呪術の世界に迷い込んだ、パラディ島の悪魔 作:ブァッファイ小五郎
窓から差し込む光が、異様に白く感じられた。
エレン・イェーガーが再び意識を浮上させたとき、最初に感じたのは、全身を苛む鉛のような重さだった。指先一つ動かすのにも、強固な意思の力が必要だった。
「……っ」
彼は上体を起こそうと試みたが、脇腹から背中にかけて走る激痛に呻き、再び枕に沈んだ。無理もない。まともな食事も摂らず、精神的にも極限状態にいた身体で、あの巨大な質量、「巨人」という異形の力を顕現させたのだ。パラディ島にいた頃とは、力の通り道が微妙に違うような感覚もあった。
身体が、悲鳴を上げている。
「おー、おはよう。丸一日寝てたね、君」
陽気な声が、すぐ傍らから降ってきた。
視線を向ければ、そこには昨日見た、黒い目隠しをした長身の男が座っていた。椅子を逆向きに座り、背もたれに顎を乗せてこちらを覗き込んでいる。その姿は、およそこの世の危機感とは無縁のようだった。
「……丸一日、だと?」
エレンは掠れた声で問い返した。脳裏に、あの火山のような頭をした化け物との戦いが断片的にフラッシュバックする。
「ああ、爆睡だったよ。あれだけのモノを出しておいて、それだけで済むなら安いもんじゃない?」
「……食えない男だ。あの時の、眼帯野郎か」
「眼帯じゃないよ、包帯でもない。これは一応、マスクみたいなもんかな。まあ、五条悟って呼んでよ。よろしく、エレン君」
そういうと、五条がニカッと陽気に笑った。
なぜこの男は自分の名前を知っているのか気になり、聞こうとしたその直後、部屋のドアが静かに開いた。
白衣を羽織り、隈のひどい女性、家入硝子が、銀色のお盆を持って入ってくる。
「起きたか。五条、あんまり騒ぐなよ。患者の容体はまだ安定してないんだから」
彼女はそう言いながら、お盆に乗せられた食事を、エレンの隣にある小さな机に置いた。
漂ってくるのは、醤油の香ばしい匂いと、出汁の深い香り。
「家入硝子だ。とりあえず、私でさえ見たことないくらい疲弊してる。内臓までボロボロだ。巨人だか何だか知らないが、あれは相当身体を削るな。まずは食え」
差し出されたメニューは、湯気を立てる白い米、焼いた魚、色鮮やかな漬物、そして豆腐とわかめの味噌汁。どれも山盛りに盛られていた。
エレンはその「食事」を凝視したまま、固まった。
「……何だ、これは」
「何って、朝食だけど。口に合わない?」
家入が不思議そうに首を傾げる。五条が楽しげに口を挟んだ。
「もしかして、こういう食事は初めてだったりする?」
「……魚や、汁物は……壁の外の世界で似たようなものを見たことがある。だが」
エレンは、茶碗の中に盛られた、キラキラと輝く「白い塊」を指差した。
「この、白いものは何だ?」
「は? ……白米。ご飯だよ」
家入が呆れたように答える。
「ここ、日本では毎日当たり前に食べられてる主食。あんた、どこから来たんだ?」
「ハクマイ……」
エレンはその言葉を反芻した。パラディ島にはパンや芋、稀に肉はあった。マーレでもこれほど美しく炊き上げられた穀物は、一度たりとも見たことがなかった。
空腹はすでに限界を超えていた。彼は震える手で箸を取り、(使い方はマーレ潜入時に覚えたそれと似ていた)、吸い寄せられるように白米を口に運んだ。
熱い。そして、噛むほどに甘みが広がる。
魚の塩気と、出汁の温かさが、枯れ果てていた五臓六腑に染み渡っていく。
「…………ッ」
エレンは無言のまま、猛然と食事をかき込み始めた。喉を通る熱が、自分が生きていることを実感させる。ミカサに殺され、すべてが終わったはずの自分が、なぜかこうして異世界の食事を貪っている。その滑稽さと、あまりの美味さに、胸の奥が熱くなった。
「……美味い。助かる」
半分ほど平らげたところで、エレンは短く礼を言った。
家入がタバコを取り出そうとして、ここが病室であることを思い出し、仕方なく手を止める。
「……白米を知らないなんて、珍しいどころじゃない。海外の……未開の地の出身か何かか?」
エレンは茶碗を置き、まっすぐに二人を見た。
「パラディ島、シガンシナ区。それが俺の故郷だ」
家入は五条に視線を向けた。
「五条、聞いたことあるか?」
「んー、僕の膨大な知識の中にはないね。地理的にも、歴史的にも」
五条は椅子の背もたれを指で叩きながら、確信に満ちた声で言った。
「やっぱり、君はこの世界の人間じゃないんじゃない? 呪力とは違う異質なエネルギー、見たこともない生態。君がいた場所は、ここじゃない別の『世界』だ」
家入が納得したように頷く。
「そうだな、それなら色々としっくりくる。この身体の構造、常識の欠如、そしてあの巨大な怪物への変身。全部、私たちの知る理の外側だ」
「……だろうな」
エレンは自嘲気味に笑った。
「あの火山のような頭をした奴も、見たことがなかった。ここには巨人がいない。それどころか、見たこともない文明が溢れている。俺がいた『外の世界』というにしても、あまりに非現実的すぎる」
三人の間に、しばしの沈黙が流れた。
窓の外では、現代日本の都会の喧騒がかすかに聞こえてくる。
「……まあ、どうでもいいことだ。俺がどこから来たのか、ここがどこなのか。結局、やることは変わらないのかもしれないからな」
エレンは残りの飯をすべて平らげ、「美味かった」と呟いた。
そして、ふと思い出したように問いかける。
「それより……あの時、一緒にいたピンク色の髪の奴は誰だ?」
「ああ、悠仁? 虎杖悠仁、ここの学校、東京都立呪術高等専門学校の一年生だよ」
「高専……訓練施設のようなものか」
「まあそういうとこかな。一応言っておくけど、彼は今、世間的には『死んだこと』になってる。他の学生たちには内緒にしてるから、もし会うことがあっても気をつけてね」
「……なぜそんな面倒なことを」
「サプライズだよ、サプライズ! 後でババンと登場した方が盛り上がるでしょ?」
五条の軽い返答に、エレンは特に興味を示すこともなく、「そうか」とだけ返した。
五条と家入が去った後、エレンは再びベッドに横たわり、天井を見つめていた。
思考が渦巻く。
ここは別の世界。
あの火山頭、呪霊と呼ばれる存在。それは、刃で首筋を削いでも死なないのかもしれない。
だとしたら自分の力はこの世界でどう作用するのか。
そして何より、自分はこれからどうすべきなのか。
自由を求め、世界を破壊し、そして死んだはずの自分が。
『――それで、これからどうしたいの? エレン』
静かな、懐かしい声がした。
エレンが驚きもなく隣を向くと、そこにはいるはずのない親友、アルミン・アルレルトが座っていた。
幼い頃のように、好奇心に満ちた澄んだ瞳でこちらを見ている。
「……アルミンか」
『もう、海も見ちゃったし、世界も壊しちゃった。ここは誰も君を知らない世界だよ。エレン、君が望んでいた「壁のない世界」かもしれない』
「……ああ。そうだな。第二の人生、か。皮肉なもんだ」
エレンは自らの手を見つめた。
「もう、誰かに強いられることもない。救世主になる必要も、悪魔になる必要もない。……今度は、俺の好きな通りに生きてみるよ」
アルミンは優しく微笑んだ。
『うん。その方がいいよ。君は、自由なんだから』
「アルミン、俺は――」
エレンが何かを言いかけた瞬間、光が弾けた。
――バァァァン!!!
乱暴にドアが開かれる音で、エレンは飛び起きた。
夢だった。アルミンの姿はどこにもない。
代わりに、眩しい日差しを背負って、一人の少女が部屋に踏み込んできた。オレンジ色の髪を短く切り揃え、気の強そうな瞳をした少女、釘崎野薔薇だ。
「ちょっと! 目を覚ましたって聞いたわよ! 何よあんた、あの五条先生が拾ってきたっていう不審者は!」
彼女はベッドの淵まで詰め寄ると、まじまじとエレンの顔を覗き込んだ。
「名前は? 何してたの? どこ住み? 術式は何? 答えなさいよ!」
マシンガンのような問いかけに、エレンは一瞬圧倒されたが、すぐに冷徹な瞳を取り戻した。
「エレン・イェーガーだ。……住んでいたのは、遠い場所だ」
「何よ、もったいぶっちゃって。それより、何をやってたかって聞いてんのよ」
「……さあな。あまり褒められたことじゃない」
エレンは視線を逸らした。
何をしてきたか。数え切れないほどの人間を踏み潰し、世界を滅ぼそうとした。その罪を、この少女に話したところで理解されるはずもない。
だが、先ほどの夢、アルミンの言葉を思い出す。
前の世界のことは、もういい。俺は、俺の好きに生きる。
釘崎の後ろから、黒髪のツンツンした少年、伏黒恵が、ため息をつきながら入ってきた。
「朝からうるさいぞ、釘崎。……あんた、具合はどうだ」
「新入りが目を覚ましたんだから、これくらい当然でしょ! ほら、伏黒も何か言いなさいよ」
「伏黒恵だ。……挨拶くらいはしておく」
エレンは二人を見比べ、不意に口を開いた。
「ここは……『調査兵団』のようなものなのか?」
二人は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「……は? チョウサヘイダン? 何それ、新しいアイドルグループ?」
釘崎の反応に、エレンは確信する。やはり、この世界には巨人も、壁も、それに対抗する兵団も存在しない。
「……いや、気にするな」
そうエレンが言うと、伏黒が面倒そうに頭を掻いた。
「五条先生から大まかなことは聞いてる。あんた、この世界のことを何も知らないんだろ」
「……ああ。多分な」
「だろうな。……いいか、一度しか言わないから、よく聞け」
伏黒は壁に背を預け、端的に、だが重みのある声で説明を始めた。
「ここは東京都立呪術高等専門学校。呪い、人間の負の感情から生まれる化け物『呪霊』を祓うための施設だ」
「呪霊……」
「そうだ。この世界には、普通の人間の目には見えない呪いが蔓延している。そして、それらは『呪力』というエネルギーを持った術師にしか倒せない」
伏黒は呪霊の等級、呪力の仕組み、そしてこの学園の役割について簡潔に教えた。
エレンはそれを静かに聞き入っていた。
巨人の代わりに呪霊。
巨体ではなく、負の感情から生まれる異形。
そして、それらを殺すための「呪術師」。
すべてを聞き終えたエレンは、ゆっくりとベッドから足を下ろした。
窓の外を見つめるその横顔に、かつて多くの戦士を戦慄させた、あの鋭い光が戻る。
「……要するに、その『呪霊』って奴を、一匹残らず殺し切ればいいんだな」
その言葉に含まれた、あまりに純粋で暴力的な殺意。
釘崎と伏黒は、知らず知らずのうちに一歩後退していた。目の前の男から発せられる圧が、先ほどまで病室で寝ていた人間のものではない。
それは、何十万、何百万という命のやり取りをくぐり抜けてきた、真の「屠殺者」の気配だった。
「ちょ、ちょっとあんた……怖いわよ。何なのその目……」
釘崎が引き攣った笑いを浮かべる。
エレンは窓の外に広がる、平和で残酷な都会の景色を眺めながら、心の中で溜息をついた。
(……ようやく戦いが終わったと思ったんだがな。また殺し合いか)
自由の代償は、いつだって血の匂いがする。
エレン・イェーガーは、まだ見ぬ呪いの世界へと、その一歩を踏み出そうとしていた。