性別が変わってしまった親友の背中を押したら大事故を起こした話   作:かりほのいおり

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次の俺の話で一区切り


あいつの話 病中の件について

 

 1

 

 酷く体調を崩したから釣られてメンタルが崩れたのか、そもそも体調が崩れかけていたから雪崩れるようにメンタルも崩れたのか、結局どっちが先かなんて答えはわからないし、別にそんなのどうでもいいことだった。

 

 大事なのは今の俺は身体的にも精神的にも最悪だってこと。そういう時は決まって夢を見る、それもとびっきりの悪夢をたくさん見る。

 

 現実で身体を襲う頭痛や節々の痛みやら酷い寒気に襲われるのを必死に耐えて、微睡に飲み込まれて夢の中でみたくもないものと向き合う作業。

 

 体調を崩す方法を確立できるならば、どっかの山寺で修行方法と取り入れられるに違いない。身体と精神面を痛めつける作業を交互に繰り返すことにより体を整える、なんて。

 

 どう考えても整うより先に精神的に不感症になる方が早そうな気がした。

 

 でも、何も感じなくなることはもしかしたら良い事なのかもしれない。それこそ適応だと言われたら一考の余地はある。痛みに気づかなければ、きっと何が起きても悲しいと思わないのだから。

 

 だから、今は甘んじて悪夢を受け入れることができる。

 きっとその方が楽なんじゃないかと思って、ふらふらと火に近づいて勝手に傷を増やしてしまう。

 

 夢に溺れるだけならば、今の自分が夢を見ているかどうかそれとも現実かなんて、あんまり気にする必要はない。

 ずっと夢を見続けることは出来ないのだから、いずれは現実に戻るってことがわかっているのならば、無闇矢鱈に怯える必要はない。

 

 それが悪夢の渡り方。

 どうしても夢が覚めないというのならば、そんな状況はありえないと認識してしまえばいい。その程度の拒絶で覚めてしまうのであれば、それはきっと夢だろうから。

 

「悠に、彼女を紹介しようと思ってな」

 

 じゃあ、これはどっちだろうか。

 これもそのうち目が覚めて、記憶に一ミリも残さずに忘れ去られるようなものなのだろうか。

 早く醒めろ醒めろ醒めろと念じるも一向に意識が浮上しないのは、絶対にありえないことだと俺が信じられないからなんじゃないのか。

 

 きっといつかくる現実。

 もしくは今ここが現実。

 

 量産型女子高生の隣でだらしなく笑っている馬鹿は、こっちの様子に一向に気づかないままひたすら惚気話を垂れ流している。

 いや、これは別に俺に宛てた話ではないのか。

 

 気が付けばバカップル二人は舞台の上に立ち、俺はガラガラの客席で遠巻きにそれを眺めていた。その劇に俺は関与できないと言われているかのように。もしくは、お前はもう部外者なんだよと爪弾きにされてしまったのだ。

 

 何となくほっとして、俺は柔らかい座席に身を沈ませた。

 これが夢だとちゃんと気づいてしまったから。それならまあ、このまま眺め続けるのもいいだろうと意識を引き上がる意思もふっと弱まって。

 

 ぱっと舞台を照らすスポットライトが落ちて、再度点灯。

 今度は千春が一人で舞台の上に立っていた。

 

「井上君って、ほんと最低ね」

 

 まるで道端に落ちている吐瀉物かを見るような凍える眼、嫌悪感をむき出しにしてそう吐き捨てられる。

 唐突な叱責に思わず身体を強張らせるも、何も言い返せずに押し黙る。

 

 情けないことに心当たりは複数あった。

 まず初めにデートを台無しにしたこと。

 次に千春を逃げ道にしようとしたこと。

 

「ね、何も言い返さないの?」

 

 謝罪は? 言い訳は?と催促してくるも、劇中に口を開けるはずがないだろうと変な理性が働いて何も言い返せない。痺れを切らしたのか、彼女は後ろ髪を靡かせて舞台袖に下がっていく。

 

「本当にもう、あなたと付き合ってられないわ」

 

 ぼんやりと自己嫌悪に陥っているうちに、再度ライトが落とされる。

 舞台に再度照明が点灯する、今度は見覚えのある制服に身を包んだ男子が演技くさい笑みを浮かべて佇んでいた。

 

 明らかに馴染みのある顔だった。多分、最近までよくみていたような気がする。

 そうわかっている筈なのに、それが誰なのかをどうしても思い出せない。

 

「おいおい、俺の顔も忘れちゃったのかよ」

 

 俺はお前だよ、大仰な仕草で己自身を指してそいつは言った。

 

 ああ、そうか。

 知らないうちに俺は自分のことすら忘れそうになっていたことに気づいて愕然とする。そんな前のことじゃないのに、たった二ヶ月前だというのに。

 

「ずーっとお前が空回りしてるのを眺めてたけどさ、あいつの事を本気で好きになるとか馬鹿じゃねーの? 絶対無理だってわかってたろ、叶わない恋だって知ってただろ。初めから恋愛対象外だっていうのなら、それなら初めから諦めておけよ。お前、自分が何なのかわかってる?」

 

 わかってるよ。

 中途半端な好意だったら、そこまで傷付かない。

 初めの段階で自分から芽を摘んで仕舞えばよかった。未練もあっさり処理して淡い思い出に昇華して、何となく生きていけば良かったのに。

 

 最初に見切りをつけるべきだった、初めから無理だとわかってた筈なのだから。元々男で親友で、あいつがその時のことを都合よく忘れてくれるなんてあり得ないのだから。

 

「中身が男の奴に好かれても誰も喜ばねえよ。気持ち悪いに決まってる、あいつも普通の女が良いんだよ」

 

 だから選ばれない。

 映画館であいつの隣にいたのは俺ではない誰か。

 

 あいつの隣にいるのは俺じゃなくて、

 俺の隣にいるのはあいつじゃない。

 

 当然だ、選ばれるはずがない。

 俺が普通じゃないから。

 中身が男のくせに、男に惹かれるような奴だったから。

 

 どうしたって救われない、一人で勝手に傷付いている。

 

「理想の彼女も手に入れたくせに、他人の色恋にうつつを抜かしてる馬鹿。ほーんと何で入れ替わっちゃったんだろうな、俺たち。俺ならもっと上手くやれたのにさ」

 

 気が付けば、俺は一人で舞台に立たされていた。

 

 スポットライトにジリジリと焼かれて、耐えかねて客席を見返すとさっきまで舞台に立っていた四人が俺のことを見つめていた。

 何を面白おかしく演じてくれるのか、期待する眼差しで。

 

 せめて脚本が欲しかった、失敗するにしても自分じゃなくてこれのせいだと言い訳をする為の脚本が欲しい。

 

 そう、好き勝手に書き加えられる白紙の脚本!

 

 好きですってそこに書き加えて、あいつにそっけなく断られたとしても全部これに従っただけなんて、薄っぺらい言い訳を使うだけの道具があれば何でも出来るのに。

 

 そんな都合がいいもの、どこにもあるはずがないってわかっていた。

 だからこそ、そういう時に隣に居てくれるんじゃないのか、お前は。そこからじゃ、俺が突然倒れたとしても手が届かないんじゃないのか。

 

「そんなところで見てないで俺を助けてくれよ!」

 

 衝動に駆られてそう叫べば、客席にいる達也は上を指差した。何だよと思いつつ頭上を見上げれば、照明の中央にあったシミのようなものがジワジワと大きくなっている。

 何だろうあれは?

 

「見えてるなら早よ躱わせー!」

 

 ごんと頭上に衝撃が走り、ふっと意識が遠くなる。

 ほら、隣にいてくれないからこうなるんじゃないか。

 

 2

 

 鼻に強かに打ち付けられたスマホが、そのまま枕元にずり落ちていくのを感じる。暗い、とにかく真っ暗な闇の中、じっと目を凝らせばゆっくりと意識が浮かび上がって来る。

 

 こんなに暗いなんて、全く今は何時なのだろうか?

 ざーっと雨が葉っぱを打ちつける音は聞こえるけれど、まさか雨雲で日差しが全部覆い隠されているはずはない。

 

 確か、晩飯は食べたような気がする。

 そこから考えるとお腹の減りぐらいからすると、一日経ってないのであれば、ちょうど日を跨いだところだろうか。

 

 そのままご飯を食べて何をする体力もなくベッドに潜り込んだのだろう。それでこんな時間になってしまった、本当に時間の無駄遣いだ。

 

 気をせず体調不良が重なって訪れた連休だし、それならば何か楽しいことをしたいのだけれども、悲しいことにゲームをする気力も映画を見続ける最低限の体力もないほど掻き消えるぐらいの熱に襲われていた。

 もしかしてインフルエンザかなと思ったけれど、別に医者は「多分、風邪」というばかりだし解熱薬と痛み止めしか処方されない始末。

 

 一日三食無理やり詰め込んで薬を飲んで、後は寝る、もしくはトイレに行くぐらい。本当にどうしようもないぐらいに退屈な病人生活。

 

 布団の中で取り止めもない考えを切ったり繋げたりして、それすら書き留めないのだから、なんとなくこんなことを考えていたような気がするということしか覚えてない。

 

 今もそう。天井の隅っこをじっと睨みつけて何をやっているんだろう自分と他人のように見返している。

 素直に横になったら時間が勿体無いような気がして、体は起こしたまんま。布団から曝け出された汗ばんだ身体が冷えていくのを感じて、枕を体の前方に引き寄せる。

 それにポスっと頭を埋めてぎゅっと抱きしめれば、すこし寂しさが薄れたような気がした。

 

 そうしていると視界も封じられて自然と雨音が耳に入る。耳に届くのは葉っぱを叩く雨の音ばかり。きっとみんなとっくに寝静まった深夜だから、ただ雨音が一人はしゃぎ回っている。

 五月蝿いな、と思ったけれど自然に対して抗おうとしても無駄なことだって当然分かっていた。

 

 雨は嫌いだ。

 でも、雨といっても自分の中にはいくつか分類があって、春の雨だったり、車中から眺める雨だったり、そういう細かい分類が自分の中には決まっている。大まかな分類でいえば嫌い、でも限った部分で言えばそうでもない。

 

 その中で、部屋の内側から眺める雨は嫌いじゃないに分類されていた。細かい種別の中だと、かなり好みの部類に入る。

 

 理由は単純明快、俺がその影響をほとんど受けないから、自分が安全地帯に居ると思えるのだ。

 何でもなかった空間が、自分を守ってくれていたんだと再認識させてくれる。

 

 俺はここに居る。

 ここなら大丈夫。

 昔はそう思えていた。

 

 でも今は、この部屋が安全な場所とはどうしても思えなかった。

 どうしたって、ここで俺は孤独に熱に浮かされている。

 どれだけ苦しんだって誰も助けてくれやしない。

 

 一人っきりだから。

 誰かがいてくれればよかったのに。

 

 このままだと、膨れ上がった寂しさに、ぺちゃんこに押しつぶされてしまいそうな気がした。その重みに一人で耐えることなんて、どうしたってできないような気がした。

 

 寂しさで死ぬというのはそういう事なのだろう、誰にも気付かれないまま、どういう気持ちを抱えていたのかも知られずに孤独に死んでいく。

 ただ風邪を引いただけだというのに、それにしては過大な絶望を勝手に積み上げてはゆっくりと凹んでいく。

 

 逃げ方はわかっている、どうすれば救われるかも。

 助けを求めればいいのだ。その助けて欲しいという言葉も、その中身を知ったのであれば誰も重くは捉えない。

 それぐらい誰にでも出来るようなこと、ただ静かに黙って俺の話を聞いてくれる相手が欲しかった。

 

 震える指で「どんだけ調子が悪いんだよ、俺は」と自嘲しながら、メッセージアプリで目的の人物を探す。

 

 迷うはずもなかった、見つからないはずもなかった。

 受話器のボタンを押してしばらく待つ、えすおーえすえすおーえすと呟きながら。

 

 結果として残ったログは応答なし。

 繋がらない、繋がるはずもない。

 

 ログが残った時間を見れば03:24となっている。

 応答しなくて当たり前だ。まったく、確認してなかったとはいえ、俺はどんな時間に通話をかけようとしてるのか。

 

 そのまま入力欄を開いて、ふと動きが止まった。

 何をやってるんだろう、俺は。

 一度現実に戻って来てしまえば、もう動く事はできなかった。熱で正気を失っていると言い訳が使えるとはいえ、こんなの全部間違っているとわかっているのだから。

 

 そもそも、こんな時間に通話をしようとするのが非常識だということは、調子を崩して平静ではないという言い訳が成り立つのだから、さておいて。

 何で俺が真っ先に連絡する先が彼女が出来たであろう達也なんだよ。

 

 それはどう考えても間違ってる。

 千春に弱みを見せられないなんて考えも一ミリも挟んでいなかった。ただ今一番助けて欲しいと思った相手が、俺を助けてくれると思った相手があいつだったというだけなのだから。

 

 根っこのところで優先度が間違っていた。

 しかもあいつに頼ることなんてもう出来ない。あいつにはもう彼女が居て、それはつまり、もう他人のものだということなのだから。

 

 他人の所有物に俺は頼ることは出来ない。

 頼り頼られで真っ先に行き着かなきゃいけない相手は、千春だ。

 

 そうわかっているはずなのに。

 そうわかっていたはずなのに。

 どうしてもまだ引き寄せられてしまう。

 

 誰もいない部屋で、こんな無様な姿を誰にも見られないように、情けない泣き言を何も聞かれないように、布団で全部を覆い隠して、枕を抱きしめればボロボロと涙が溢れてきた。

 

 助けて、誰か助けてよ。

 どうしようもない俺を救ってくれよ。別に救わなくてもいいんだ、その代わりに罰してくれてもいい、お前はどうしようもない奴だとレッテルをぺたりと貼ってくれれば、それだけでもきっと救われた気分になれるのだ。

 

 もうだめなんだ、とっくにダメになってしまったんだ。

 全部手遅れだったから、自分じゃどこをどうすれば元通りになるかもわからないんだ。

 

 苦しい、この世界はずっと息苦しい。

 

 助けが欲しかった。

 どうすれば助かるかなんてとっくにわかってる。

 

 とんでもない体調の崩し方をしてることを匂わせれば、お人好しなあいつのことだからフラッとお見舞いにきてくれるだろう。

 馬鹿は風邪ひかないって嘘だったんだなって冗談吹かせつつ、いつものようにヘラヘラ笑いながらやってきてくれる。

 

 それはダメだ。

 誰に対しても不義理がすぎる。千春に対しても、達也に対しても、あいつの彼女に対しても、全員に対して不評を買うような行動でしかない。

 あいつがこんな時間に起きてなくて良かった、そのまま何となしに会話を通じてしまったのなら、正気ではない俺がぽろっと言葉をこぼして、何がどう転んだのか全くわからなかった。

 

 いっそのこと、居なくなってくれればいいのに。

 そうしたら、この胸の激情もきっと消え去ってくれるのに。

 発作的に死んでくれと打ち込んで、けれどもそのまま送信するほどの度胸はなかった。冗談だとしても俺がそんな言葉を言えるはずがなかった。

 

 そのままクリアボタンを押して、ふと指を止める。

 このまま、死という文字だけを送ったらどうなるのだろうか。達也はそれに何か気付けるだろうか、もしかしたらそこから何かを深読みして家にやってきてくれるんじゃないか。

 

 酷く浅ましく賤しい考え。

 そうわかっていながらも、送信ボタンに触れていた。

 そのまま指をスライドさせ、適当なひらがなのとこに移動して全部削除して仕舞えば良かったのに。

 

 結局、千春には何の言葉も残してないくせにそんなことをする。

 そうわかっていたから、義務的に指を動かして、結局俺は何も送らないままスマホを落とした。

 

 3

 

 たとえ発端が俺だとしても、つまりは枕を顔面にぶち当てた加害者だったとしても、ここまでされるほどの事だっただろうか。

 病み上がりというより、そもそもいまだに全然病中の人間であるというのに、枕投げという本旨を外れてポコポコと枕とクッションで千春に袋叩きにされたのが少し前ののこと。

 

 そんな横暴を振る舞った彼女は、今はここにいない。

 俺に料理を振る舞ってあげると、階下のキッチンへ意気揚々と降りて行ってしまったから。といっても材料も何も持って来てなかったような気がするし、家の冷蔵庫の中のものを勝手に使う気なのだろうか?

 

 従来だったら母さんに止められていただろうけれども、あの人も今はダウンしているから千春を止めるものはいない。

 まあ、流石に、そこまで酷いことにはならないと信じている。人の家のキッチンを借りるぐらい度胸があるということは、きっと彼女なりの裏打ちがあったに違いない、多分。

 

「……本当に予想外だったな」

 

 ぼんやり天井を見上げながら思わず呟きが漏れた。

 彼女がわざわざお見舞いに来たなんて、てっきり名目だけだと思っていた。

 深読みに深読みを重ねて、ただ俺が現実逃避をして登校拒否をしていたから、痺れを切らして先に別れを告げるべくやって来たのだろうと思っていた。

 

 正直、他人からしてみれば過大な被害妄想とも言えるのかもしれない。でも間違いなく自分はそう思っていた。

 さっくりと彼女から振られると思って、それなら先に此方から別れてほしいと告げるのが筋だとも思ったのだ。

 

 まあ、その行動自体も裁かれるべき側の人が、勝手に楽になろうとしてるだけで。勝手に結論を決めてそれを押し付けることで逃げる罪をまた増やしていると指摘されるのかもしれないけれど。

 

 とにかく、疲れていた。

 やる事は寝ることぐらいしかないのに一生体力が回復する気配は無い。睡眠の合間に積み上げるマイナス思考が俺の身に何らかのいい影響が及ぼす気はなかったけれど、結局考えて考えて考え抜いてそしたら何か変わるんじゃないかと思って。

 

 まあ結局、人は行動によってしか前に進めない。

 待ってても何も変わらない、時間によって選択肢が減るだけ。だから、ただ今の自分に何の選択肢があるのかぼんやりと考えていた。昔間違えたであろう選択肢を悔やんでいた。

 過去の経験を活かそうと思ったとか殊勝な考えが元にあれば良かったのだけれども、それも無い。

 

 こんな風につらつらと考えを連ねていると、千春が丼を携えて部屋に戻ってきた。

 

「ほら、出来たわよ」

「おお、ありがとう……おお……?」

 

 料理を振る舞うといったから、わりかし時間がかかるかと思ったけれどわりかし早い帰還。特に買い物に行った様子もなかったけれど、何か冷蔵庫にあっただろうか?

 

 なんかどこかで嗅いだことのある、食欲を誘ういい匂いが部屋に充満していた。鼻水で随分と感覚も鈍っているけれど、匂いだけで判断するならばそう、間違いなくサッポロ一番の醤油のような香りである。

 

 確かに差し出された丼には、サッポロ一番らしきインスタントラーメンがよそわれていた。

 

 具なしのインスタントラーメン……?

 

 今まで彼女がいなかった俺にとっては衝撃だった。

 料理を作ってあげるという誰もが胸踊らせる言葉から、いきなりこんな路線に振れることがあるのか?

 

 わからない。

 千春にとってこれが自然体なのかもしれないし、もしかしたら俺に対する好感度から見るに、『今お前に出される料理はこの程度でしかねえよ』という暗喩なのかもしれない。

 

 ちらっと横目で千春の様子を伺うも、彼女は自分の行動に何の疑問を持っていないのか、平然とした様子。

 

 俺がおかしいのか……?

 

 しかしながら、わざわざ彼女が作ってくれた料理であるし、それを指摘するのも無粋な気がして、彼女の差し出してきた箸を受け取って麺を取る。

 

 微かに違和感があった。

 思わず手を止めてしまうような、熱でぼやけた思考でも気付くぐらいの警鐘。でも少し考えても何がおかしいのがわからない、どこまでいっても普通のインスタントラーメンにしか見えなかった。

 まさかお湯以外のもので茹でたり、変なアレンジを加えているようにはとても見えない。

 

 大丈夫、なはず。

 それを振り払うように麺を啜り上げて。

 尋常じゃない固さの麺に思わず思考が止まった。

 

「どう?」

「……嫌がらせか?」

「え、何でそんなこと言うの?」

 

 無言でどんぶりを突き返すと、千春も同じように麺を掬い上げ、目を見張った。

 

「凄い……! こんな美味しくないインスタントラーメン初めて食べた……!」

「そんなもんあるわけねーだろ! サッポロ一番の醤油味だろこれ、どういう作り方したらこうなるんだよ!!」

「そんな怒らないで、ちゃんとお湯を注いで3分待ったんだから」

「お湯を注いで3分なんて作り方しないんだよ!サッポロ一番はチキンラーメンじゃないんだぞ!!」

 

 目をぱちくりさせている千春にこんこんと説明をする。

 3分で出来るのはカップラーメンかチキンラーメン程度であり、インスタントラーメンは茹でる必要があること。

 また、その茹で時間は説明書に記載されているからそれに従う必要があること。

 

「いやはやうっかり、チキンラーメンぐらいしか食べたことないから勘違いしてた。ごめんね井上君」

 

 彼女は素直にそう謝って、どんぶりを持ってまたキッチンへと戻って行った。まあ、まだ取り返しのつくミスではある、指摘した通りもうちょい茹でればいいのだから。

 最悪そのままの状態で電子レンジに突っ込んで少し温めれば全然食べれるレベルの話である。

 

 でもきっと、俺の中にある確信が一つ生まれていた。

 間違いなく、千春は手料理とか絶対できない。

 

 インスタントラーメンをまともに作ったことない奴が他の料理をやったことあるはずがない。

 尚且つ袋ラーメンの説明を読まない奴が、レシピに従うはずがないのだ。そこから導き出される結論は一つだ。

 無理、絶対に無理である。

 

 そんな無理難題を押し通して、もしここで千春のアドリブで手料理のチャレンジをされたのであれば何が起こっただろうか?

 

 あり得た未来を想定し、思わず身を震わせる。

 本当に恐ろしかった。

 もしかしたら、彼女なりに身の程を知っていたからこそ、彼女は俺の夜食であったサッポロ一番を発見して引っ張り出して来たのかもしれない。

 

 ありがとう昔の俺。

 そしてありがとう千春。

 麺を再度温めてくれて。

 

「身の程を知っていてくれて、本当に良かったっていう話だよ」

「そう、それは私を褒めてるの?」

「褒めてるよ。そんな千春へのアドバイスだが、これから料理する機会があったら、何はともあれ味見をすることを覚えておくといい」

 

 試しに麺を啜れば先ほどよりは全然食べれる味だった。

 優しい醤油味が疲れた体に染み渡っていく。

 今はあまりの驚きにアドレナリンが出て体の調子も幾分かマシ。といっても反動で間違いなく、そのうちぶり返してくるんだろうなという予感もあった。

 

「てっきりさ、千春に嫌われたと思ってたんだ」

 

 半分程度まで食べ勧めて、不意に口を開いた。

 今のうちに、余裕があるうちに話しておかなければいけないことがあったから、それを分かっているのか彼女は目を線のように細めて、此方の言葉を聞いている。

 

「うん、井上君がそう思ってるような気がした。だからまずは誤解を解かなきゃいけないなと思って」

 

 一口いい?、と彼女が尋ねて来て俺は丼を差し出した。

 作り方を間違えなければちゃんと美味しいのねと彼女は宣っているけれど、ちゃんとした作り方をしていないものを先に味わってからその落差を語られても困るような気がする。

 

 普通なのが普通なのだから。

 普通ではないのがおかしいのだから。

 

「あの時、私に断られたからそう思ったんでしょ? 拒否したから自分の行いの罪深さに気づいて、それを咎められたと思ったんじゃないの?」

「そうだろ?」

「そうじゃない、私にも都合があったから」

 

 彼女は決まりが悪そうにこちらから目を逸らした。

 丼を机の上に移動させて、何かを取りだそうとしているのか通学用鞄をを探っている。

 

「私にはね、秘密があるの。こっちに来てからずーっと誰にも明かしてない秘密があった」

「秘密?」

「そう秘密。とっておきの、誰も知らないこと」

 

鞄から取り出したのは手のひらサイズの何かだった。

その表紙を千春一人で眺めて、ふっと軽く息を漏らした。

 

「それを隠したまま、そこから先に踏み込むのは不誠実だと思ってた。別にそれを隠し通せるならいいんじゃないかとも思ったけれど、そんなの絶対に無理だっていうこともちゃんとわかっているからね」

 

 その秘密をね、今日は井上君に明かしてあげようと思ったの。正直、隠したままで断った理由も何となく濁したままでもいいと思ったけれど、どれだけ失敗しようとも全部纏めてくれるってあの人が予防線を張ってくれたから。

 

「私は結構、卑怯だから。一番最初に明かせば良かったんだけど、その勇気もなかったから。でもね、私に保証してくれたのであれば、彼はそのためにきっと身を張ってくれるでしょう?」

「……その彼が、俺には誰かわからないんだけど」

「ヒント、井上君も知ってる人」

 

 もう間違いなく心当たりは一人しかいなかった。

 何かが起ころうとしている、そして何かの引き金は俺がいない場所でとっくに引かれていた。

 

 千春がベッドの端に腰を降ろして、俺の手のひらに何かをねじ込んできた。何ら不思議なものでもない、紺色の手帳のようなもの。

 確かあの映画館の日、彼女はなにかをメモをしていた。ただ、あれよりずっと小さいサイズの、メモ帳ですらない、ほんと生徒手帳ぐらいの小さく細い何か。

 

 これが何かはわからない。

 けれども、脳裏で何かが瞬いたような気がした。

 一度、これをどこかで見た事はなかっただろうか。

 どこで見たか、記憶の引き出しを片っ端から開けていく。わからない、思い出せない、ただ不思議なことに消毒液の匂いが微かにしたような気がした。

 

「……開けなよ」

 

 言葉に背いて、答えを先延ばしにして、手帳をひっくり返すと障がい者手帳と書いてあった。

 その文字自体には何の衝撃もなかった、でもその代わりに不意に突き飛ばされたような感じがした。

 

 これは、俺に渡されたものと同じものではなかったか?

 全部遠ざけて、母親に押し付けた手帳と同じものではなかったか?

 ある一つの予感に従って手が動いていた。

 

 事実1、これは俺の手帳ではない。

 事実2、これは千春の持っていた手帳である。

 

 つまり、それは。

 千春が抱えるとっておきの秘密は。

 その中身に記されていることは。

 

 ぱちぱちと頭の中で急速にパズルが組み上がっていく。

 彼女が周りを拒んでいた理由。

 高校に上がってからずっと遠い場所からやって来たという情報。男が恋愛対象じゃないという言葉、そして俺なら大丈夫だったという事実。

 

 開けば答えがある。

 答え合わせをしなければいけない。

 恐ろしく重いと思えた表紙も、開いてしまえば酷く軽かった。

 小川千春という個人情報の左のページに、彼女に対する障害名が書かれている。

 

 機能障害による性別の転換。

 恐ろしく無機質に機械的に記されていた。

 

「そういうことだから」

 

 確認は済んだでしょと言わんばかりに、手帳が掻っ攫われる。

 

「だから断ったの。騙しててごめんね」

 

 そう言って千春はそのまま、部屋から出て行ってしまった。もう要件は済んだと言わんばかりに、一人で勝手に満足してこっちの言葉も何も聞かないで。

 

 狡いと思ったのは、何にだったか。

 

 今まで何も教えてくれなかったことか、それとも言い逃げしたことだったか、誰にも言わなければずっと女の子でいられたのにという嫉妬だったか。

 

 結局のところ、答えなんてわからない。

 きっと俺の頭の中はそれらが全部入り混じって、ごちゃごちゃとした絵の具のパレットのような様子で。

 

 とにかく最後に残るのは事実だけ。

 俺は遮二無二、その背中を追って俺は家の外に飛び出したのだ。

 全くどうして、いまだってずっと調子が悪いのに。体は重くてたまらないし、頭痛は鳴り止まないし、ずーっと寒気で身を震わせるというのに。

 

 なに? と視線で疑問をぶつけてくる千春に、俺は「送るよ」と格好をつけて言ったのだ。

 きっと、ここにいたのが俺ではなくて達也でも、今と同じことをするんだろうなと思いながら。

 

「素直に寝ときなよ、全然まだ調子も悪いんでしょ?」

「調子は悪いけど、まあ、自転車使えば行けるだろ」

 

 顎で刺した先にはここ最近ずっと使っていないママチャリが置いてある。軽くタイヤの空気を確認して、後ろを指差した。

 

「後ろ乗ってく?」

 

 その言葉を聞いて、千春は呆れたようにため息を吐いた。

 

 4

 

 自転車を漕ぐ。

 

 背中に千春を乗せて、必死に漕ぐ。

 初めの勢いさえ付ければ問題ない、後は惰性で進んでいくのだから。

 重いペダルを踏みながら、街路灯を辿って、風を切って。

 

 2ケツなんてもう、中学校ぶりだった。警察に見つかれば道交法で切符をプレゼントされる時代であったし、無理はない。

 

 懐かしい思い出だ、背丈もあのときに逆戻りしている。後ろにいるのが千春であったから記憶の完全再現とまではいかないけれど。

 

 俺と千春に会話はなかった。

 たまに道を指示する言葉があって、それに無言で従うだけ。

 彼女は俺の背中にしがみつく事はなく、確認しようはないけれどきっと荷台につかまって俺の背中を眺めているのだろう。

 

 会話をする気も無かった。

 彼女が後ろに乗った時点で、ある程度の答えを見つけられた気がした。

 

 中学校の頃の話を、前に千春としたことがある。

 昔遠い田舎にいた事を聞いた、そっちの友人とは喧嘩別れになったことも。

 

 それはきっと、俺と同じように千春の性別が変わってしまったことが端を発していたのだろう。そこで何があったのかは、まだきっと教えてくれないような気がした。

 だから聞く気はない、ただこっちの街まで一人でやって来るしか無かったことを知っていればいいのだから。

 

 その話を聞いたときに、俺は何とも思わなかった。一人で来ようとも、むしろそれがいいことのような気がした。

 田舎から街へ出てこれたのは、少なくとも俺に取っては人生にとって差し引きプラス。

 

 赤信号に止められて、ブレーキを握りしめる。

 でも、違ったんだろうな。

 

 何もなければ千春はここに来ることもなかった、求めちゃいないことだった。

 だから俺が軽く流したのを見て、ほんの少し困ったように笑ったのだろう。

 

 信号が変わったのを見て、力を込めてペダルを踏み締める。一瞬ふらつくけれども、速ささえ乗れば問題ない。

 結局、誰も知らない街に来て、それっぽい女の子を演じていて、千春は幸せだったのだろうか。

 

 少なくとも、俺はそうは思わない。

 そうなりたいかといわれたら、即座に否定するだろう。

 俺には達也がいて、千春にはいなかった。

 

 もしかしたら後ろの奴にも同じような存在は居たのかもしれない、それこそ喧嘩別れした友達のことなのかもしれない。そうすると、俺たちみたいに関係を繋ぎ続けることを出来なかったということになる。

 

 それは嫌だと、俺は思う。

 千春は一人になって、誰も近づけない孤独の中にいた。

 それこそ、まさに俺が恐れていたことではなかったか?

 

 達也に彼女が出来て、千春に嫌われたと妄想して、そうして一人になることが怖いと泣いていたのは、はたして俺だけだったのだろうか。

 

 ああ、俺は一人じゃなかったのかもしれない。

 俺に近しい存在は確かに居るのだ。

 

「ここで止めて」

 

 彼女の言葉に、思考のブレーキをかける。

 交差点、まだ家から少し離れているであろう場所だというのに、千春はあっさりと荷台から降りて前に回り込んできた。

 

「ねえ井上君、本当に別れる?」

 

 俺は、自分が吐いた言葉をもう一度この場で言えるのだろうか。みっともないことだとしてもこの縁を切ってしまうことができるのだろうか。

 

「……俺さ、また諦められない恋をしてるんだ」

 

 わかっている。

 俺があまりに情けないことをしてるって。

 そうだとしても、千春が誠実であろうとしたように、俺も嘘をつくべきではないってことぐらいわかっていた。

 

「報われないって当然わかってるつもりなんだ。それでも、ずっと見切りをつけることができないでいる、まだ大丈夫なんじゃないかと思ってた。そんな状態でさ、他人と向き合うのは不誠実だと思うし、最低なことをしていたって弾糾されたら誤魔化しようがないよ」

 

 それでも、それでもいいなら。

 

「俺はさ、まだ一人になりたくないんだよ」

 

 世界が滲む、本当に情けない。

 どうしようもない俺の泣き言だ。

 体調が戻ったら自責の念で憤死にするに決まってる。

 

「そう、それならまだ一緒にいてあげる」

 

 彼女は俺から背を背けて、そう言った。

 

 俺は、俺たちは正しい行動を選べているのだろうか。

 どうにも、ずっと答えを外している気がするのに、誰も間違っているとも、正解だとも教えてはくれないから、不安で不安でたまらない。

 

 交差点に描かれた止まれの白線を踏み越えて、千春は家へと向かって歩いていく。その背中を、俺は黙って見送った。

 腕を振る気力も、声をかける体力もとっくに尽きていた。

 

 千春にとっての正解を、俺は選べたのだろうか?

 

 答えはずっとわからないまま。

 不正解でも、まあそんなことあるよねと笑い飛ばせる強さがあればよかったのに、そんなものを持ち合わせていないから今日も無いものねだりばかりしている。

 

 そして、俺は何事もなく家に帰れるのだろうか。

 ペダルに足をかけつつ、それを踏み込む力が湧いてこない。その代わりにどっと疲労と熱病が体にまとわりついて来ている。

 

 こっちの答えは、当然わかるような気がした。

 

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