呪術の世界に迷い込んだ、パラディ島の悪魔 作:ブァッファイ小五郎
――ガキィッ!!
エレン・イェーガーが自らの右手の甲を思いっきり噛みちぎった瞬間、世界は一瞬、完全に静止したかのように錯覚された。
直後、空気を切り裂くような黄金の閃光が、帳で覆われた薄暗い空間を真っ二つに裂いた。
――ピシャアアアアアアアアアッ!!!
鼓膜を破るような規格外の落雷の轟音が、古びた廃病院の敷地全体を激しく揺るがした。凄まじい爆風と、超高温の蒸気が爆発的に周囲へと広がり、伏黒恵と釘崎野薔薇の身体を容赦なく吹き飛ばそうとする。
「きゃあっ!?」
「くっ……何だ、これは……ッ!!」
伏黒は咄嗟に腕を交差させて顔を庇い、地面に深く足を踏ん張った。熱風が肌を焼き、突風が瓦礫を巻き上げていく。
土煙と蒸気が晴れたそこには、理外の光景が広がっていた。
身長15メートル。
筋骨隆々とした圧倒的な肉体、鋭く尖った耳、そして全てを破壊し尽くさんとする緑色の双眸を持った、巨人の姿があった。
「な……あ……?」
釘崎は地面にへたり込んだまま、口を戦慄かせて見上げる。
先ほどまで巨大だと思っていた10メートル超えの特級呪霊すらも凌駕する、絶対的な質量の暴力。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!』
巨人が、腹の底から天を裂くような雄叫びを上げた。
大気が悲鳴を上げ、廃病院の窓ガラスという窓ガラスが、その音圧だけで木端微塵に砕け散る。地面がビリビリと震え、二人の内臓まで揺さぶられるような、生物の根源的な恐怖を呼び覚ます咆哮だった。
『ギィィィィィィッ!!』
巨大な呪霊もまた、自らの領域を侵す未知の存在に対して敵意を剥き出しにし、五本の腕を思い切り振り上げて巨人へと襲いかかろうとした。
しかし、エレンの操る『進撃の巨人』の反応速度は、その巨体からは想像もつかないほど俊敏だった。
巨人は身を屈め、両手を地面に叩きつけた。
『戦鎚の巨人』の力、硬質化。
――ズゴゴゴゴゴゴッ!!!
地鳴りと共に、呪霊の足元のコンクリートが爆発するように隆起した。そこから、巨大で鋭利な水晶の棘が何十本も、まるで槍の雨を逆再生するように一斉に突き出したのだ。
『ガァァァァァァアアアッ!?』
巨大呪霊の胴体、腕、無数の顔面がひしめく肉の塊を、水晶の棘が深々と貫き、串刺しにする。空中に持ち上げられた呪霊は、夥しい量の紫色の血を噴き出しながら、完全に身動きを封じられた。
だが、エレンの攻撃はそれで終わらない。
巨人は立ち上がりながら、右手に意識を集中させた。シュウゥゥ……と蒸気を上げながら、右腕から凄まじい速度で白い硬質化物質が生成され、一本の長大で無骨な『ハンマー』が形作られていく。
巨人は、自らの身長ほどもあるその巨大なハンマーを、天高く振り上げた。
緑色の瞳が、串刺しになった呪霊を冷酷に見下ろす。
(消えろ――)
――ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!!
大気を圧縮するような重い風切り音と共に振り下ろされたハンマーが、巨大呪霊を、それを貫いていた棘の山ごと、本気で粉砕した。
想像を絶する衝撃波が放射状に広がり、廃病院の建物の一部が耐えきれずに轟音を立てて崩落していく。
「うわあああっ!!」
伏黒と釘崎は、その衝撃で完全に吹き飛ばされ、地面を数メートル転がった。
もうもうと立ち込める粉塵。それが風に流されて晴れた時、そこには巨大なクレーターだけが残されていた。あれほど圧倒的な絶望感を放っていた巨大な呪霊は、文字通り跡形もなく消滅――いや、祓われていた。
ものの、数秒の出来事だった。
戦いを終えた巨人は、その役目を終えたかのように、全身から凄まじい高温の蒸気を噴出させながら、膝をついた。筋肉が溶け、骨が崩れ、巨体はみるみるうちに小さくなっていく。
やがて、巨人のうなじの肉が裂け、そこからエレン・イェーガーが上半身を現した。彼は蒸気を纏いながら肉の接続を引きちぎり、地面へと軽やかに着地する。
「……大丈夫か」
エレンは、呆然と座り込んでいる伏黒と釘崎の方へ歩み寄った。顔には巨人の肉組織と繋がっていた赤い紋様が深く刻まれているが、先ほどまで骨が見えていた両腕は、完全に元の状態へと再生していた。
「あ、あんた……今の、は……」
釘崎が掠れた声で問いかけようとしたその時、空を覆っていた漆黒の帳が、スゥッと上に引き上げられるように消え去った。
夕暮れの赤い陽光が、崩壊した中庭を照らし出す。
「伏黒君! 釘崎さん! 無事ですか!」
門の方から、補助監督の伊地知が血相を変えて駆け込んできた。彼は崩壊した病院と、巨大なクレーターを見て絶句した。
「こ、これは一体……何が起きたんですか……!?」
「……色々あってな」
エレンはそれ以上語ることを放棄し、怪我で動けない伏黒の腕を無造作に肩に回した。
「立てるか。おい、そこのスーツ。そっちの女を頼む」
「は、はいッ!」
エレンと伊地知の二人で、満身創痍の伏黒と釘崎を抱え、車へと向かって歩き出す。
その後ろ姿を、廃病院の辛うじて残った屋上の影から、静かに見下ろしている存在があった。
額に不気味な縫い目を持つ、袈裟を着た男。
「……なるほどね」
男は、エレンが戦っていた跡、呪力とは全く異なる、純粋な生命力と謎の物質で構成された巨大な力の痕跡を見つめ、三日月のように目を細めた。
「呪力ではないエネルギー。そしてあの異形の肉体。この世界のものとは思えない……これは、面白い」
クツクツと喉の奥で笑いながら、男は興味深そうに闇の中へと溶けるように去っていった。
帰りの車内は、重苦しい沈黙に包まれていた。
後部座席で伊地知の応急処置を受けた釘崎が、助手席に座るエレンの背中をじっと見つめていた。
「……ねえ」
釘崎が、耐えきれなくなったように口を開いた。
「あんた、どういう体の構造してるのよ。手は治るし、あんな馬鹿でかい化け物に変身するし……。それに、呪力もないのに呪霊をぶっ飛ばすなんて、意味わかんないんだけど」
エレンは窓の外を流れる景色から目を離さず、淡々と答えた。
「詳しく説明すると長くなる。とりあえず、これが『巨人の力』だ」
「巨人の力……」
釘崎は眉をひそめ、さらに踏み込んだ。
「……あんた、その力を持って、前のところで何をしてたわけ?」
あの時、呪霊を無慈悲に殴り潰していた時のエレンの眼。あれは、今日初めて戦いを経験した人間の目ではない。無数の命を奪ってきた者の、深く暗い闇だった。
エレンは、一瞬だけ目を伏せた。
「……褒められたことじゃない」
それだけを一蹴するように言い捨てると、エレンは再び口を閉ざした。
冷たい拒絶の壁。これ以上は何も語らないという強い意思を感じ取り、釘崎も伏黒も、それ以上追及することはできなかった。
高専に到着すると、三人は真っ直ぐに家入硝子がいる医務室へと向かった。
地下にあるその部屋は、アルコールとホルマリンの匂いが充満している。
「おや、派手にやられたね。見せてみろ」
家入は伏黒と釘崎の惨状を見るなり、咥えていたタバコを灰皿に押し付け、二人の体に手を触れた。
――反転術式。
呪力を掛け合わせ、負のエネルギーを正のエネルギーに変換する高度な治癒技術。家入の手から温かい光が漏れたかと思うと、伏黒の打撲も、釘崎の裂傷も、まるでビデオを巻き戻すかのように綺麗に塞がっていった。
「……助かります、家入さん」
伏黒が息を吐く。
家入は次に、無傷で立っているエレンの方を見た。
「お前は? 随分と服はボロボロで血まみれだが、怪我はしなかったのか?」
「……怪我ならした」
エレンは自身の両手を見つめながら言った。
「巨大な呪霊に吹き飛ばされて瓦礫の下敷きになったし、両手は使い物にならないくらいに骨まで砕けた」
それを聞いた家入は、目を丸くして驚愕した。
「骨まで砕けた……? 嘘をつけ、今お前の手には傷一つないじゃないか。誰かに治してもらったのか? いや、そんな短時間で……まさか、自分で治したのか?」
「ああ。当たり前だろ」
エレンが平然と答える。
家入の瞳の奥で、医者としての、いや、狂気的な研究者としての火が点いた。
「……興味深い。呪力なしでそこまでの超速再生。どんな細胞分裂の速度をしてるんだ。おい、ちょっと私の実験に付き合ってくれないか。少し肉片を切り取らせてくれるだけでいい」
家入がメスを片手にジリジリと距離を詰める。
「断る」
エレンは即答して後ずさった。
「そう言わずに。ちょっとだけだ、麻酔はしてやるから」
「だから断ると言っているだろ!」
家入がエレンを追い回し始めるのを見て、伏黒と釘崎は顔を見合わせた。
「……俺たち、先に出てるぞ」
伏黒が呆れたように言い残し、二人は逃げるように医務室を後にした。
(まるでハンジさんみたいだ……)
エレンは、家入のその研究熱心な姿を見ていると、脳裏にかつてのハンジ・ゾエを思い浮かべてしまう。
外に出ると、夕闇が迫り、生ぬるい風が吹いていた。
伏黒と釘崎は、校舎の外階段に並んで腰を下ろした。
「……何なのよ、あいつ。マジで規格外すぎるわ」
釘崎がため息をつきながら、缶ジュースのプルタブを開けた。
「あんなのが味方になってくれるなら心強いけど……何考えてるかわかんないわね。目が、笑ってないし」
「ああ。だが、あの力は本物だ」
伏黒も同意する。
しかし、いくらエレンという異端の存在が現れ、信じられない光景を見せられたとはいえ、二人の心の奥底にある重たい石が退くことはなかった。
つい先日、少年院で起きた凄惨な事件。彼らの同期であり、底抜けに明るかった虎杖悠仁の死。
会話は自然と途切れ、耐え難い沈黙が二人の間に降り降りた。
夕蝉の声だけが、無情に響き渡る。
「……『長生きしろよ』って」
ぽつりと、釘崎が呟いた。
「自分が死んでりゃ世話ないわよ……馬鹿じゃないの」
虎杖が最後に残した言葉。それを思い出し、釘崎は自嘲するように笑った。
彼女は横目で伏黒を見た。
「ねえ、伏黒。同級生が死ぬのって、初めて?」
「……同級生はな」
伏黒は前を見たまま、感情を殺した声で答えた。
「ふーん。その割に、平気そうね」
「……お前もな」
伏黒の言葉に、釘崎は鼻で笑った。
「当たり前でしょ。会ってまだ二週間くらいよ。そんな男が死んだくらいで、ピーピー泣き喚くほど、私はちょろい女じゃないの」
強がり。それが彼女なりの、心の守り方だった。
しかし、伏黒がふと釘崎の顔を見ると、彼女の唇が微かに震え、目を必死に見開いて涙をこらえているのがわかった。
伏黒は、それ以上何も言わなかった。ただ、視線を空へと外し、静かに言った。
「……暑いな」
釘崎も、震える声を隠すように上を向いた。
「……そうね。夏服はまだなのかしら」
「辛気臭いな。お通夜かよ」
突然、階段の下から響いた凛とした声に、二人はハッと顔を上げた。
長いポニーテールを揺らし、長柄の薙刀を肩に担いだ長身の女性、禪院真希が、呆れたように二人を見上げていた。
その後ろからは、巨大なパンダと、口元を隠した小柄な少年、狗巻棘がひょっこりと顔を出している。
「真希……!ガチで同級生死んでるから……!!ガチのお通夜なんだぞ……!!」
パンダが小声で真希に囁く。
「おかか……」
狗巻も同意するように頷いた。
その瞬間、真希の顔からスッと血の気が引いた。
「なっ……!? マジで死んでるのか!? お前らなんでそれ早く言わねえんだよ!!」
真希は激しく動揺し、あたふたし始めた。
「これじゃ私が、血も涙もない鬼畜みたいな奴じゃねえか!!」
「実際そんな感じだろ!」
「ツナマヨ」
パンダと狗巻が冷静にツッコミを入れる。
そのコントのようなやり取りに、伏黒と釘崎は毒気を抜かれたように少しだけ表情を緩めた。
「……おい」
そこへ、医務室での家入の執拗な追及から何とか逃げ延びたエレンが、ゲッソリと疲れ果てた顔で階段を上がってきた。
彼は無言のまま、伏黒と釘崎の間にドカッと腰を下ろした。
「……あの人たちは、誰だ?」
エレンが階段の下の奇妙な三人組を指差す。
「ああ、先輩たちだ」
伏黒が一つため息をつき、説明を始めた。
「あの眼鏡の人が二年の禪院真希先輩。呪力を持たない代わりに、呪具の扱いなら学生一だ。その隣の小柄な人が狗巻棘先輩。呪言師で、言葉に呪力が乗るから、普段はおにぎりの具しか喋らない」
「……おにぎりの具?」
「そうだ。……で、あれがパンダ先輩だ」
「……パンダ」
「パンダだ」
エレンはじっとパンダを見つめた。
(熊が二足歩行で喋っている……あれは呪霊と言うやつの一種なのか? いや、それにしては気配が……)
エレンが真剣に考察していると、真希が薙刀を下ろしてエレンを指差した。
「で? 誰だそいつ。見ない顔だが、新入生か?」
「エレン・イェーガーだ」
エレンは立ち上がり、短く自己紹介をした。
「『外の世界』から来た」
「外の世界? 何だそりゃ、外国か? 随分と日本語が堪能じゃねえか」
「……まあ、遠いところだ」
多くを語ろうとしないエレンの態度に、真希は何か複雑な事情があるのだと察した。
「ふーん。まあいい。で、階級は何級なんだ?」
「階級?」
エレンは首を傾げた。調査兵団の兵士や兵長といった階級のことだろうか。
「『外の世界』には、階級という制度はなかったからな。なんだそれは」
「はあ? お前、呪術師のランクも知らねえのか。五条の馬鹿から、紙みたいなやつ貰わなかったか?」
「紙……?」
エレンは自身のズボンのポケットを手で探った。そういえば、目を覚ました時にあの眼帯の男から何かを渡された記憶がある。
「これのことか?」
エレンは少ししわついた一枚の辞令を取り出し、真希に渡した。
真希はそれを開き、目を落とした瞬間。
「……は!?」
彼女の目が限界まで見開かれ、素頓狂な声が裏返った。
「特級ぅぅっ!?」
その叫び声に、伏黒、釘崎、パンダ、狗巻の四人も一斉に顔を向け、驚愕に目を見開いた。
「と、特級!? こいつが!?」
「すじこ!!」
全員が信じられないという目でエレンを見る。
「特級と言われても、俺には意味がわからないんだが」
エレンは一人、置いてけぼりを食らっていた。
真希は頭をガシガシと掻きむしりながら、声を張って説明した。
「いいか!? 呪術師には実力に応じて四級から一級までの階級がある! 二級でギリ単独任務を任されるレベルだ! そして『特級』ってのは、その規格外! 分かりやすい例で例えるなら、単独で国家を転覆できるレベルの化け物にだけ与えられる称号なんだよ! 日本にたった四人しかいねえんだぞ!!」
「……そうなのか」
エレンは、ただ一言、無表情にそう返した。
「『そうなのか』の一言で済ますな!!」
「リアクション薄すぎでしょあんた!!」
パンダと釘崎が一斉にツッコミを入れる。
だが、エレンの心の中は冷め切っていた。
(単独で国家を転覆できるレベルの化け物、か……)
皮肉なものだ。前の世界で、自分はまさに「地鳴らし」という力を使って、国家どころか世界そのものを踏み潰し、数え切れないほどの罪のない人々を殺戮した。
いくら第二の人生を貰おうと、この世界で「特級」などという物騒な称号を与えられようと、あの時の炎の熱さ、血の匂い、人々の断末魔は、永遠に自分の脳裏から消えることはない。
逃れられない血塗られた運命に、エレンは静かな苛立ちを覚えた。
「……まあ、丁度いい」
パンダがポンと手を叩いて、強引に話を進めた。
「伏黒、釘崎、そしてエレン。お前ら三人、『京都姉妹校交流会』に出てくれ」
「交流会……?」
釘崎が聞き返す。
「本来なら二、三年のメインイベントなんだけどな」
真希が腕を組みながら説明を引き継ぐ。
「三年のボンクラが今、停学をくらってて人数が足りねえんだ。だから、お前ら一年に出てもらう」
「京都の呪術高専との、一種の対抗戦だよ」
パンダが補足する。
「ルールは簡単、先に指定された呪霊を祓った方の勝ち、とかそういう感じのやつだ。要するに、殺し合い以外の呪術合戦だな」
ここまでパンダが言うと、嫌な笑みを浮かべて、補足する。
「つってもそれは建前で、初日が団体戦、二日目が個人戦って決まっている」
「個人戦団体戦って……戦うの!?呪術師同士で!?」
釘崎は想定外の情報に、驚愕する。
真希がニヤリと笑う。
「ああ、殺す以外なら何をしてもいい、『呪術合戦』だ」
釘崎は、「えぇ……」と言わんばかりの表情をする。
「仲間が死んで凹んでる時期かもしれねえが……強くなるしかねえだろ。それに、そこの『特級』エレンの実力も、じっくり見てみたいしな。勿論、出るよな?」
伏黒と釘崎は、一瞬の迷いもなく顔を上げた。
「やります」
「当然でしょ」
彼らの眼には、虎杖の死を乗り越え、強くなろうとする確かな意志が宿っていた。
全員の視線が、エレンに集まる。
エレンは夕焼けに染まる空を見上げ、少しの間、沈黙した。
どこまでいっても、戦いばかりだ。巨人が呪霊に変わり、兵団が高専に変わっただけで、結局自分はまた、血生臭い闘争の螺旋の中へと身を投じようとしている。
本当に嫌になる。
だが、ここで立ち止まることは、エレン・イェーガーの性に合わなかった。
「……やる」
エレンは深く息を吐き、そう答えた。
その瞳の奥には、また新たな戦いへと向かう、暗く冷たい炎が静かに灯っていた。