呪術の世界に迷い込んだ、パラディ島の悪魔   作:ブァッファイ小五郎

11 / 12
十一話目

 森の深部、陽の光すらも遮られた鬱蒼とした暗がりの中で、死神のような冷酷さを纏ったエレン・イェーガーは、足元で無様に這いつくばる禪院真依を見下ろしていた。

 先程、自身が投げた石塊を避けるために樹上から落下した真依は、全身を打ち据えた激痛により、まともに立ち上がることすらできていなかった。制服は泥に汚れ、額からは血が滲み、呼吸をするたびに肺がヒューヒューと悲鳴を上げている。だが、彼女を何よりも支配していたのは、物理的な痛みではなく、眼前の男から放たれる絶対的な「死」のプレッシャーだった。

 

 エレンは、ガタガタと全身を痙攣させるように震えている真依の姿を見て、深緑の瞳に明らかな侮蔑の色を浮かべた。

 

「……なにをしている」

 

 その声は、怒りというよりも、ひどく冷め切った氷のような温度を持っていた。

 

「早く撃たないのか」

 

「ひっ……!」

 

 真依の肩が跳ねる。エレンは、足元に落ちている黒光りするリボルバーに視線を移し、再び真依を射抜くように睨みつけた。

 

「呪霊と対峙する際でも、そんな情けないことをするのか。恐怖に呑まれ、武器も拾えず、ただ死を待つだけか」

 

 その冷たい糾弾は、かつて壁の中で巨人に怯えるだけだった人類の弱さを、あるいは、何もできずに母を喰われた無力な自分自身を責める響きにも似ていた。

 エレンは、生きるための意志を放棄し、ただ震えるだけの真依の姿を見るだけで、腹の底から湧き上がるようなどす黒い苛立ちを覚えた。戦場において、戦うことを諦めた者は、ただの肉塊でしかないのだ。

 

 エレンのその刺すような言葉と、微塵の容赦もない眼差しに打たれ、真依の生存本能が強烈に警鐘を鳴らした。

 

(殺される……ッ!! このままじゃ、間違いなく殺される……!!)

 

 真依は、背中や腰に走る激痛を歯を食いしばって堪え、泥まみれの手を伸ばして、先程の衝撃で手放してしまった銃を拾い上げた。冷たい鉄の感触が掌に伝わる。彼女は震える両手で銃のグリップを握りしめ、銃口をエレン・イェーガーの胸の中心、心臓へと合わせた。

 

 しかし。

 真依の指は、引き金に掛かったまま、凍りついたように動かなくなってしまった。

 彼女はこれまで、呪術師として幾度となく異形の呪霊を祓ってきた。だが、相手はあくまで「呪い」というバケモノであった。生きた人間、同じような姿形をした人間と本気で殺し合いをし、その命を自らの手で直接奪い取るという経験は、彼女のこれまでの人生において一切なかったのだ。

 的を絞る銃口が、カタカタと情けなく揺れ動く。

 

(撃てない……人間を、殺すなんて……)

 

 呪術界という血みどろの世界に身を置きながらも、彼女の根底にあったのは、ただの傷つきやすい少女の魂だった。人の命を奪うという究極の罪悪感が、彼女の精神に強烈なブレーキをかける。

 

 だが、エレンはそんな彼女の躊躇いを待ってはくれなかった。

 ズンッ、と一歩、エレンが踏み出す。

 その瞬間、真依の頭の中で、張り詰めていた理性の糸がプツリと音を立てて切れた。

 今、ここで目の前の男をリタイアさせなければ。いや、リタイアなどという生易しいものではない。ここで引き金を引かなければ、間違いなく自分が肉片に変えられて死ぬ。

 恐怖。絶望。そして、何よりも優先される生存への渇望。

 

「あ……あああッ!!」

 

 真依は、半ば狂乱したような叫び声を上げながら、目をきつく閉じ、躊躇いと恐怖で震え切った指に限界まで力を込めた。

 

 ――パァァァンッ!!!

 

 木々の間を縫うように、鋭く乾いた銃声が森に響き渡った。

 呪力を極限まで圧縮し、銃身を通して撃ち出された鉛の弾丸。それは、音速を超え、空気を切り裂くような螺旋を描きながら、真っ直ぐにエレン・イェーガーの胸板へと吸い込まれていった。

 

 ――ドスッ……。

 

 鈍く、重い音がした。

 弾丸は、エレンの分厚い胸の筋肉と肋骨を容易く貫通し、その奥にある生命の心臓を見事に撃ち抜いていた。

 ドッ、と大量の鮮血がエレンの背中側から弾け飛び、後ろの木の幹を赤黒く染め上げる。

 

 エレンの動きが、ピタリと止まった。

 見開かれた深緑の瞳から、スッと光が失われていく。

 彼は自分の胸に空いた致命的な風穴を一度だけ見下ろし、そのまま糸の切れた操り人形のように、ドサリと仰向けに倒れ込んだ。

 周囲の落ち葉が、エレンの体から流れ出すおびただしい量の血によって、急速に赤く染まっていく。

 

「…………え?」

 

 真依は、銃を構えた姿勢のまま、完全に絶句していた。

 銃口からは一筋の硝煙が立ち上り、彼女の顔には生気が全くない。

 

(殺した……? 私が……人を、殺した……?)

 

 極限の恐怖から解放され、自分が殺されることはなくなったという安堵感。それと同時に、自分自身のこの両手で、生きた人間の心臓を撃ち抜き、その命を永遠に奪い去ってしまったという、取り返しのつかない罪悪感と恐怖。

 相反する巨大な感情の津波が真依の精神を激しく揺さぶり、彼女はガクンと膝をつき、銃を取り落として両手で顔を覆った。

 

「あ……ああ……違う、私は……殺すつもりなんて……」

 

 後悔の念が吐き気となって込み上げてくる。人間を殺めたという事実は、彼女の魂を真っ二つに引き裂こうとしていた。

 

 ――しかし。

 

 真依が絶望と恐怖の淵に沈みかけていた、その直後だった。

 

 ――シュウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……!!!

 

 静まり返った森の中に、まるで巨大な蒸気機関車が蒸気を噴き出すような、凄まじく高圧の音が鳴り響き始めた。

 

「……え?」

 

 真依がハッとして両手を開き、顔を上げる。

 彼女の視界に飛び込んできたのは、到底この世の理とは思えない、悪夢のような光景だった。

 仰向けに倒れ、血の海に沈んで完全に事切れていたはずのエレン・イェーガー。その胸の中心、心臓を完全にえぐり取られた大穴から、異常なまでの高温の蒸気がもうもうと噴き上がっていたのだ。

 ジュウゥゥゥ、という肉の焦げるような、あるいは細胞が異常増殖するような気味の悪い音。

 蒸気の向こう側で、切断された血管がうごめき、砕け散った肋骨が自己修復して繋がり、抉り取られたはずの心臓の筋肉が、まるで時間を巻き戻すかのような尋常ではない速度で再構築されていく。

 

「な……に、それ……」

 

 真依の顔から、完全に血の気が引いた。

 反転術式による治癒などというレベルではない。破壊された肉体を、無から有を生み出すように強制的に作り変える、呪力とは似て非なる純粋な生命のバケモノ。

 わずか十数秒。

 エレンの胸に空いていた致命的な風穴は、跡形もなく完全に塞がっていた。

 

 そして、エレンはゆっくりと上体を起こし、立ち上がった。

 その瞳には、先程よりもさらに濃密で、どす黒い殺意が渦巻いていた。

 

「……ッ!!」

 

 エレンは、地面を蹴り砕くほどの強烈な踏み込みで、真依に向かって全力で疾走を開始した。

 その速度は、人間のそれを遥かに超越していた。周囲の景色がブレるほどの圧倒的なスピード。

 エレンは右拳を固く握りしめ、腰の回転から肩、そして腕へと全身のバネを伝達させ、真依の顔面を粉砕せんばかりの勢いで本気の拳を振り抜いた。

 

「ひぃっ!! 化け物ぉぉッ!!」

 

 真依は、心臓を撃ち抜かれて尚、瞬時に回復するその不死身の姿を見て、完全に恐慌状態に陥りながら叫んだ。

 先程木から落ちた際の、背骨や腰が砕けそうな激痛が全身を走っていたが、死の恐怖が痛みを凌駕した。真依は本能だけで体を真横に投げ出し、地面を転がるようにしてその一撃を紙一重で回避した。

 

 ――ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!!

 

 エレンの拳は、真依が先程までいた場所のすぐ後ろにあった、大人が三人で抱えるほどの太さの樫の木に直撃した。

 想像を絶する衝撃音。

 分厚い樹皮が爆発するように吹き飛び、太い幹が根本からメリメリと嫌な音を立てて折れ曲がり、巨大な木が地響きを立ててその場に倒れ伏した。森全体が揺れるほどの威力。

 だが、その代償はエレン自身にも及んだ。

 人間の肉体で、巨人の膂力を無理やり解放して木を殴りつけたのだ。

 グチャッ、という生々しい破砕音と共に、エレンの右手の拳は完全にひしゃげていた。

 撃ち抜いた拳の五本の指の骨は複雑骨折して皮膚を突き破り、手の甲の肉はえぐれ飛び、白い骨格と千切れた筋繊維が完全に剥き出しになっている。手首から先が、もはや人間の器官の原型を留めていなかった。

 

「あ、あああ……」

 

 真依は地面に倒れ込んだまま、そのおぞましいエレンの右手を指差して声にならない声を上げた。

 しかし。

 

 ――シュウゥゥゥゥ……。

 

 そのぐちゃぐちゃに砕け散った右手からも、すぐに高温の蒸気が噴き出した。

 剥き出しの骨を覆うように赤い筋肉が編み込まれ、皮膚が再生していく。わずか数秒で、エレンの右手は傷一つない無傷の状態へと元通りに回復してしまった。

 

 エレンは、完全に治癒した右手を軽く開き、再び硬く握り直した。

 そして、無表情のまま真依を見下ろす。

 

「……なんで……」

 

 真依は、後ずさることもできず、ただ涙目でエレンを見上げた。

 

「アンタ……人を殺すことに、抵抗はないの……!?」

 

 自分が先程、人を撃つことにどれほどの恐怖と絶望を感じたか。それなのに、目の前の男は、いとも容易く、そして一切の感情の揺らぎを見せることなく、自分を殺そうと拳を振るってくる。

 その異常性に、真依は悲鳴のように問いかけた。

 

 エレンは、真依のその言葉を聞いて、ピクリとも眉を動かさなかった。

 ただ、どこまでも冷たく、底なしの暗闇のような瞳で彼女を見据え、地の底から這い上がるような低い声で答えた。

 

「……そんなもの、とっくの昔に捨ててきた」

 

 その言葉の重みに、真依の心臓が凍りついた。

 エレンの脳裏には、地鳴らしで踏み潰した無数の人々、泣き叫ぶ子供たち、瓦礫の下敷きになった老人たちの姿が焼き付いている。自分が選んだ道、自分が犯した大罪。今更、一人の人間を殺すことに躊躇いなどあろうはずがなかった。自分が自由を求め、進み続けるためには、敵を駆逐する以外の道はないのだから。

 

 エレンは再び拳を握り、ゆっくりと真依に向かって歩みを進め、容赦のない拳を雨霰と振るい始めた。

 

「いやっ……! やめてぇッ!」

 

 真依は、激痛で動かない体を必死に転がし、木々の根や岩を盾にしながら、なんとかエレンの攻撃を避けようと足掻いた。

 エレンの拳が空を切り、地面をえぐり、周囲の岩を粉砕していく。

 だが、そんな奇跡のような回避行動がいつまでも続くはずがなかった。

 エレンの左のフェイントに引っかかった真依の体勢が、大きく崩れた。

 

「そこだ」

 

 エレンの右の拳が、真依の無防備な腹部――極限まで緊張したみぞおちのど真ん中を、正確に、そして本気の力で打ち抜いた。

 

「ガァッ…………!!!!」

 

 ドスッ、という重い打撃音が、真依の体内で反響した。

 内臓が完全に破裂するかのような、想像を絶する衝撃と激痛。

 真依の口から、おびただしい量の胃液と血が混ざった吐瀉物が吹き出された。

 彼女の体は、文字通り「く」の字に折れ曲がり、足が地面から完全に浮き上がった。

 そのまま砲弾のような速度で後方へと凄まじく吹っ飛び、数メートル先にある太い木の幹に、背中から激突した。

 

 ――メキッ!!

 

 真依の背骨にヒビが入る、致命的で嫌な音が森に響いた。

 

「あ……がぁっ……ひゅっ……」

 

 木の幹から滑り落ち、根元に崩れ落ちた真依は、白目を剥きかけ、口から血の泡を吹きながら痙攣した。

 先程木から落ちた時の全身の打撲、そして今、腹部に本気の打撃を貰い、背骨にヒビが入ったことによるトリプルパンチの激痛。

 彼女の細い指から完全に力が抜け、必死に握りしめていたリボルバーの銃が、カラン、と力なく地面に転がり落ちた。

 意識が遠のき、気絶の淵を彷徨う真依。

 

 エレンは、乱れた呼吸を一つ整えると、落ち葉を踏みしめながら、木の下で虫の息となっている真依へと近づいていった。

 殺す気で放った一撃だが、呪力による防御が僅かに働いたのか、即死は免れているようだった。

 エレンは、真依の前にしゃがみ込み、その髪を無造作に掴んで顔を無理やり持ち上げた。

 

「……なんで、呪術師をやっている」

 

 エレンの問いかけは、嘲りではなく、純粋な疑問だった。

 これほどの恐怖に怯え、人を殺す覚悟もなく、呪力も大して持っていない。それなのに、なぜこの血みどろの世界に身を置き、姉を憎みながら戦っているのか。

 

 真依は、霞む視界の中でエレンの緑色の瞳を見つめ返した。

 意識が混濁する中、エレンのその冷たい問いが、彼女の心の奥底にある分厚い蓋をこじ開けた。

 

「……別に……呪術師になんか……なりたく、なかった……」

 

 真依の口から、血の混じった掠れ声が漏れ出した。声にならない声。だが、その言葉には、彼女のこれまでの人生の全てを縛り付けてきた、底なしの絶望と悲哀が込められていた。

 

「真希は……呪力が、全くなくて……私には、術式があったけど……呪力は、低かった……」

 

 真依の脳裏に、かつての記憶が蘇る。

 呪術界の御三家、禪院家。力こそが全てであり、力を持たない者は人間扱いすらされない地獄のような一族。

 双子として生まれた彼女たちは、その血筋にありながら、どちらも呪術師としての才能に恵まれず、一族の者たちから「落ちこぼれ」「出来損ない」と蔑まれ、冷遇される日々を送っていた。

 

「でも……私は……それで、よかった……」

 

 真依の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、血と泥に塗れた頬を伝って流れ落ちた。

 

「雑用係でも、なんでもいい……。禪院家の底辺で……真希と一緒に、落ちぶれたまま……手をつないで、平穏な生活を、送っていきたかった……。二人でいれば、それだけでよかったのに……」

 

 だが、そのささやかな願いは、何よりも信頼していた姉の手によって打ち砕かれた。

 

「真希が……家を、出ていっちゃって……!」

 

 真依の声に、悲痛な恨み節が混じる。

 真希が当主になるという野望を抱き、真依を置いて禪院家を出奔したことで、残された真依の立場は最悪のものとなった。

 

「あいつが……呪術師になるなんて言うから……! 私の立場はもっと悪くなって……過酷な修行を強要されて……血を吐くような思いをして、呪術師の道を、無理やり……歩まされた……!」

 

 行きたくもない地獄へ、強制的に引き摺り込まれた。

 その理不尽な運命への絶望、そして、自分を置いていった姉への激しい愛憎。

 

「私は……ただ……普通に、生きたかっただけなのに……」

 

 全てを吐き出した真依は、もはや抵抗する気力も失った。全てを諦めたように、エレンに頭を持たれながら、静かに涙を流し、死の制裁を待つだけの哀れな姿だった。

 

 その真依の血を吐くような独白を聞いて、エレン・イェーガーは、息を呑んだ。

 掴んでいた彼女の髪から手を離し、エレンは一歩、後ずさった。

 エレンの脳内で、真依の姿が、かつての自分自身の姿とフラッシュバックして重なり合ったのだ。

 

 禪院家という強大な檻の中で虐げられながらも、大好きな姉と二人で雑用をしながら過ごす静かな日々を望んでいた真依。

 壁という巨大な檻の中に閉じ込められ、退屈だと文句を言いながらも、両親やミカサ、アルミンといった幼馴染たちと過ごす、平和で温かい日常を送っていたエレン。

 

 ――それを、どちらも、突如として理不尽な暴力によって壊された。

 

 真依は真希の出奔と一族の圧力によって。

 エレンは、超大型巨人の襲来と、母が巨人に喰い殺されるという凄惨な光景によって。

 どちらも、自分の意志とは無関係に、強制的に血みどろの戦いの場へ、地獄の業火の中へと駆り出されたのだ。

 

 だが、最もエレンの心を抉ったのは、その「戦う理由」の共通点だった。

 エレンが調査兵団に入り、戦い続けた最大の原動力。それは決して「人類を救うため」や「平和のため」などという高尚な正義感ではなかった。

 母を奪った巨人たちへの、腹の底が煮えくり返るほどの『憎悪』。この世から一匹残らず駆逐してやるという『殺意』と『復讐心』。

 そして目の前で縮こまっている真依の原動力もまた、「誰かを救うため」の正義感などではない。

 自分を置いて地獄から逃げ出した姉、禪院真希への『恨み』。自分を苦しめた世界への『当てつけ』。そして何より、姉への愛憎入り混じる『意地』という名の、「家族への強い執着」と、泥のように濁った『負の感情』だった。

 

(同じだ……こいつも、俺と……)

 

 エレンの心の中に、今まで蓋をして押し殺していた、様々な感情が堰を切ったように溢れ出してきた。

 無力だった子供時代。壁が壊された日の絶望。仲間が次々と死んでいった訓練兵時代。そして、自由のために全てを踏み潰すことを選んだ大罪の重み。

 痛いほどに、真依の絶望と無力感が理解できてしまう。

 敵であるはずの、そして殺すと決めたはずの女に対して、どうしようもないほどのいたたまれない感情が押し寄せてきた。

 殺意の炎が、急速に鎮火していく。

 

 エレンは、静かに地面を見下ろした。

 そこには、先程真依が手放したリボルバーが、泥にまみれて転がっていた。

 エレンはゆっくりとその銃を拾い上げた。

 そして、木の下で膝を抱え、絶望の涙を流して縮こまっている真依の目の前へと、その銃を無造作に放り投げた。

 チャキッ、と金属音が鳴る。

 真依が、ビクッと肩を震わせて顔を上げた。

 

 エレンは、かつて自分が鏡の前に立ち、自らを鼓舞し続けたように。

 そして、残酷な世界で生き残る術をミカサに教えたあの日のように。

 真っ直ぐに真依の目を見据え、ただ一言、重く、強い声で告げた。

 

「……戦え」

 

 真依の瞳孔が、驚きに見開かれる。

 エレンは、その言葉の意味を魂に刻み込むように、もう一度、深く静かに続けた。

 

「戦わなければ、勝てない」

 

 姉を恨むのもいい。世界を呪うのもいい。

 だが、縮こまって死を待つだけの奴隷のままでは、何も変えられない。自分の望むものを手に入れたいなら、生き残りたいのなら、自らの意志で武器を手に取り、這い上がって戦うしかないのだ。

 それが、この残酷な世界における唯一の真理。

 

 その言葉の響きは、真依の心の奥底で凍りついていた何かに、強烈な火花を散らした。

 

「……戦え……」

 

 真依は無意識にその言葉を反芻した。

 姉への憎悪。自分を虐げた一族への怒り。そして、目の前の圧倒的な強者に対する恐怖。

 それら全ての負の感情が、エレンの言葉によって「反逆の意志」へと変換されていくのを感じた。

 真依は、血に濡れた唇を強く噛み締め、目の前に投げ出された銃へと震える手を伸ばした。

 そして、そのグリップを思いっきり、指が白くなるほどに強く握りしめた。

 

(……負けない。私は、こんなところで終われない……!! 真希を、あの家を後悔させるまでは……!!)

 

 真依の瞳に、再び強烈な光が宿る。

 彼女は折れそうな背骨の激痛を呪力で無理やりねじ伏せ、銃を両手で構え直すと、迷うことなく、真っ直ぐにエレンの頭上、眉間のど真ん中へと照準を合わせた。

 引き金に指が掛かる。

 今度こそ、殺す。その明確な殺意が、銃口から立ち上っていた。

 

 エレンは、その真依の覚悟の込もった目を見て、フッと微かに口角を上げた。

 それでいい。それが、戦士の顔だ。

 

 そのまま真依が、思い切り引き金を引こうとした、まさにその直後だった。

 

 ――ズゴゴゴゴゴォォォォォォォォンッ!!!!!!

 

 森の遥か彼方、別の方角から、大地そのものを揺るがすような凄まじい轟音が鳴り響いた。

 鳥たちが悲鳴を上げて飛び交い、遠くの空に、異常なまでの呪力の閃光と、黒い煙が立ち上るのが見えた。

 単なる生徒同士の手合わせや、二級呪霊の討伐で起きるような規模ではない。規格外の特級クラスの呪力が、あちらで衝突している気配。

 

「……!」

 

 真依の動きが止まる。

 エレンも即座にそちらの方向へと鋭い視線を向けた。

 

(なんだ、今の音は……あの方向は、虎杖とあの巨漢が戦っていた場所か? いや、それにしては気配が異質すぎる)

 

 嫌な予感が、的中したのだ。

 

 エレンは、銃を構えたまま固まっている真依を見下ろし、短く告げた。

 

「……悪いが、中断だ」

 

 これ以上、ここで彼女の相手をしている時間はない。エレンの中の兵士としての本能が、より巨大な脅威の出現を察知し、そちらへ向かえと急かしていた。

 エレンは地面を蹴り、木々の間を縫うようにして、音の発生源である森の深部へと猛烈なスピードで走り去っていった。その背中は、あっという間に暗闇の中へと溶けて消えた。

 

 圧倒的な死の気配と、自分を追い詰めた男の姿が完全に消え去った森の中。

 残された真依は、構えていた銃をゆっくりと下ろした。

 限界まで張り詰めていた殺意と緊張の糸が、プツン、と音を立てて切れた。

 

「あ……あぁ……」

 

 安堵と、激痛と、そして自身の魂に刻み込まれた「戦え」という言葉の余韻。

 全てがごちゃ混ぜになり、真依の意識は急速に暗転していく。

 彼女はそのままゆっくりと横に倒れ込み、落ち葉の上に倒れ伏したまま、静かに気絶の淵へと沈んでいった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。