呪術の世界に迷い込んだ、パラディ島の悪魔   作:ブァッファイ小五郎

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十話目

 鬱蒼と生い茂る木々が、初夏の日差しを遮り、森の中にはひんやりとした薄暗い影が落ちていた。

 静寂に包まれた呪いの森。その両端に、東京校一行と京都校一行がそれぞれ所定の配置に着き、静かに開始の合図を待っていた。

 ピリピリとした緊張感が張り詰める中、森の各所に設置されたスピーカーから、突如としてノイズ混じりの陽気な声が響き渡った。

 

『えー、マイクテス、マイクテス。それでは開始に先立ちまして、京都校引率の庵歌姫先生から、ありがたーい激励のお言葉です! はい、どーぞ!』

 

 五条悟のふざけきった前振りと共に、スピーカーの向こうでゴソゴソとマイクが手渡される音がした。

 

『えっ、ちょっと、いきなり何よ……コホン。えー、両校の生徒たちへ。これはあくまで交流会です。ある程度の怪我は仕方ないですが、時々は助け合いをしながら、互いの成長を――』

 

 歌姫が真面目に、そして真摯に言葉を紡ごうとした、まさにその時だった。

 

『はい、時間でーす!』

 

『ちょっと五条! あんたが振ったんでしょバカ!!』

 

 スピーカーの向こうで歌姫が激怒して文句を叫んでいるのを完全に無視し、五条はノリノリの最高潮のテンションで高らかに宣言した。

 

『京都姉妹校交流会、スタート!!!』

 

 その合図と共に、森の空気が一変した。

 鳥たちが驚いて一斉に飛び立ち、風が呪力を帯びてざわめき始める。東京校の面々も一気に駆け出し、深い森の奥へと足を踏み入れた。

 先頭を走る虎杖悠仁が、周囲の木々を警戒深く見渡しながら口を開いた。

 

「なあ、ターゲットのボス呪霊ってのは、どこにいるのかな」

 

 その横を並走するパンダが、冷静に分析を返す。

 

「放たれたのは中間地点だろうけど、相手も呪霊だ。じっとしてないからな。あちこち動き回って、俺たちや京都校の連中を待ち伏せしてるはずだ」

 

 少し後ろを走っていた禪院真希が、長柄の薙刀を構え直し、鋭い声で指示を飛ばした。

 

「いいか、事前に決めた通りだ。例のタイミングで、索敵に長けたパンダ班と、伏黒班の二手に別れる。……虎杖、東堂のゴリラが来たら、後は頼んだぞ」

 

「おう! 任せとけ!」

 

 虎杖が力強く頷く。

 真希はさらに視線を横に向け、虎杖と並ぶようにして走っているエレン・イェーガーを見た。

 

「エレン、お前は遊撃だ。とりあえず、あの『巨人化』の能力は万が一まで温存し、使わずに妨害をし続けろ。お前の機動力なら十分やれるはずだ」

 

「……ああ、分かってる」

 

 エレンが短く答えた、その直後だった。

 

『ギギ……ギギギ……!!』

 

 一行の目の前の茂みから、気色悪い呻き声と共に、三級程度の呪霊が飛び出してきた。複数の眼球を持ち、這いずるような姿をした醜悪な化け物だ。

 

「チッ、雑魚が。私が……」

 

 真希が薙刀を振り上げ、一撃で祓おうと踏み出した瞬間。

 

「待ってください!!」

 

 後方にいた伏黒恵が、鋭い声で真希を制止した。

 伏黒の視線は、呪霊ではなく、そのさらに奥、森の深部から急速に接近してくる「異常な質量」に向けられていた。

 

 ――メキメキメキィッ!!! ドゴォォォンッ!!!

 

 大木が何本も薙ぎ倒され、土砂を巻き上げながら、一人の巨漢が真っ直ぐに突っ込んできた。

 京都校一級呪術師、東堂葵である。

 彼は東京校の面々を見据え、歓喜に満ちた凶悪な笑みを浮かべて叫んだ。

 

「素晴らしい! 全員、全力でかかってこい!!」

 

 圧倒的な呪力のプレッシャー。三級呪霊など、彼の突進の余波だけで消し飛んでしまいそうな勢いだった。

 しかし、東堂が両腕を広げて迎え撃とうとしたその刹那。

 誰よりも速く反応した虎杖悠仁が、地面を蹴り爆発的な跳躍を見せた。

 

「オラァッ!!」

 

 空中で体を捻り、虎杖の強烈な飛び膝蹴りが、東堂の顔面を完璧に捉え、そのまま蹴り抜いた。

 

 ――ドバァァンッ!!

 

 東堂の巨体が、後方の木々に激突しながら吹き飛んでいく。

 

「今だ! 散れ!!」

 

 真希の号令が響き渡る。

 それを合図に、東京校の面々は事前に打ち合わせていた通り、パンダ班と伏黒班の二手に別れ、左右の森へと疾風のように散っていった。東堂の足止めは、虎杖一人に託された。

 

 そして、エレン・イェーガーは。

 彼はどの班にも属さず、己の判断で一人、森のさらに奥深くへと直進していた。

 

(まずは索敵だ……)

 

 立体機動装置で培った空間把握能力と、巨人としての鋭敏な感覚をフルに稼働させる。風の匂い、葉の擦れる音、そして微かな呪力の痕跡。

 エレンの最大の目的は、呪霊の討伐以上に、あの女、禪院真依を見つけ出し、完全に潰すことだった。親友を侮辱し、命の尊厳を嘲笑ったあの女の顔が、脳裏にこびりついて離れない。

 しかし、森の中を疾走するエレンの頭の片隅で、チリチリとした嫌な予感が渦巻いていた。

 

(……なんだ? この胸騒ぎは)

 

 明確な理由はない。だが、幾多の死線を潜り抜けてきた兵士の直感が、何か「良くないこと」がこの森で起ころうとしていると警鐘を鳴らしていた。

 その思考の隙を突くように。

 

『キュルルルッ!!』

 

 頭上の枝葉から、ぬらりとした液体を滴らせた奇妙な呪霊が、エレンの首筋を目掛けて鋭く飛びかかってきた。

 

「……ッ!」

 

 エレンは瞬時に反応した。考えるよりも先に肉体が動き、上体を極限まで逸らしてその奇襲を紙一重で回避する。

 空を切った呪霊に対し、エレンはそのままの勢いで地面を蹴り、強烈な右の回し蹴りを呪霊の胴体へと叩き込もうとした。

 しかし、エレンの足が触れる直前。呪霊から発せられる微力な圧を感知し、エレンの頭脳が冷静に分析を下す。

 

(この程度の圧……こいつは、パンダが言っていた『ボス呪霊』ではない)

 

 一瞬、エレンはこのまま呪霊を無視し、先に禪院真依の捜索を優先しようか迷った。

 だが、エレンはすぐにその考えを打ち消した。

 勝負事になった以上、負けるような戦いはしたくない。この世界に来て、交流会に出ると決め、伏黒や釘崎、真希たちと心身がボロボロになるまで手合わせを重ねてきたのだ。彼らの想いを背負っている以上、東京校を勝たせるためのポイントは確実に稼いでおく必要がある。

 それに、呪力を持たない自分の純粋な格闘技術が、対人ではなく『呪霊』相手にどこまで通用するのか、少し試してみたいという戦士としての好奇心、楽しみもあった。

 廃病院で初めて呪霊を倒した時は、後ろに伏黒と釘崎が控えていた。しかし今は、エレン一人しかいない。如何に弱い呪霊であっても、気が抜けない状況だ。

 

「……とりあえず、お前から祓う」

 

 エレンは着地と同時に体勢を低くし、再び呪霊へと猛スピードで肉薄した。

 呪力を持たずとも、エレンの拳には巨人の力に由来する圧倒的な「正のエネルギー」が宿っている。殴り潰せば祓えることは、既に実証済みだ。

 エレンは渾身の力を込めた右ストレートを、呪霊の顔面と思しき部位へと真っ直ぐに突き出した。

 

 ――ガツンッ!!

 

 確実に捉えた。そのはずだった。

 しかし、次の瞬間、エレンの拳は信じられない感触に滑り、呪霊の体をツルリと撫でるように逸れてしまったのだ。

 

「なっ……!?」

 

 バランスを崩しかけたエレンの横を、呪霊が嘲笑うかのような鳴き声を上げてすり抜けていく。

 その呪霊『逃竄(とうざん)泥蜥蜴(どろとかげ)』は、戦闘能力そのものは一般的な四級から三級レベルであり、一般人を殺傷するほどの力すら持っていない。しかし、「逃亡」と「遅延行為」に関しては、一級呪霊すら凌ぐほどの極めて厄介な適性を持っていた。

 体表から常に分泌される呪力を帯びた油。それが極限まで体液を潤滑化させ、あらゆる打撃や斬撃の威力を無効化し、受け流してしまうのだ。呪力で肉体を強化した術師が力任せに掴みかかっても、まるで濡れた石鹸のようにヌルリと滑り抜けてしまう。

 

「クソッ、ふざけやがって……!」

 

 エレンはすぐさま体勢を立て直し、逃げる呪霊の背後から連続して拳を浴びせた。

 左、右、そして膝蹴り。どれも巨人の膂力に裏打ちされた必殺の一撃だ。

 だが。

 ニュルッ、ボフッ、ツルンッ。

 すべての打撃が、表面の油に滑って威力を殺され、致命傷に至らない。

 

「なら、これでどうだ!!」

 

 エレンは呪霊の尻尾を両手で強く掴み、そのまま地面に叩きつけようとした。

 その瞬間、呪霊の体がボコボコと不気味に波打ったかと思うと、掴んでいたはずの尻尾から「本体」だけがスポンと抜け出し、ズルリと地面に這い出てしまった。

 あとに残されたのは、本体の呪力をほぼ完全にコピーした、精巧な「抜け殻」だけだった。

 

『キュキャキャキャッ!!』

 

 ギリギリまで追い詰められると脱皮して逃げるという、この呪霊の最大の特性。

 数メートル離れた木の枝から、本体の呪霊がエレンを見下ろし、人を小馬鹿にしたような鳴き声を上げて煽ってくる。

 

「……てめぇ……」

 

 エレンの額に青筋が浮かんだ。

 何度も何度も拳を浴びせ、確実に仕留めたと思えば抜け殻を掴まされ、遠くから煽られる。

 かつて、硬質化能力を駆使して逃げ回った女型の巨人や、狡猾な策を弄した獣の巨人との戦いとは違う。ただただ不快で、神経を逆撫でするような小賢しい逃げの戦法。

 エレンの心の中に、これ以上ないほどの苛立ちがドス黒く渦巻き始めた。

 

(こんなクソみたいなトカゲ一匹に、これほど手間取らされるとは……! いば全身を吹き飛ばしてやる……!!)

 

 怒りで視界が赤く染まりかけ、エレンが思わず自らの手の甲に歯を立てようとした、その時だった。

 

『……落ち着け、エレン』

 

 不意に、脳裏に冷たくも静かな声が響いた。

 それは、かつて巨大樹の森で、後方から迫る女型の巨人の脅威に我を忘れそうになったエレンをたしなめた、あの人の声だった。

 人類最強の兵士、リヴァイ・アッカーマン。

 

『怒りに身を任せて周りが見えなくなれば、死ぬのはお前だけじゃねぇ。お前のその頭は、飾りか? 状況をよく見ろ。巨人の力に頼る前に、兵士として頭を使え』

 

 幻聴か、あるいは過去の記憶のフラッシュバックか。

 だが、その鋭い言葉は、熱湯のように沸騰していたエレンの脳髄に冷水を浴びせ、一瞬にして彼を冷静な『兵士』へと引き戻した。

 

(……そうだ。こんな所で、たかだか三級程度の呪霊相手に巨人の力を使うわけにはいかない。真希たちとの約束もある)

 

 エレンは深く息を吐き、自傷しかけた手を下ろした。

 そして、冷徹な目で呪霊を観察し、倒す算段を高速で組み立てる。

 

(打撃が滑るなら、滑る余地のない状況を作ればいい。あいつの逃走ルートを限定し、完全に身動きが取れない『壁』へと追い詰める。退路を断った上で、壁ごと全力で押し潰す)

 

 単純だが、最も確実な物理的圧殺。

 エレンは、自身らしくない戦法、感情を排し、ただ獲物を追い立てる猟犬のような動きを選択した。

 

 ――ダァッ!!!

 

 エレンが再び駆け出す。今度は一直線に突っ込むのではなく、呪霊の進行方向を塞ぐように、大きく迂回しながら距離を詰めていく。

 

『キシャッ!?』

 

 エレンの動きの変化に焦った呪霊が、慌てて木々を跳び移りながら逃走を図る。

 しかし、エレンの脚力と立体機動で鍛えられた三次元的な予測能力の前には無意味だった。

 エレンは時折、あえて滑るのを前提で軽いジャブや蹴りを放ち、呪霊の逃げる方向を巧みに誘導していく。右へ逃げようとすれば右から牽制し、上へ逃げようとすれば木の枝をへし折って落下させる。

 ひたすらに追いかけ回し、恐怖を与え、体力を削っていく。

 

「そこだ!!」

 

 数分に及ぶ激しい追跡の末、ついに呪霊は、森の奥深くにある切り立った巨大な岩壁の窪みへと逃げ込んでしまった。

 左右も上も岩に囲まれ、背後は行き止まり。完全に逃げ場を失った。

 

『キュ、キュルルルッ……!!』

 

 パニックを起こし、岩壁に張り付いて必死に滑り逃げようとする呪霊。

 その背後に、エレンが音もなく降り立った。

 

(今度こそ、終わりだ)

 

 エレンは右拳を引き絞り、巨人の膂力と生命のエネルギーを限界まで一点に集中させる。この一撃で、岩壁ごとトカゲを肉片に変えて祓う。

 

 だが、エレンが全力で拳を振り下ろそうとした、まさにその瞬間だった。

 

 エレンの視界の片隅。

 数十メートル離れた斜面の上、太い樫の木の枝の上に座っている、黒髪の女の姿が映り込んだ。

 禪院真依。

 彼女は、エレンの存在に全く気づいていない様子で、長銃身のライフルめいた呪具を構え、スコープを覗き込みながら、遥か遠くの「誰か」へと照準を定めていた。

 

「……!」

 

 その姿を捉えた瞬間、エレンの手が一瞬だけ、ピタリと止まった。

 思考が呪霊の討伐から、あの女への殺意へと完全に切り替わったのだ。

 そのほんのコンマ数秒の隙を、呪霊は見逃さなかった。

 

『キシャアアッ!』

 

 油を大量に分泌し、岩壁のわずかな隙間を這うようにして、呪霊はエレンの脇をすり抜け、森の奥へと再び姿を消してしまった。

 せっかく追い詰めた呪霊の逃亡。

 しかし、エレンはもはや、逃げられた呪霊のことなど微塵も考えていなかった。彼の深緑の瞳は、真っ直ぐに真依だけを射抜いていた。

 

 遠くの枝の上で、真依はスコープ越しの標的に向かって、冷酷な笑みを浮かべたまま引き金を引いた。

 

 ――パンッ!!

 

 乾いた銃声が響く。弾丸は正確に森の奥の誰か、恐らくは釘崎か、あるいは真希へと飛んでいった。

 

「……当たってよかった」

 

 真依は銃口から立ち上る硝煙を吹き消し、人を小馬鹿にしたような、最高にイヤな笑みをこぼした。自分の手を汚さず、安全な場所から他人を傷つけ、悦に浸るその姿。

 エレンの心の中で、ブチッ、と理性の糸が切れる音がした。

 

(生かして帰すわけにはいかない)

 

 エレンは、足元に転がっていた、人間の頭ほどもある少し大きめの岩石を無造作に拾い上げた。

 その表面の泥を軽く払い落とすと、エレンは野球のピッチャーのように体を大きく捻り、巨人の筋力を完全に解放した動きに入った。

 標的は、真依の顔面。

 

「消えろ」

 

 ――ドゴォォォォンッ!!!

 

 エレンの腕が鞭のようにしなり、手から放たれた石が、まるで大砲の砲弾のように空気を引き裂きながら飛んでいく。衝撃波で周囲の木の葉が一斉に散った。

 その異常な風切り音に気づき、真依がハッとして横を向いた。

 

「え……?」

 

 視界を埋め尽くすほどの速度で迫り来る巨大な石塊。

 

「ッ!!!」

 

 真依は本能的に体を後ろに反らせ、ギリギリのところで直撃を躱した。石は彼女の鼻先を掠め、後ろの太い木の幹に激突して木端微塵に砕け散った。

 しかし、弾速があまりにも速すぎた。

 強引な回避により完全に体勢を崩した真依は、そのまま木の枝からバランスを失い、悲鳴を上げながら数メートル下の地面へと真っ逆さまに落ちていった。

 

「きゃあああっ!!」

 

 ――ドサァッ!! バキバキッ!!

 

 落ち葉と木の根が剥き出しになった固い地面に、背中から激突する真依。

 

「がはっ……!! あ、あああっ……!!」

 

 肺から空気が強制的に排泄され、全身の骨が軋む激痛に、真依の顔が苦痛で無惨に歪む。あまりの痛みに起き上がることもできず、彼女は地面を這うようにして、痛む首をゆっくりと持ち上げた。

 

 そして。

 霞む視界の先、落ち葉を踏みしめる重い足音が聞こえ、影が彼女を覆い隠した。

 顔を上げた真依の目に飛び込んできたのは。

 一切の感情を排した、深緑色の瞳。

 死神よりも冷酷な顔で彼女を見下ろす、エレン・イェーガーの姿だった。

 

「ひっ……!! あ……アンタ……!!」

 

 真依の顔から一瞬にして血の気が引き、その瞳に底なしの絶望の色が浮かび上がった。

 数日前の恐怖が、何十倍にも膨れ上がって蘇る。逃げ道はない。銃を構える余裕もない。

 エレンは、怯え震える真依をゴミを見るような目で見下ろし、静かに、だが絶対的な宣告を下した。

 

「……殺しはしない」

 

 その言葉の裏にある「だが、五体満足で帰すつもりもない」という明確な残酷さに、真依は悲鳴すら上げることができなかった。

 

 森の深部、木漏れ日すら届かない暗闇の中で。

 禪院真依とエレン・イェーガーの、一方的で凄惨な戦いが、今、始まろうとしていた。

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