターが追いつかなかった。

 

 「…好きですわ」

 

 (言えた。普通に答えられたわ。どうして? 夏の話だから? それとも、このオレンジ色の光のせいで、脳が正常に動いているのかしら)

 

 「そうか。俺も、夏が好きだ」

 

 「…なぜ?」

 

 「剣の稽古が増える。汗をかくのが嫌いじゃない。それと、君がアカデミーより少し、力が抜けているのを見られるから。…さっきの挨拶も、悪くなかった」

 

 セレフィーナは、顔に血が上るのを感じた。

 ずっと見られていた。自分が油断して、不器用にお礼を言った瞬間を。

 

 (恥ずかしい。でも…)

 

 夕陽の中で、高慢なフィルターが溶けていく。

 心臓がドクンと跳ねた。

 

 セレフィーナは、隣に立つ青年の横顔を見つめた。

 

 「…殿下は」

 

 「ん?」

 

 「…アル」

 

 一文字。

 彼の愛称が、唇の端まで出かかって——止まった。

 

 (ダメ。今呼んだら、本当にもう、戻れなくなってしまう。令嬢としての私も、意地っ張りな私も、全部消えてしまう)

 

 彼女は、喉元までせり上がった感情を、力技で押し戻した。

 

 「…アルベルト殿下は、本当に、余計なことばかり気づきますわね」

 

 アルベルトは微かに目を見開いた。

 今の沈黙。言いかけた言葉。彼はそれを、確かに聞き届けたようだった。

 

 「余計なことかどうかは、君が決めることじゃない」

 

 アルベルトの声は低く、そしてどこまでも優しかった。

 

 「君は、明かりがある方がいい。ちゃんと顔が見えるから」

 

 そう言った彼の目は、セレフィーナの嘘の奥にある真実を、じっと見つめていた。

 

 その夜、別荘の寝室。

 エミリアが隣室で寝ているため、セレフィーナはいつもより控えめに、毛布の塊となっていた。

 

 「…アル、って言いかけた。私、アルって言いかけたわリタ」

 

 「左様ですか。あいにく、私の記録手帳には既にその一文字が刻まれております」

 

 「記録しないで!!」

 

 リタは静かに筆を置き、お茶を差し出した。

 

 「失礼しました。…ただ、今回は失言ではありませんね。言いかけて、止めた。それはお嬢様が、ご自分の感情を意識的に制御した、初めての瞬間です」

 

 セレフィーナは毛布の中で静かになった。

 

 (…止めた。私が、止めたの。これまでは、止める間もなく言葉が爆発していたのに)

 

 「リタ。私…殿下のことが…」

 

 「はい」

 

 「…なんでもないわ。寝る。もう寝るわよ!」

 

 「はい。おやすみなさいませ、お嬢様」

 

 セレフィーナは毛布を頭まで被り、暗闇の中で何度も予習した。

 「アル」と呼びかけた続きの、決して言葉にはできない本当の想いを。

 

 一方、リタは主人の寝息を確認した後、一通の報告書に目を落とした。

 

 『アルベルト殿下は、停電の報を受けた直後、視察を中断してお嬢様の元へ走ったとのこと。王族が公衆の面前で走るのは異例のことですが…』

 

 リタはそれを読み上げなかった。

 これ以上セレフィーナの脳に負荷をかければ、明日の朝食で「爆発」が起きることを熟知していたからである。

 

 今夜のセレフィーナは、反省ではなく、未来の予行練習をしながら眠りについた。

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