性別が変わってしまった親友の背中を押したら大事故を起こした話   作:かりほのいおり

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あいつの話 1

 

 0

 

 俺に山下 達也のことを教えて欲しいって言われてもなぁ、はっきり言って面白い話なんて何もないんだが。

 はっきり言って特徴も何もないだろ、あいつ。

 ってか、千春はあいつのこと見たことあるっけ?

 ……ああ、そういえばあの告白した日、夏休み明けの教室に来てたから知ってなくもないのか。

 確かに俺があいつの下の名前を呼んでたっけ、それなら確かに少しは印象に残ってるのかもしれないな。

 で、なんで今更そんなことを知ろうとしてるんだ?

 ……来年は同じクラスになるかもしれないからって?

 やめとけやめとけ、あいつには関わらないほうがいい、

 あいつと長い付き合いになる俺が断言するが、あいつは嘘つきだからな。

 しかも自分に嘘をつけるタイプっていう一番タチが悪いやつ。

 その嘘を一人で勝手に、どこまでも信じてしまえるから、誰も救われないんだよ。

 

 1

 

 ことの発端は終業式のことだった。

 寝ぼけ眼のまま、遠慮なくがなりたてる目覚まし時計を叩いて沈黙させ、まさに今の自分の様に目覚めの悪いスマホの起動を待っていた。

 画面をタップするだけではなかなか反応せず、うーんと唸りながら電源ボタンを長押し。

 ふと、真っ暗闇の画面を眺めている時に、俺は何か違和感を感じたのだ。鏡のように反射したモニターの底に、眠そうに目を擦る見知らぬ少女が写っていた。

 は?誰だこいつ? 思わず一気に目が覚めた。タイミングが悪いことに今更スマホが起動して、俺が見ていた証拠もまとめて押し流されるが、今のが幻覚だったとか認められるはずがない。

 なんか変なウイルスに感染したのだろうか?

 そんな変なサイトを回ったつもりは全然ないのだが。

 とりあえず、再度電源ボタンで画面を消灯。

 今度は先ほどの光景とは違い、訝しげにこちらを覗き込む美少女が写っていた。

 おわっと驚いてスマホを取り落とす。

 待て、何かがおかしい。

 そもそもこのスマホを操作している手はなんだ?

 やたら綺麗で小さい華奢な手は誰の手だ?

 ばばっと周りを見渡すがいつもの部屋と変わりはない。ただ少し、いつもより視界が低い気がするのと、寝巻きがダボついている。

 そう、寝巻きだ。今はまだゴムで締め付けられてずり落ちることはなかったけれど、踵で踏んでしまうぐらい長い裾のズボン。それに肩からずり落ちてしまいそうなブカブカのシャツ、どうにも寝間着のサイズが本来の身にまとっていたものより大きすぎる。

 いや、正確に言えば、それを身につけている自分が、一回り小さくなったかのようでは無いか?

 そう考えると全部説明はつくのだ、寝間着のサイズの違いも、視界がいつもより低く見えることも一貫して説明がついてしまう。

 ただ、それとは逆に成長しているところが一点。

 視線を少し下に下ろすと、シャツに二つの膨らみが存在していた。

 どう考えても、それは胸筋とは言い逃れできそうになかった。

 

 もう、部屋に置いてある姿見鏡を覗き込んでいる暇ではなかった。

 慌てて部屋を飛び出して、リビングへと向かう。

 俺の認識なんてもう当てにならない、とにかく誰かに否定してもらうべきだと思った。

 そうして駆け込んだ部屋では、両親が呑気に朝ごはんを食べていた。

 彼らが俺のことを振り返り、まるで見知らぬ誰かがやってきたかのように、ギョッと目を見開いて動きを止めるのを見て、あ、これ現実なんだとその場にへたり込んでしまう。

 

「とりあえず……俺を病院に連れてってくれ」

 そう最後に言葉を振り絞って、明滅する視界の中で意識を失った。

 

 ドナドナドナドナ

 俺を乗せて

 ドナドナドナドナ

 車が揺れる

 

 辿り着いた先は、病院だった。

 呆然としている両親に向かって、瓶底眼鏡を掛けた医者が淡々と語りかける。

 変わってしまったものは仕方がないと、ゆで卵を生卵に戻すことができないように、それは不可逆的な進行であると他人事のように言う。

 あっ、そういう感じですか。

 じゃあ皆さん、そういう事らしいです。

 そう言って両親を振り返るが、彼らはくすりとも笑いやしない。

 当然俺も笑えない。

 病院で得たものは病後のメンタルケアの為の紹介状、何の役にも立ちやしない。

 

 気づけば自分の部屋のベッドで横になり、天井を眺めていた。

 部屋が橙色に染められている。気づけば一日が終わりかけているのに、驚きを隠せない。

 ただ病院に行って帰ってきただけだ、家に帰ってからどれぐらいがたったのだろう?

 というか、今更だけれども今日は終業式の予定ではなかったか?

 学校への連絡は親がやってくれただろうか。

 きっとしてくれただろ、ああ、でも待ち合わせ場所に来ていただろうあいつに連絡するのを忘れていた。

 充電が50%を切ったスマホを取り出して、通知の切られたメッセージアプリを起動する。

 休んだことを揶揄するグループラインと、達也から個別に『大丈夫か?』と投げかけられていた。

 送信時刻はいつもの待ち合わせしている時間と同じぐらい。

 言葉を打とうとして、『大丈夫じゃねえよ』とまで入れたところで、はたと動きを止めた。

 

 どうやってこの状況を説明すればいいんだ?

 自分自身ですら飲み込めていないのに、どうやってそれを他人に説明すればいいと言うのか。

『すまん』という言葉を入れて、また削除。俺はなんも悪いことをしてないのに、どうしてこんな目に遭っている?

 形だけの謝罪も嫌で、スマホを投げ出した。

 部屋が段々と闇に沈みつつある。

 静かな部屋ではなかった、というかやけに蝉の声が煩いし、ひどく暑い。

 首を窓際に向けると、網戸に張り付いたヒグラシが哀れな俺に代わって必死に鳴き叫んでいる。

 頼んでねえよ、網戸の裏側からデコピンで追い払って、動きの悪い窓を強引に引っ張り、クレセント錠を跳ね上げる。

 一気に外界と切り離されて、舌打ち一つ。

 ようやく俺の現状を再認識するべく、LED照明のスイッチを入れて姿見鏡の前に立った。

 

 まずはいいことが一つ。

 我ながら、性別が変わった後の自分は可愛いと言われる部類なんじゃないかと思える。

 身長は160センチより下ぐらい、だろうか?

 我ながらどんよりと澱んだ眼、それと反して元気に満ち溢れたニキビ一つないもっちり若々しい肌。

 髪質は変わりがなく癖もない色艶のいい黒髪。昨日より少し伸びているかもしれない、なんもセットしてないとはいえ、こんなに目元が隠れたり、襟足が長かっただろうか。

 後ついでに控えめな胸。それに手を伸ばそうとして、慌てて手を遠ざける。

 何をやってるんだか、自分の体なのに。

 ため息をついて、とりあえず下着は買わなきゃいけないと脳内のメモ帳に記載する。

 それにしても、と姿見鏡の前でもう一度首を傾げる。

 一日前の自分がどんな容姿をしていたんだったか……身長はおおよそ平均のちょい上ぐらい、幾分長めだった髪はセンターパートに整えて……それで……どうにもうろ覚えだった。

 先ほど放り捨てたスマホに視線を送るが、最近の自分の写真を撮った記憶がない。そもそも写真に写される自分の笑顔が嫌いだったからこそ、基本的には写真から逃げていたんじゃなかったか?

 もう昔の俺はとっくに滅却されているんじゃないか、そんな嫌な汗が背筋をツーっと伝う。

 

 エアコン、そうだ、エアコンを付けなければ。

 思考を変えるべく、慌てて動き始める。やたら静かで暑い部屋、なんでこれを最初から運転してないのか俺には理解ができなかった、そうしてリモコンを手に取って、エアコンに向けて、それの電源を消した。

 ぴーっという音と同時に閉まる送風口、慌てて電源をもう一度入れ直す。もう一度駆動音と共にゆっくりと口が開き始めて、けれどもそこから温風も冷風も一ミリも出てきやしなかった。

 

 代わりにぷすんと、そんな音が聞こえた。

 そして、冷房のない夏休みが始まった。

 

 2

 

 多分、俺は、エアコンが壊れなければ、あの一夏をずっとあの部屋で過ごしていたんじゃないかという気がする。

 もしかしたら部屋から出ろ、という天啓が下されたという証拠なのかもしれない。

 茹だるような真夏の暑さが続く日々。

 エアコンの修理にしばらく時間がかかると言われても、あの部屋で一週間にも及ぶ籠城作戦が繰り広げられた。

 風量不足の扇風機がカラカラと首を左右に振り続けている。無理だよ諦めなよと、そう諭すように。

 リビングに行けばいい、他の部屋なら十分冷やされた空気を満喫できるのに。

 問題は、専業主婦である母さんが常に家にいるということである。

 何が問題か、至極単純に母さんから気を遣われるのが嫌で逃げていた。

 とても不快、まるで俺が可哀想な奴だと言われてるかのようで、それが嫌で部屋に引き篭もっているといえた。

 朝、昼、晩。食事の度に出てくる戦国時代の人々から見れば甘々の籠城作戦。配給を受け取るために出てくると、対面に自然と母さんが腰掛ける。目の前に座るなとは言えない、なんせご飯を作ってもらっている立場であるから。

 体の調子はどう?から始まりごめんね、私が悪かったのなんて的外れの謝罪が続き、しまいには一人で勝手に泣き始める始末。

 なんだこれ、泣きたいのはこっちだよと思っていたが、それを見ていると逆に異様に心が冷めていく。

 心の負担を分担する、というにはあまりに良い言い様な気がするが、確かにその一面はあったのかもしれない。

 そうすることでなんとなく帳尻がとれたような気がした、他人に怒ることで少なくとも自分の現状を直視する暇はなくなるのだから。

 そうして冷え切った心を抱え、また地獄のようなサウナ部屋へ戻る。

 そこで何をするわけでもなかった、ただ汗をかきながら、鏡の前に腰掛ける。

 やめといた方がいいよと扇風機が入ってるような気がするが、無視。じっと鏡を覗き込んでいれば、いつか昔の自分が映るような気がして、それが映ったら元通りに戻れるような気がして、それを夜まで繰り返す。

 感情的な母さんとは違い、父さんは特に何も言わなかった。なったものは仕方ないと言わんばかりに放置プレイ、晩御飯を食べている時も特に会話はなく、たまにチラッと視線を向けられるが、それを俺は気づかないふりをする。

 口に詰め込んだ白米を一気に味噌汁で流し込み、気まずい食卓を後にして、再度部屋に引き篭もる。

 開けっぱなしの網戸から、裏山がすぐ近くの右方に見えていた。名前も知らない虫が鳴いてるのか、酷い耳鳴りがしているのか、どっちか判別できないけれど、兎に角、リーーーーという音が耳に鳴り響き続けている。

 明かりを消して、網戸越しに夜空を見上げる。

 こんな町中じゃまともに星も見えないと思っていたのに、今では煌々と輝く夜空が広がっている。これが性別が変わった唯一のメリット、今のこの身体は視力がバカみたい良くなっていた。

 それがなんの役に立つと言われたら、わからないとしか言いようがないけれど。ここは視力が生死を分ける戦乱の世の中というわけでもないし、別にパイロットになりたいというわけでもないのだから宝の持ち腐れでしかない。

 しばらく夜空を眺めて、それにも飽きてベッドに倒れ込んでタオルケットを被る。

 扇風機は回り続ける。24時間、A to Z。

 その音を聞きながら、浅い微睡に沈んでいく。

 

 そんな日々がおおよそ一週間続いて、ある日唐突に限界を迎えた。

 どうにもなんでもないことのように受け流していたつもりだったのに、心の知らないところに毎日毎日燃料が注がれていたらしい。

 プツンと糸が切れたのは、昼食後のことだった。

 

「……ねえ悠ちゃん、そろそろ家から出てみない?」

 

 先制攻撃は弱っているはずの母さんから、思ってもいない提案で痛いところを突かれたと顔を顰める。

 確かにそう、あの日病院に行った時以外ずっと家の外に出ていない。

 結局、下着とかその他必要なもの全部の調達は母さんに任せて、俺はなんもしちゃいない。

 母さんが悲観的になるのも当たり前なのかもしれない。

 なんでもないことではないのだから、なんでもないなら、もっといつも通りに暮らしているはずなのだ。

 部屋に引き篭もって、夜空と鏡を眺め続けているなんて、そんな行動をしていることを母さんは知らないけれど、何をやっていないかだけならば確かに知っている。

 

「必要になれば、出るよ」

 

 例えば、夏休みが終わって学校が始まった時とか。

 本当にそうだろうか? 出ようとしてないのではなく家から出られない奴が、その日になったらいきなり出来るやつに変わるなんてことあるのだろうか。

 

「そろそろね、紹介状を頼ろうかと思うの。一度話を聞いてもらってね、そしたら悠ちゃんもなんか落ち着くこともあるんじゃないかって」

 

「別に俺は大丈夫だって言ってるだろ」

 

 母さんこそ、メンタルケアしてもらう必要があるんじゃないか。

 そんな言葉をギリギリで飲み込んで、席を立つ。

 

「そんなに心配しなくてもさ。俺は外に行けるから、午後は達也の家に遊びにいくよ」

 

 返事を待つことなく、部屋に戻る。

 前まで着てた服を引っ張り出して、寝巻きと入れ替え。夏用の服ではなく、出来るだけ肌が見えないようなものを。今の俺を直視しなくていい格好を。

 裾を捲りあげ、ベルトで締め付けたジーパンのポケットにスマホと財布を流し込んで、長袖のパーカーを羽織って、鍔付き帽子を頭に引っ掛けて、扇風機だけじゃ足りんと持ち出された最近の相棒だった団扇を引っ掴む。

 玄関口では母さんが突っ立っていた。

 自分から言い出したことだというのに、まるでこれから恐ろしいことが起きるんじゃないかと俺と扉に交互に視線を飛ばしている。

 

「日が沈むまでには帰る、それじゃ」

 

 ぱくぱくと口を動かすも、結局なにも言い出せない情けない人。

 外に出たほうがいいと思ってるくせに、いざ外に出ようとしたら止めるでもなく止めないでもなく、ただここに居ましたよとアリバイを作るためだけに来た人。

 なんとなく、その有り様にムカついて、ゆらりと怒りが立ち上がる。

 

「母さん、俺を可哀想な奴扱いするのは、いい加減やめろよな」

 

 母さんに背を向けたまま、そんな言葉が自然と口をついて出た。抜き身の刀、他人を傷つけるためだけの言葉。

 

「俺は、あんたが悲しむ為の引き立て道具じゃないんだよ」

 

 我ながら100%言うべきではないセリフ。

 振り返る勇気もないまま、炎天下の下に躍り出る。締まりぎわの扉の向こう側から、何かを謝るような母さんの声が聞こえた気がして、それを振り払うように歩き始めた。

 

 

 目的地はないまま、ただ歩く。

 予想以上に暑い。半分は自業自得だ、馬鹿みたいに長袖ジーパンなのがきっと一番悪い。

 頬から伝う汗が地面にしたたって跡を作る、これを辿れば家に辿り着くし、逆に辿ってくれば俺の元まで来れるだろう。

 まあ、そんな痕跡、とっくに蒸発しているだろうけれども。

 気がつけば外出の建前の目的であった達也の家の前に辿り着いていた。

 小中高と同じ経歴を重ねているけれど、実際的に交流を持ったのは中一の時からであるから、都合四年目の仲である。

 家は近いが登校班の区分も違うし、クラスも被らなかったのだから仕方ない。中一になって予想外に互いの存在をようやく互いに認識して、今では親友という仲である。

 まあ、親友であると言ったところで待ち合わせをすっぽかした挙げ句、一週間ぐらい俺はあいつへの返答を返していないのだが。

 達也以外にも一律で返事を返していなかったから平等と言えば平等である。

 

 さてどうするか、顎に手を当てて考え始める。

 選択肢は複数ある。まず第一にこのままここを通り過ぎてあてどなくさまよってみるか、次の目標はゲームセンターでも行くか、第三にショッピングモールで映画でも見るか、最後にこのインターホンを押してみるとか。

 二、三に関しては一度家に帰って自転車を回収する必要があるだろう。本当に間抜けなことに団扇を片手に優先したから、自転車の選択肢がすっかり抜け落ちていた。

 戻るまでもなく、バスを使えば行けることには行けるけれども、必要ではない出費を払うことはなんとなく負けた気がするから嫌だった。

 結局ここを通り過ぎるか、インターホンを押すかの二択。

 太陽の直射日光に照り焼きにされながら、メッセージアプリを開き、『今暇?』と打ち込む。暇じゃないと言ってくれることを期待して、けれどもすぐさま『暇』という答え。まあそうだろうな、ハンと鼻を鳴らしてインターホンを押す。

 即断即決。躊躇したらそこで泥沼になると分かっていたからこそ、すぐさまのプッシュ。

 ぷつりと小型スピーカーが起動する音がして、けれどもそこからなんの声が発せられることもなかった。団扇で火照る顔を仰ぎながら、何をしてるんだあいつと頭に疑問が浮かんだ。

 痺れを切らして敷地内へ入り込む。咎める声はない、だってそれを見ているやつもいないのだから。あいつの両親は共働き、きっと今家にいるのは達也だけだろう。

 扉に手をかけると、案の定鍵を閉めていなかった。

 本当に不用心、心配性な母さんがいる我が家とは大違い。

 暇と言っていたから家にいるはずだけれども、扉先から家の中をキョロキョロと見渡す。インターホンに反応があったから間違いなく居るだろう。床が軋む音がして、俺はそちらに視線を向けた。

 怪訝な顔をしてこちらを見つめる、いつもの冴えないあいつ。

 

「やっぱりいるじゃねーか」

 

 大きくため息をついて、さてどうやって状況を説明しようかと考えを巡らせる。俺と昔の俺を結びつける道具は今のところ言葉ぐらいしか持ち合わせていないような気がした。

 

「前から言ってるけどさぁ、あまりに不用心すぎるだろ。いい加減玄関の鍵ぐらいは閉めとけよ、というか暇っていうならさっさとインターホンにでろ、天気予報見てないのか? 35℃越えだぞ35℃、ほぼサウナだろこれ、サウナと世界が裏表ひっくり返っちまってるよ」

 

 ただ間を繋げるための言葉に、達也はさらに首を傾げた。

 玄関の扉がよく開いてることを、なんでこいつが知ってるんだと言わんばかりに。

 そこに至ってようやく、一つのアイデアが思いつく。一つの繋がりがまだ残ってるじゃないか。

 スマホを取り出して、先ほどの画面のまま、『俺だよ』と入力。

 説得作業はそれで終わった。

 無造作に家に入り込むが、達也はそれを止めることなく、ただぼんやりと俺が隣を通り過ぎていくのを眺めていた。

 

 3

 

 性別が変わってしまったことをネタにして笑いとばすわけでもなく、大変そうだなと俺に同情を示すわけでもなく、こいつはいつも通りの対応をするという対応を決めたようだった。

 会話も乏しく、ただキャラにダメージを蓄積させて吹き飛ばす格闘ゲームを義務的にこなす時間。

 これなら別に来る必要はなかったなと隣を見やるが、俺の視線に気づくこともないままゲームに集中している。

 今はもう、俺は操作していない。ただこいつが一人でオンライン対戦を繰り広げるのを眺めていた。

 カッカッとスティックを弾くのを眺めながら、「お前、なんか聞きたいこととかねーの?」と尋ねかけるが、達也は一瞬視線をこちらに向けただけですぐにテレビに視線を戻した。

 

「……別に、なんもねえなぁ。逆になんか話したいことがあるのかって思ったけれど」

 

 ふーんとしか返せなかった。

 俺がこいつに何を話したいというのだろうか、こいつが何を解決してくれるわけでもないのに。

 温み切ったピッチャーからコップに麦茶を注ぎ、一気に喉に流し込む。

 

「でも」

 

 渾身の右ストレートでロボットを吹き飛ばし、組んだ両腕を振り上げてサルが勝ち誇っている。

 ひと段落ついたとコントローラーを机に置いて、ここと自身の眼を指さした。

 

「なんか色々変わったなと思ったけど、お前の眼は変わんないよなぁ」

 

 ちらりと俺の顔を見て、またすぐ気まずそうに視線を戻した。

 何が変わらないって、眼? 当然それも変わっているっていうのに、何も分かっちゃいないと首を振る。

 

「違うぜ、全然ここも違う。脅威のスペックだよ本当、夜中に窓の外を覗いたら今まで気づくこともなかった星がいくつも輝いて見えるんだから。多分、今健康診断とかで視力測定したらきっと2.0は余裕だぜ」

 

 ほら、お前鼻毛が一本飛び出してるぞと指摘してみれば、本当かよと疑問に思いながらも立ち上がってリビングから出て行った。

 ふっと部屋に一人取り残されて、なんとなくテレビの電源を落とした。

 家族以外の他人と久しぶりに会話をしたような気がする、それも長時間。

 壁にかけられた時計を見上げればもう十九時を回っている。

 帰ることを急かせばいいのに、そんなこともしないからダラダラと無駄に過ごしてしまった。

 窓の外を見ればすっかり暗くなりつつある。

 日が沈むまでに帰ると言ったけれども、どうやら全然嘘のようだった。家主に代わってカーテンを閉めれば、騙してんじゃねーよと達也がちょうど帰ってくるところだった。

 テレビが消されてることに特になんのリアクションも示さないまま、そういうことならとゲーム機の電源も落とされる。

 ただ部屋に残されるのは羨ましいことにエアコンが問題なく稼働する音と外から聞こえてくるカラスの声と、虫の鳴き声ばかり。

 で、なんの話だっけと不意にあいつが話を戻した。

 視力の話だろ、そうじゃなくて眼の話だよ。

 

「お前がさっき言った通りのそういう物理的な話じゃなくてさ。なんというか、眼には人の意思を宿すっていうか、そういう生まれてから今までのその人の成り立ちが蓄積されると思ってるんだよな」

 

 まあ、俺は鬱屈としてるから人様に誇れるような眼をしてないけど、と自嘲して達也は笑っている。

 ふうんと思いながら顔を覗き込むが、鬱屈とした目がどう言う眼を示しているのか、俺にはあんまりよくわからない。

 

「じゃあ、お前にとって俺はどういう眼なんだ?」

「んー、なんつーか、生きた炎?」

 

 はあ? と返すが、説明が難しいんだよなぁと頭を掻くばかりで、自分が吐いた言葉を否定するわけでもなかった。

 結局、理解はできないけれど褒め言葉のような気がしたから、まあ、それはそれでいいような気がした。

 団扇を忘れずに持って「そろそろ帰るわ」と声をかけると、ああもうこんな時間なのかと慌てた様子でキッチンを覗き込んだ。

 洗い物と米炊き終わってねーよという達也の言葉を聞きながら、玄関から出て一つ息を吐く。

 ちょうどいい時間だったかもしれない、あいつの両親にあったらきっと説明がめんどくさいことになっただろうし。

 そう思いながら、温い風に吹かれて一人夜道をいく。

 残暑が残る風を浴びながら進んでいくと、後ろからサンダルを引きずって走るような音がした。

 

「……お前、なんでついてきてんだよ?」

「あいたっ」

 

 振り返りざまにはなった団扇は額に当たり、コーンと景気のいい音が響く。

 それでもあいつはめげずに俺の隣を歩いていた。

 ついてきた理由をあいつは言い出さないまま、それを言わないからこそ俺は何も言うことがなかった。

 

「……いや、ね。なんかさー」

 

 沈黙を嫌ったのか、ヘラヘラと笑いつつ達也は言う。

 

「悠、お前、なんか失敗したろ」

 

 今日一日中、俺のことを全然直視しようとしなかった癖に、その時になってまるで全部見透かしてるかのように、達也は言った。

 俺が無言であることをいいことに、あいつは一人勝手に言葉を繋いでいく。

 

「こう、性別が変わったとかどうしようもないことじゃなくてさ。親に怒られるようなことをしたんじゃないのか」

「……どうして、お前はそう思った?」

 

 経験だよ、となんでもないことのように達也はいう。

 

「悠はさ、俺の家を勝手に避難所にするからな。怒られたくないから逃げ込むためのセーフスポットってやつ? 一旦息をついて、覚悟を決める場所って感じだと思ってるだろ」

 

 そんなことはない、そんなことはない、はず。

 ただ一番家から近い、好き勝手に使える場所と思っているだけだ。少量のイベントに引っ張られて勘違いしているだけだろう、多分。

 まるで俺の影のように、ゆらゆらと後ろをついてきながら、

 

「なんか今日のお前、弱いんだよなー、そのまま意地張って、もしくは意地すらなく逃げ出しそうって感じ」

 

 勝手にそんなことを言う。

 

「うるせえよ、さっさと帰って米でも炊いてろ」

「残念でした、今日から無洗米」

 

 もう炊き終わってるもんね、と達也は自慢気に胸を張って、思わず舌打ちをする。そうこうしているうちに、もう我が家の前である。

 玄関前に立つどころか、表札の前で立ち竦む。

 確かに言われたとおり、今の自分はどうにも弱いようだった。即断即決の精神は、今のところ逃げるという方向に傾いていたし、それを食い止めていたのは本当に悔しいことに、隣に居るやつがいたからだろう。

 逃げ出すところを見られたくないというちっぽけなプライドが残っていたからこそ、感情が拮抗してどうも動けない状況に持ち込まれていた。

 まるで時間切れで判定負けを審判されるか、もしくは達也が呆れて帰るかの二択。

 しかし呆れるより先に、さっさと試合を終わらせろよ、と俺の気持ちも知らないでぐいぐいと背中を押してくる。

 あまりに不毛な押し相撲。

 

「はよいけよ、俺は洗い物終わってねーんだよ」

 

 勝手についてきたくせになんて言い草、むっとにらみつけるがどこ吹く風と受け流すばかり。

 

「どうすればいいのかわかんねーよ」

 

 それを聞いて達也は呆れたように首を振った。

 

「それはお前が分かってるだろ。お前が謝ればいいんだよ」

 

 謝って怒られろ、俺がやらなきゃいけないことはそれだけだと、ただ事実を突きつけてくる。

 

「お前が謝ればいいと分かってるからこそ、そう知ってるからこそ、ただ自分が謝りたくないと思ってるだけなんだから」

 

 本当にもうこいつは、俺のことをよく知っている。

 一つ深呼吸をして、玄関の方へと向き直る。もう一度強く、達也が俺の背中を押した。

 

「だから俺が、俺が見守ってやるよ。お前が謝るのを逃げ出さないように、隣で見てやるからさ」

 

 ハッと思わず笑い声を上げた。ほぼほぼお守りとしてしか役に立たない、みたいな宣言だと言うのに、こいつは何を自信満々に言ってるんだ。

 その筈なのに、それに頼ってる自分が情けなくて思わず笑ってしまった。

 気づけばすんなりと歩けるようになっていて、達也の家とは違いしっかりと鍵がかかっていることを確認して、扉の鍵を開けた。

 二人並んで玄関に入る。扉の開ける音を耳にしたのか、ドタドタとこちらに駆け寄ってくる音がした。

 母さんの襲来。

 潤んだ瞳でこちらの姿に気づくや否やぱっと顔を輝かせて、けれども隣に達也の存在を見つけたのか、ピタッと動きを止めた。

 まるで場違いの場面に出くわしてしまった演者のように、非常に気まずそうな顔をして達也はぺこりと頭を下げた。

 

「……ご無沙汰してます」

「……これはご丁寧に、どうも」

 

 それを受け、母さんも素直に頭を下げる。それを見て、いやいやそんなと達也が再度頭を下げ、一生互いにペコペコと頭を下げあって無限ループに突入する。

 流石に途中で止まるだろうと端から面白おかしく眺めていたが、一分を超えると流石に長すぎる。無駄だ、くどすぎる。振り翳したチョップは達也の頭頂部に直撃し、痛えと漏らす呻き声、それを聞いてあらあらと口を抑える母さん。

 まあ、でも、これぐらいの空気感に戻してくれたのはだいぶ有り難かった。

 それをこいつが意識してやったのかどうかはわからないけれども。

 

「母さん、さっきはごめん」

 

 今度は頭を深々と下げる。

 どう考えても自分が悪かったから、最初から俺に非があるとわかっていた。心配をかけさせていたのは俺で、俺が普通の様子じゃなかったからこそ、母さんが自分自身を責めるようになってしまったと言うのに。

 それでも、母さんからの返事はないままで。

 

「……仕方ねえなあ」

 

 沈黙を破ったのは予想外の声だった。というか今回の件の全く部外者、つい先ほど俺が見守ってやるよとか宣っていたやつだった。

 何言ってるんだこいつは、思わずまじまじと見つめてしまう。本当に何言ってるんだこいつは。

 

「俺が、許してやるよ」

 

 いけしゃあしゃあと、そんな言葉を言っていた。

 全く理解できない。何を言ってるんだこいつは、そもそもお前に対して俺は謝ってねえだろ。

 俺と母さんが呆然と達也の顔を見つめていると、何かに気づいたのか達也は徐に俺の頭に手を置いた。そしてシンプルに力押し、再度力づくで頭を押し下げてくる。

 

「すいません、お母さん。こんな感じで悠も謝ってるんで今回は許してあげてくれませんかね、まあ正直、こいつが何をやったのか俺は知らないんですけどね」

 

 なははと笑いながら、ほら頭を下げなさいと俺に指示を出してくる。

 全く意味がわからずされるがまま、身を任せていた。

 どう言う状況なのだろうか。

 ぼんやりと玄関口で頭を押し下げられて、靴の並びを眺めていた。あっ、靴陰に隠れてカナブンがいる。あとで逃してやらなければ。

 俺はこれまでにないほどじっくりと土間を眺め、母さんはオロオロと俺たち二人を交互に見つめ、あいつは笑いながら俺の頭を下へ押し付ける。

 不意にカチンときて、思いっきり達也の腹に拳を叩きつける。

 閉所で距離も取れないから威力もそんなにない、ただ確かに頭を抑える力はふっと弱まって、これ幸いとばかりに胸元にヘッドバットをお見舞い。

 

「おまえじゃ、ねえッ!! 勝手についてきたかと思えばッ!!」

 

 よろめくあいつの腕を掴んで、そのまま玄関の扉を開いて外に放り出す。

 おっとっととよろめきながら、それでも体幹よく転ぶことはなかったことに内心ホッとしつつ。

 

「黙って隣にいるだけで良かったんだよッ!!」

 

 それだけ吐き捨てて再度扉を勢い良く閉める。

 念の為に上下のサムターンキーとドアチェーンも追加で掛けて、気が抜けてしまって思わずしゃがみ込む。本当に、本当に何しにきたんだよあいつは。

 

 ふっと耳に笑い声が届いて、思わず顔を上げる。

 母さんは心底おかしそうにお腹を抱えて笑っていた。

 

「本当いい子ね、達也くんは」

 

 俺はそうは思わないけれど、マジで意味不明だったけれど。

 証拠はあるのよと言わんばかりに、母さんはこっちを指差した。

 

「悠ちゃんが笑ってるの、久しぶりに見たもの」

 

 思わず頬を触ると、確かに俺の顔は笑みを象っているようで。それに気づいたのにどうしてもいつもの顔に戻せなかった。

 何か言おうとしても口から笑いが漏れるばかりで、それを見てまた母さんは笑っていた。

 

「ね、見送ってあげなさい」

 

 母さんに背中を軽く押され、また外に出る。

 少し時間が経っているのに、本当ならとっくに姿が見えなくなっていたはずなのに。

 家の表札前あたりまだあいつはいた。

 ぼんやりと突っ立って、何かを見ようと夜空を見上げている。

 

「……まだ、帰ってねえのかよ」

 

 今更俺が出てきたことに気づいたのか、ギョッと飛び退いて、ああ、悠かと肩をおろした。

 

「いや、ね。お前が言う通り星が見えるかと思ったけど、やっぱり俺には見えねえなぁって思ってさ」

 

 見上げると夜空には変わらず星が瞬いている。

 今まで俺が見えなかったものが、そしてこいつには見えないものが、今日も静かに輝いている。

 

「それで仲直り、できたかよ」

「当たり前だよ、ばーか」

 

 フッと笑みが自然に漏れた。

 もう大丈夫だ、きっと大丈夫。

 あれを仲直りと言うべきかわからないけれども、きっとこの後、たくさん話さなければならないことはあるのだけれども、もう峠は通り越したような気がしていた。

 まるで酷く眩しいものを見たかのように、あいつがふらっと後退りしたのを見て思わず首を傾げるが、それは良かったと言うばかりでそれ以上なんも教えてくれやしなかった。

 

「うん……それは良かった」

 

 そう繰り返すように呟いて、あいつはふらふらと歩き始める。

 街路灯を追って、あのセーフスポットに向かって。

 それをそのまま見送ろうとして、慌てて後を追った。

 

「なあ、おい!」

 

 ん? と首だけをこちらに向けてくるが、何を言うべきか決めていないまま。

 なんかまだ用があるかと詰められて、思わず口籠もる。

 

「……う、その…」

 

 居ても立ってもいられず、口で手を隠して。

 けれども言うべき言葉は見つからないなんてこともなくて。

 

「また、また明日っ!」

 

「……おう、また明日」

 

 それっきり。

 今度は呼び止められることもなく、達也は振り返らずに帰っていく。

 

 そうしてあいつの後ろ姿が見えなくなってから、俺は夜空を見上げた。ふっと空を横切る微かな光が見えたような気がした。

 今のあれは、流れ星だったのだろうか?

 答えはわからないし、祈りごとは当然間に合わなかったけれども。次に流れ星を見つけた時には間に合うように。

 胸の中からそっと一つ、俺は願いを拾い上げたのだ。

 

 明日は、きっと、今日より幸せでありますように。

 

 




多分あさってぐらい
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